2015年4月29日水曜日

千徳神父様 金祝記念ミサ

4月29日(水・祝日)午前11時から、宮前町教会・湯川教会主任司祭 使徒ヨハネ 千徳康雄神父様の司祭叙階50周年記念ミサがカトリック北一条教会で行われました。
ミサは、勝谷司教様と司祭19名による共同司式により執り行われ、200名ほどの信徒が集まり、千徳神父様の叙階50周年を祝いました。



花束贈呈


御ミサの後、教会に隣接する「聖園こどもの家」に場所を移し、祝賀会が行われました。


叙階50周年の御絵



2015年4月26日日曜日

復活節第4主日 世界召命祈願の日

札幌でも桜が咲きました。
教会の隣「聖園こどもの家」の桜です。


今日の世界召命祈願の日は、1964年に教皇パウロ6世によって制定されました。
神はすべての人が誠実に自分の生涯を過ごすように招いています。
ある人は、社会のなかの様々な職場で働く人として、また、夫、妻、父、母として、良い家庭を築くように。そして、ある人は、神と人とに仕える司祭、修道者となるように招かれています。神の招きはこのように人それぞれ異なりますが、自分に対する神の望みを祈りつつ探していくことが大切です。


2015年4月19日日曜日

復活節第3主日 ”あなたがたに平和があるように”

先週から今週の福音で語られる弟子たちの姿をとおして、私たちの信仰について黙想してみましょう。


後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。

『昨日、伊達のカルメル会聖テレジア修道院で、創設者である聖テレジア生誕500年の記念ミサが行われたので行ってきました。聖テレジアは、幼くして帰天した小テレジアと大テレジアがおりますが、修道院を設立したのは後者の聖人になります。

さて、主の復活をお祝いしてから、二回目の主日を迎えています。
先週は、弟子の一人であるトマスが不在の時にイエスが現れたというお話でしたが、今日の福音と同じように、その時もイエスが現れたとき、弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と語りかけています。このイエスの挨拶の言葉は、弟子たちが不安におののくなかで、弟子たちの心を落ち着かせ、励ます言葉でもあったと感じます。
弟子たちはイエスが現れた時、恐れおののき亡霊を見ているのだと思った、とルカは復活の出来事を記しています。先週のヨハネの福音書においても、彼らは戸に鍵を掛けて部屋に篭っていたと記されており、イエスが亡くなったことによって落ち着かない状態が続いていたということがわかります。先週から今週の福音を読んでいくと、既に一度、弟子たちはイエスの復活した姿を見ており、声も掛けられていたにも関わらず、再び現れた時には恐れおののき亡霊を見ているかのように、まだまだ疑いの心が晴れていない弟子たちの様子が記されています。ですから、疑ったのはトマスだけではなく、どの弟子たちにもそうした不安があったのだと思います。
そのことを考えてみると、私たちの心の中にも、そういう思いがきっとまだまだ残されているのではないかと思います。復活した主が自分の目の前に現れたら、私たちは一番最初に何を考えるだろうか?そんなことを私は自分なりに黙想します。自分の信仰はどこまで、復活の主を信じて、神の心を受けられる状態になっているのだろうか。
エマオの弟子たちもまさに、同じようでした。旅の途中、どのようにして自分達が見知らぬ人と出会い、話をしていたにも関わらず、復活の主だとは見抜けず、ずっと時間を過ごしてしまった。でも自分達は、長い時間を過ごす中で、私たちが出会った人は復活したイエスだと気付いたという、そのことを他の弟子たちに報告していたのです。それは今の私たちの典礼であるミサを象徴するイエスの最後の晩さんの時に示された姿、言葉を聞いたときに初めて、復活した主が自分達の目の前にいるということに気付いたということでした。そして、気付いた瞬間、イエスの姿は見えなくなった、と聖書は記しています。
このエマオの弟子たちもまた、主である先生であるイエスが十字架にかけられて死んでしまったと落胆し、弟子たちの元から離れエマオへの旅を続けていたのです。憔悴し、もうイエスとは離れてしまったという気持ちでいたと思います。イエスの死によって、この二人の弟子の失望もまた、あまりにも大きかったのだと思います。ですから、今出会った人が復活の主イエスであることに気付くまでには時間が必要でした。それほど心が鈍くなっていた。心の鈍さというのは、トマスの心と同じ状態を聖書では表現しています。それは疑う心、信じることが出来ない心を、心の鈍さと表現しているようです。
信じるものの心は、落胆し、失望し、沈んだ心になることではなく、内から燃えていくという心でなければならない、と聖書では読み取れます。ですから、私たちが神を信じる、イエスを信じるという心の状態は暗い心ではなく、もっと明るく、希望に満ちて生きる心を持たなければならないと思います。
神を信じるなら、イエスを信じるなら、顔を下に向けるだけではなく、しっかりと顔を上へ向けて、希望を持って、生きられるはず、そういう力を神様は私たちに下さっているはず、私たちはその力をつかみ取っていないがために、不安になったり、信じられなかったり、希望が湧き上がって来なかったり、という状態になるということかもしれません。』

2015年4月12日日曜日

第17回カテドラルコンサートのご案内

当日券も用意してございます。

多くの皆さまのお越しをお待ち申し上げております。


 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

復活祭から一週間が経ちました。私たちの心にはまだ復活の喜びが溢れているでしょうか?




後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『昨年の復活祭は函館で迎えましたが、江差教会も担当していましたので、函館で復活の主日ミサが終わると、一時間ほど車で走り江差へ向かいました。昨年の今頃も車での道すがら道路脇に福寿草が黄色い花を咲かせていました。札幌にいると、なかなかそのような風景にはめぐり合いません。

イエスは復活した後、今日のヨハネの福音をはじめ、4人の福音史家は、それぞれ見聞きしたことに従って復活の朝の出来事を聖書にしたためています。
そして、復活したイエスが、ペトロをはじめ婦人たち、そして他の弟子たちの前にも現れたということを記述しています。
今、目の前に立っている方が、自分達と一緒に過ごしてきたその主イエス・キリストであると、命を父なる神に捧げた方、そしてその死に打ち勝って復活したイエスであるということを、弟子たちはどこまで信じ、受け入れることができたのだろうか?と、そんなことを今日の聖書のみ言葉からも、私たちは黙想することができます。
復活したイエスであることを認め、確信するまでには、弟子たちにとっても少し時間が必要としたようです。そして、なかには復活を疑う弟子たちもいたということが今日のテーマになっています。でも復活後の弟子たちが共に過ごしていた人々の生活は、ずい分と変わっていったという様子が、今日の第一朗読で書かれています。復活を体験した人々が時間の経過と共に変わり、活き活きした様子・活動についてのべられています。この第一朗読でみると、本当に理想的な共同体がつくられていたのだと感じます。

イエスの死の直後、復活したと言われても復活の実感が伴わなかった弟子たちであったけれそ、時間の経過と共に、復活したイエスに出会いイエスの言葉を聞いていくなかで、イエスであることに間違いはないと確信していきます。復活体験から信仰そのものが変わっていきます。そして強い信仰に変えられていきます。聞いていた一言一言が真実であったということを。そして、弟子たちの生活も変わっていったようです。イエスのかつて語られていたみ言葉、そして教えを思い起こしては互いに確認し合うようになります。弟子たちのなかには、そのことを貴重で大切な教えとして、メモ書きする人も現れてきます。こうしたことが聖書を現実のものにすることにつながっていきます。
ただ思い起こすのではなく、ただ確認するだけではなく、弟子たちはそのことを自分達の生活の中で行動で表さなければならないという信仰に変えられていきます。そうした弟子たちのもとには、さらなる人々が集うようになりました。このように次第に弟子たちの共同体も大きく膨らんでいきます。そしてその共同体の中では、兄弟愛が活き活きと活かされるそういう人間関係も生まれていきます。皆一つになって、全てのものを共有し、心も思いまでもが一つになる共同体がつくられたというのが、初代教会のスタートでもありました。イエスが最後の晩さんで制定したパンを裂く儀式は、何よりも喜びと真心をもって、実践していくという流れも生まれました。揺るぎない信仰に基づく彼らの生活はひたすら感謝と平和が満ち溢れる、そういう生き方に変えられていきました。
まさに私たちが目指す神の国は、そこに誕生したかのように、そういう初代教会がつくられようとしていました。
初代教会のなかに実現したこうした共同体の喜びは、私たち現代の教会共同体の中にどこまで生きているでしょうか?そんなことも私たちは、自分達の共同体を省みながら、そして私たち一人一人の信仰を見つめながら、反省するところは反省しながら、私たち教会共同体の新しい出発を考えていければと思います。』

2015年4月6日月曜日

復活の主日

主の御復活おめでとうございます。

今日、聖堂には溢れんばかりに、300人以上の方が復活祭ミサに与られ、共に主の復活を祝いました。




昨夜の復活徹夜祭では、お二人の方が洗礼を、お一人が初聖体を受けられましたが、私たちも皆、使徒パウロが「キリストと共に死ぬ」と説明された洗礼の、約束の更新を行いました。御復活ミサの後は、カテドラルホールに移り、昨日の復活徹夜祭で洗礼を受けられたIさんとAさん、初聖体を受けられたOさんと、改めて御復活の喜びとを共にしました。そして、一足早く共同体に加わられていたOさん、新しく共同体加わって下さったIさんAさんと共に、新しい共同体を作って行ける事に感謝をしました。
所で、昨夜は、復活徹夜祭の後で皆既月食を観た方が大勢居られたと思います。当地でも、札幌テレビ塔の上に薄らと赤銅色に染まった皆既月食を観る事が出来ました。皆既月食は2~3年毎に観られるようですが、復活徹夜祭と皆既月食が重なったのは何十年振りでしょうか?毎年、当たり前のように復活祭を迎えますが、今年の復活祭は今年だけの復活祭です、Iさんと、Aさんが共同体に入って下さった復活祭は今年だけです。今年の復活祭では、今を、今の信仰を、今の共同体を大切にすることに改めて思いを強くし、私たちに信仰の大切さを教えて下さった、キリシタン時代から続く多くの先達への感謝を新たにしました。


<後藤神父様のお説教概要です>

『キリストの復活おめでとうございます。
この1年の歩みは新しい教会での仕事、色々な意味で戸惑いや、新しい出来事、沢山の行事を通して色々な経験をして来ました。この聖週間、特に聖なる3日間は地主司教様、勝谷司教様と、3人の共同司式の形で行った典礼も、私にとっては新しい経験でした。また、遅い時間にもかかわらず、待者として奉仕して下さった子供たちの姿が、私にとってはとても大きな喜びであり、今日は、私には特別な復活祭の朝でした。
イエスが十字架に架かるまでの道行を見つめ、拭い様のない心の不安と、イエスが死んでしまったという寂しさ、自分たちの力で救う事が出来なかった弟子たち、そしてイエスの裁きは残忍に人目に晒す十字架の死という結果になりました。
イエスの死を現実にして、不安に過ごした弟子たち。マリア様を始め多くの婦人たち、すぐにでも遺体を引き取りたくても、キリスト者への軋轢を考えての戸惑い。思い切った行動に出る事が出来ず、墓の石を開けられるか考えながらも、じっとしていられない婦人たち。今日の福音、2000年前の聖書の中にも力強い女性の姿が描かれています。残念ながらそこに男性たちの姿は見られません。昔も今も女性は強いと思います。墓に着くと、石は既に取り除かれていて、イエスの復活を想像できない戸惑う婦人たちの姿が描かれています。遺体が無い事を弟子たちに伝え、そして漸く男性が現れます。ペトロは遺体が無い事を自分の目で確認して信じた、でも見て信じたのはイエスの復活ではなく、出来事そのものを信じたのです。イエスが死者の中から復活したことを理解するのにはもう少し時間が必要でした。
このことは私たちと非常に共通します。私たちも出来事に驚いても、この世の出来事としか考えられない事があります、この地上の事にのみ心が奪われる事があります。
パウロは「キリストが神の右の座についておられます、上にあるものに心をとめ、地上のものに心を引かれないようにしなさい」という言葉を残されました。私たちは現実を大事にして、心を上に向けず、この世に心を向けて思い煩う事があります。でも、大切なことは神に心を向けること、というのがパウロの諭し、戒めなのです。
弟子たちが帰った後、イエスと出会って新しい命の道を歩き始めたマグダラのマリアに主があらわれます。マグダラのマリアはイエスの愛によって救われた一人の女性でした。イエスと出会って洗礼によって主と結ばれた私たちも新しい生き方に向かっています。一切の苦難と、死の彼方には復活の永遠の命が待っているということを、今日あらためて心の中に留めたいと思います。この世界には様々な苦しみ、悲しみといった大きな壁が私たちの前に立ちはだかっていることがあります。でも、私たちが目指すのは、この世のその場所だけではなく、そこを通り過ぎて神の永遠の命の世界に招かれていることを忘れてはならないと思います。今日はその希望を新たにして、新しい出発を決心したいと思います。私たち教会共同体に新しい兄弟を迎えて、私たちの教会だけでなく、広く日本の教会が世界の教会にも目を向けて、祈りを奉げられる、そういう一人ひとりになれればと願っています。』

「復活の主日」アルバム



















2015年4月5日日曜日

復活の聖なる徹夜祭

キリスト教で一年のうち最も盛大で中心的な典礼であるキリストの死と復活を祝う祭儀が4月4日(土)の夜行われました。

聖堂に隣接するカテドラルホールに信徒が集まり、勝谷司教様により火の祝福が行われました。


復活のローソクが祝福されました。


新しい火が祝福された復活のローソクに灯され、司祭が「キリストの光」と唱えるなか、行列は聖堂へと進みました。




復活賛歌が歌われた後、ことばの典礼に移り、旧約聖書から7つの箇所が朗読されました。

 

福音朗読と勝谷司教様のお説教の後、洗礼式・堅信式が行われました。



洗礼の約束の更新の後、聖堂に集まった信徒は司教様から聖水を受けました。


この夜、2名の方が洗礼・堅信を受けられ、初聖体を受けられた1名の方と共に、新たに共同体に招かれました。





2015年4月3日金曜日

聖金曜日(主の受難)

聖金曜日(主の受難)


この日の祭儀ではヨハネ福音書から受難の朗読が行われました。捕らえられたイエスが裁判にかけられ、十字架の死に至るまでの様子が語られました。
後藤神父様はお説教で「十字架につけられ想像を絶する苦しみ悲しみのなかにあっても私たちに深い愛を注がれたイエスについて黙想しましょう」というお話をされました。

十字架が顕示され、その後、十字架の礼拝が行われました。






御聖体がカテドラルホールの仮祭壇から聖堂へ運ばれ、聖体拝領が行われました。