2015年8月30日日曜日

年間第22主日

今日の主日ミサは、勝谷司教様と後藤神父様の共同司式により行われました。


勝谷司教様のお説教の一部をご紹介します。

『今日の福音朗読にあるファリサイ派の人たちの弟子達に対する批判、
「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、 汚れた手で食事をするのですか。」
というのは、一見、律法の解釈の論争のようにも言えますが、そうではなく、むしろ根本的な態度の違いが現れています。
ファリサイという言葉は、「分離する」という意味があるそうです。この世の汚れから分離して聖なる生き方をする。彼らにとっての聖なる生き方というのは、先人から伝えられた伝承を好むということです。
ファリサイ派の人が表現した「汚れた手」というのは、いろいろな人との交わりを意味するものですが、イエス様は、倫理的に正しい人、正しくない人も含めた雑多な人たちとの交わりの中で生きるという姿勢を示されました。
イエス様が2000年前にお示しになったこの態度を省みて、カトリック教会そして私たちはどちらの側に立っているのかということが問われます。
世間から自分達を分離して、自分達の聖なる世界に生きようとしているのか、世界との交わりに向かっていこうとしているのか?
今の教皇様はしきりに「出向いていく」という言葉を使われますが、この「出向いていく」というのはまさに、このことを表すものです。
では、私たちは一体どこに出向いて行ったらよいのか?
これは私たち共同体が判断して決めていくことです。
私たちの中には、教会に集う人たちは、倫理的に正しい人たちでなければならないという錯覚のような思い込みがあるかもしれません。
しかし今、シノドスで取り上げられている重要な課題は、離婚・再婚した人たち、いわゆる性的少数者と言われている人たちのことであり、そういう人たちが教会から排除されているという現実があります。教皇様は、そういう人たちも大切であり、彼らは決して破門された人たちではないと言っています。
私たちにも、宗教生活の在り方というものを見直す姿勢を持つことが大切です。』


御ミサの後、今後の司教館敷地の有効活用について、勝谷司教様と諮問委員、司教館事務局による説明会が行われました。
敷地内にある司教館をはじめベネディクトハウス等の建物は老朽化が著しく、早期に対策を講じる必要性があるとのことで、3年前から信徒の金融・建築関係の専門家からなる諮問委員による20回以上に及ぶ議論が重ねられてきたとのことです。
今日の説明会では、基本方針、検討の経過と資金繰りも考慮した具体案について提示され、多くの信徒から質問、意見が出されました。



2015年8月28日金曜日

年間第21主日

昨日22日午後1時30分から今日23日午後1時まで、藤女子大学を会場に「日本カトリック障害者連絡協議会第12回全国大会 障がいと共に歩む札幌大会」が開催されました。
北一条教会からも大会サポーターや参加者が多数おられ、聖堂の前列側の空席が目立つ中、ミサが始まりました。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

五つのパンと二匹の魚で5千人という大群衆を養った奇跡の話しから始まって、ずっと神のお話し、そして聖体に繋がるお話し、命のパンのお話しが今日まで続いて、福音は私たちに語りかけてくれます。
「わたしを食べる」というイエスこそ、命のパンであるとしたテーマは、先週から永遠の命というテーマに変わってかわって私たちに語られます。でも、そのパンをめぐり、イエスと群衆との対話が続き議論もおこったというのが、先週と今週の聖書のお話です

 イエスが会衆そして私たちに説明されます。パンは単なる飢えを満たす食べ物ではない。イエスは自分自身が命を養う食べ物であり、食物であり、信仰を支え養う霊的な食べ物であるとも話されました。それがご聖体にあるということです。ご聖体は神の恵みの、永遠の命に結びつけるイエス自身の体である、肉であるというお話でした。私たちはそのことをどういうふうに受け止めているのでしょうか。私たちはそのことを信じると明確に宣言できているのでしょうか。そのご聖体をいただくためにも、私たちはミサに足を運んでいるはずです。そのミサは「最後の晩餐」の型どりとして主の食卓である祭壇を中心に、主の死と復活を記念しながら、私たちは祈りを捧げるというのがこのミサでもあります。私たちはイエスの時代に生きた人たちと同じように、神の恵みに与るものとして、ミサを通してイエスの体であるパン、ご聖体に与っていこうとしています。これは、まさに「信仰の恵み」そのものではないでしょうか。信仰なくしてこのイエスの体をご聖体として受けとめることが出来ないはずです。

 でも、天から与えられたマンナから始まって、奇跡のパンについて神から与えられ支えられている、命に欠かすことの出来ないこのパンについて、人々は驚きながらもまた「つぶやき」始めました。激しい議論さえそこにおこってしまいました。今日のみ言葉でもまさに、そうした光景を表しています。でも、イエスは先週も話したように忍耐強く冷静に説明を続けています。イエスは神です。神の子です。全能の力を持っておられる方です。ですから、イエス自身最初から、信じない者は誰であるかを最初からご存知の方です。また、ご自分を裏切る者が誰であるかもう知っておられる方。そういうイエスを前にして「とんでもない話しだ。」とつぶやく人々が今日描かれています。「つぶやく」とは理解しない心や態度を持っている人々のことを言うようです。最近、インターネットの時代、パソコンを使って会話が出来るようになって、つぶやくということは短い言葉で意見を交換するという、つぶやき、ツィッターのお話ががでていますが、聖書に現れているつぶやきというのは、疑い、それを受け入れない人のことを指しているようです。ですから今、私たちが心の中でひとこと、ふたことつぶやくと言うとき、随分違った意味で解釈されたようです。つぶやく、大体そういうときはとんでもない話しになっているときではないでしょうか。とんでもない話しをしていた時、私たちはあれこれとつぶやき始めるような気がします。ですから、私たちの日常生活の中でも、とんでもない話しが時々、飛び込んで来ているような気がします。考えられない話しを聞いたり、体験したり、そうしながら私たちはそのつぶやきの内容から、一喜一憂することもたくさんあるのが、私たちの生き様だと思います。

 み言葉の中では、そうしたつぶやき、論争の後、群衆だけでなく、イエスに従っていた多くの弟子達でさえ離れ去ったと記されています。でも、多くの人たちは離れ去ったけれど、選ばれた12人の弟子達はイエスのもとに留まっていたようです。それで、イエスはその12人の弟子達にも声をかけました。「あなた方も離れていきたいか。」自分のもとを去った弟子達や多くの群衆たちを見ながら、最後に残っている12人の弟子達にでさえ、イエスはこういった質問をかけざるを得なかったその心情を切ないものとして感じるのは私だけでしょうか。きっと、皆さんもこの光景を思い描くとき、イエスの心情にも触れることが出来るのではないでしょうか。イエスのもとに留まった12人の弟子達を代表してペトロが答えました。
   「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。
    あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
    あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
 ペトロの信仰告白は、12人の弟子達を代表する信仰告白、返事でもあったような気がします。ペトロは個人的に私ではなく、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょう。」と答えています。まさにペトロは今は大きく自分の信仰が変わって、イエスに信頼するリーダー的な弟子になっている、そういう答えを私たちは感じると思います。12人の弟子達はイエスに深く繋がっている共同体として、イエスに一致していたそういう信仰告白をペトロが代表しての答えであったような気がします。
 ペトロを代表とする弟子達の一致、共同体の深い繋がり、私たちはそこに大きな希望や慰めも感じることが出来るような気がします。このペトロの信仰告白、イエスに対する質問の答えが今、私たちのミサの中でも毎回繰り返される信仰告白となって儀式として大切にされているものです。私たちがミサの中で聖体拝領を直前にして信仰告白をしています。司祭が「神の小羊の食卓に招かれたものは幸い」と宣言したときに、皆さんは答えています。「主よ、あなたは神の子キリスト。永遠の命の糧。あなたをおいてだれのところにいきましょう。」これは、今日の聖書のペトロの言葉から、ミサの中の儀式、祈りの言葉として、今日まで大切にされてきているものです。私たちがご聖体を拝領する直前、イエスのからだを受ける直前に信仰告白をする、その言葉はペトロの信仰告白にも繋がっているということです。ですから、私たちなりに考えますけれど、2000年前、イエスの問いに答えたペトロ、そして12人の弟子達と同じように、今日、私たち自身がミサの中で命のパンであるご聖体をいただく前に、その信仰を告白し、宣言していることを考えると、まさに私たちカトリック教会の教義、信仰は使徒伝承の教会であり、信仰を受け継いでいると考えが及びます。自分の信仰でありながら、教会の信仰、そして使徒たちが伝えた信仰を、私たちも生きているんだとならないでしょうか。そう言う意味では信仰告白、使徒信条の一言一言が、日曜毎に繰り返されていますが、まさにそうした祈りの中で、現在の信仰も、イエスの時代の信仰も、ひとつとして今日まで繋がっているんだという意識もできるのだと思います。信仰はひとつというのがカトリック教会の大切なひとつですが、それを私たち 一人ひとりが生きているんだ、受け継いでいるんだということにもなってくるのだと思います。

 命のパンをいただくこのミサ聖祭の中で、この信仰告白の直後に司祭が祈っている言葉があります。皆さんはそのことをご存知でしょうか。実際に司祭は無言で沈黙のうちに祈るものとされています。それは「キリストのからだが永遠の命の糧になりますように。キリストの血が永遠の命の糧になりますように。」最後の晩餐を記念するこのミサ、キリストの死と復活を記念するミサの中で、キリストの御からだが霊魂の糧として私たちに与えられことを賛美し感謝するこのミサ、わたしたちにとっても大切なものになっていると思います。  

 少し苦言を言いますけれど、時々私は話し合ってきましたが、ミサはやはり祭壇を中心にして私たちが最後の晩餐を記念し主の復活を記念する、そういう祈りから始まっていると話してきました。でも、今日もまた、ミサの入堂のときに後ろから入って来て、祭壇の近くの席が一番多く空席になっているということを感じながら入ってきました。祭壇を中心にミサを捧げるのが大切なのにあるはずなのに、祭壇から離れてしまうのはどういうことかなと考えてしまいます。もしここにイエス様の姿があるのなら、わたしたちはどういう態度をとるのでしょうか。イエスに近づきたい、イエスに触れたい、イエスを間近に見たいと近づいて来るのではないでしょうか。でも、イエスが中心となる祭壇を遠くから眺める、ちょっとひどい言葉を使うと「見学をする」ようなかたちでミサに与っているのではと、私たちの信仰が問われるかもしれません。私たちの信仰、そしていのちの糧をいただくためにこのミサをともに祈っているはずの私たちが、いただくものはいただくけれども、どこまでいっしょに祈ろうとしているか、どこまで共同体として心をひとつにして主の祭壇の前で一致しようとしているのか。そんなこともわたしたちは自分の信仰に照らして考えてみる必要が時にはあるかもしれません。慣れてくるとだれにも起こりうることですけれど、それが当たり前になって過ぎていくようなきがします。

 新しい日本のミサも改正されて、それに伴う新しいミサの動作も変更されるようで、11月の待降節から実施するように奨められています。一部の変更の内容はすでにわたしたちの手許に入ってきています。まだ、皆さんはお読みになっていないと思いますが、最近発行された札幌教区のニュース、受付のテーブルにありましたが、その中にも今回改正された内容が多くのページをとって載せてあります。11月までには教会としても学習会、説明会をしようと思ってはいますが、今日は教区ニュースを持って帰って 少し見てほしいなと思います。
 今日、私は私自身も慣れていかなければ成らない要素はたくさんありますので、この福音を読むときに、今までであれば「主は皆さんとともに」と言って両手を広げ、福音書に十字架の印をしていましたが、気づいた方はおられないかもしれませんが、今日は「主は皆さんとともに」というときに手を広げずに、手を合わせたまま呼びかけたのです。これも新しく変えられたところになっています。これから機会をつくって説明しようと思いますが、小さなことですがいくつかの要素が変わっていこうとしています。時には慣れない動作、抵抗がでてくるかもと思っています。もうひとつ付け加えて言うならば、「ヨハネによる福音」と宣言した時、私は聖書に十字架の印をしますが、かつて皆さんには額に、口に、胸に十字架の印をしている人がおられる、習慣がある方もおられると思います。今回、11月からまた元にもどるという形に日本の司教団は、いやもともとはそういうふうにしていることになっていたのですが、日本の教会は、日本人の伝統・習慣にそってそぐわない面もあるので、省略されていることも認められていたこともあるので、だんだん教会によってはそれはしなくても良いよとなったりして、
今日に至っているのです。 
  教会でカズラを着けるのもそうなんですね。元々はカズラも使うことが原則としてあったのですが、それぞれの国の伝統、習慣や新しい典礼の改革の精神から始まって、簡易祭服といってスータンの上に白い長い服を着ていますが、それでもそのカズラを着てミサを捧げるのと同様に認めるということがずっと続いていたことで、こうしたカズラを使わなくてもミサは捧げられるということで、今日まで続いた。
 でも、今回また原則に戻って少なくても、平日もするようになっていますが、司祭は、特に司式司祭はカズラを着用するようにと変わってきています。ですから小さいことも含めながら、特に司式司祭は動作も変わってきています。教会のミサでは立ったり座ったりする二つの祈りの姿勢が、今回改めて説明するかたちになります。そして、出来るだけ教会の信者の皆さんは動作を共同体としてひとつに相応しいかたちとして行われるようにと話されています。自分の趣味とか信仰で自分なりの動作をしたいというよりも、動作も一致して捧げられるようにと奨められるようになっています。これは宣教するということも少しその意味が加えられています。初めて教会に来た方が信者の祈りの姿勢とか動作がバラバラであったら、一致がそこになかなか見えてこないかもしれません。皆さんが姿勢も動作もひとつになって祈っている姿が、教会は本当にひとつなんだと動作からも感じることが出来ると思います。

 そうした様々な理由があっていくつかの要素が変わっていこうとしています。それも私たちは、伝統、習慣が少しずつ今日的なかたち変わったり、基本的なものに変わっていくことで
受け止めていかなくてはならないと考えています。いずれにしても私たちは、ごミサがどんな要素をもって信仰の中に大切にいていくか考えながら、ひとつになって祈ることが出来ればと思います。

  今日もこうして共に集まって主の食卓を囲んでいます。感謝の祈りを捧げます。私たちに新しい出会いと希望に満ちた新しい歩みの恵みを与えてくださるように、心から祈りたいと思います。8月も残すところ1週間です。秋が近づきました。わたしたち一人ひとりの上に命のパンを通して養ってくださる神に、その心から感謝しながら信仰を見直し、新しい出発が出来るよう祈りあいたいと思います。
 今日は、カトリック障害者連絡協議会全国大会 障がいと共に歩む札幌大会が開催されています。全国から500名にのぼる参加者があります。からだの不自由な人を含めて札幌に集まりひとつになって祈っていいます。わたしたちはこうした方々にも心をあわせて、このミサの中で祈りを捧げていきましょう

2015年8月23日日曜日

カ障連札幌大会が開催されました -主の食卓に招かれたものは幸いー

8月22日(土)~23日(日)、札幌市北区にある藤女子大学において
2015年・カ障連第12回全国大会「障がいと共に歩む札幌大会」が開催されました。
両日ともに主の祝福を感じられるような穏やかな天候に恵まれました。

藤女子大学「キノルド館」


担当司祭 場崎洋神父様(大会を前に)


カ障連、日本カトリック障害者連絡協議会は、1982年7月にカトリック教会に所属する障害者を中心に連帯と交流を図ることを目的として結成されたカトリック教会の中にある障害者団体の横の連絡機関です。3年に一度、日本各地で全国大会が開催され、第12回目の今回は初めての北海道での開催となりました。
今大会の準備は前回の名古屋大会が終了した3年前にスタートしました。担当司祭の場崎神父様指揮のもと実行委員会が結成され、事務局長である菊地秀治さんを中心としてサポーターの輪が徐々に広がり準備が進められました。
最終参加者数は名簿上で483名、道外から約180名の参加があり、遠くは鹿児島教区、長崎教区からもいらっしゃいました。


大会運営を支えたボランティアのサポーター総数は180名。田中恵さんがデザインされた「わ」の文字がプリントされたお揃いのTシャツを身に着けて、案内、受付、会場、記録、典礼、会計、手話通訳、など様々な係りで役割を担当し、大会準備と当日の運営を支えました。

田中恵さんの作品「わ」



また、信徒によるサポーターの他に、要約筆記サークルの「ふきのとう」さん、「くまじー」さんの皆さんが1日中、聴覚障がい者向けに音声をパソコンで字幕に変換し表示される作業を担ってくださいました。

要約筆記サークルの方々


【1日目】
1日目の22日(土)午前11時からは、3年毎の大会と併せて開催されているカ障連総会が行われ、役員の改選などが決議されました。


昼食を挟んで、午後1:30からは開会式が行われ、カ障連会長 宮永久人さんから今大会の意義と今後目指す方向性についてのお話があり、続いて札幌大会実行委員長 高橋幸夫さんと札幌教区の勝谷太治司教様からは、参加者へ向けて「ようこそ札幌へ」という歓迎のお言葉がありました。

勝谷太治司教様(札幌教区)のご挨拶


カ障連会長 宮永久人さんのご挨拶


札幌大会実行委員長 高橋幸夫さんのご挨拶



続いての講演会では、北海道医療大学教授で福祉施設「浦河べてるの家」理事である向谷地生良さんが「病気の力~幻聴さんいらっしゃい~」と題して、4名の施設メンバーの方と共にお話しをされました。統合失調症というなかなか社会の中では理解されない障がいを抱え、社会の中で行き場を失くしかけた現メンバーとの出会いから、現在の浦河べてるを設立するまでの経緯、そして現在の活動の様子を、ユーモアを交えながらお話しをされました。
時折、会場は笑いに包まれましたが、統合失調症を患い幻聴・幻覚に悩まされる日々を、あからさまにさらけ出し、笑いに変えられるまでに至るには、一体どれほどの辛苦や絶望があったのか・・・。
周囲が、彼らの病気を障がいとして理解し受け入れることのできる寛容さ、障がいを抱えながらも生きがいを持って生活できる場の必要性を痛感させれました・・・。

講演会の様子



講演会の後は、10課題、29グループに分かれ分科会が行われました。

18時からは会場を移し、約200名が参加し懇親会が行われました。


【2日目】
2日目は、前日の分科会で話し合われた内容について、課題ごとに代表者の方から全体発表会が行われました。
教会が障害者とどう向き合い、どう受け入れていくのか、どうしたら共に「主の食卓」を囲むことができるか、など、教会や個人が抱えている課題や提言などが発表されました。


11:30分から、参加者全員がミサに授かりました。
勝谷司教様と12名の司祭団の司式により、共に「主の食卓」を囲み祈りを捧げました。



閉会にあたり担当司祭の場崎神父様から次のようなご挨拶がありました。

「皆さんここに来て下さり本当に有難うございます。
そして今日、イエス様が降りて来て下さいました。
私たち、障がいと共に歩む実行委員会は3年ほど前に発足いたしました。本当に希望を持ちながら前に進んで行こうという思いで一杯でした。いろんな事にも直面しました。それはまるでイエス様が、3年近くの公生活その間に弟子達がイエス様の後に従うような感じで、私たちは本当に弱い弟子達でした。
去年の7月に研修会をここで開きました。その時に、五つのパンと二匹の魚を持っている少年の話しをしました。まさしく私たちはイエス様の前で、五つのパンと二匹の魚しかありませんでした。
でも小さいものでも大きくしてくださる神の恵みを強く大きく感じました。申込みの締め切りが近付いていたとき、どんどんと参加者数は増え400名を超えて、500名になろうとしていたときに、どんどんと力が湧いてきました。イエス様が本当に私たちを招いてくださっていることを感じました。
そして、五つのパンと二匹の魚が今、より豊に、より美しく、より計り知れない神の業によって、よそおって下さいました。
一人一人の人生が主の食卓を囲むための働き手となることを願っています。
イエス様が私たちを招いて、順境や逆境、病気、老いと共に歩んでくださいます。
共にいるイエス様を心に留めて歩んで生きたいと思います。
最後に主に願って祈りを捧げたいと思います。
今回の大会に参加できなかった全ての障がいをお持ちの方々、病の中にある方々の上に、豊かな祝福をおくってくださいますように。私たちが祈りと奉仕によって、神様の働き手となり、神の国の到来を喜びをもって告げることができますように。
皆さん日々招かれている主の食卓でお会いしましょう。
この度は本当に有難うございます。
ご無事の帰宅を最後の最後までお祈りして、最後の挨拶に代えさせていただきます。
有難うございました。」

2日間の日程が終了し、大会は盛況のうちに無事閉幕しました。
今日、私たち一人一人の心と共同体のうちに“種”が蒔かれました。
私たちがこれから、その種を大きく実り豊な実として結ばせることができるよう、主のお導きをお祈りしたいと思います。

- 神に感謝 -

2015年8月19日水曜日

8月19日(水) 今日から水曜日のミサは午前10時からになります。

8月19日(水) 今日から水曜日のミサは午前10時からに変更になりました。
約20名の皆さんがミサに授かりました。
また、新潟教区新津教会から4名の方が加わりました。
平日にミサとしては珍しく、オルガン伴奏が入祭、閉祭の歌でありました。


2015年8月17日月曜日

第18回 カテドラルコンサートのご案内

10月17日(土) 15時から、カトリック北一条教会聖堂において、
第18回カテドラルコンサート「吉村怜子オルガンリサイタル」を行います。
たくさんの皆様のご来場をお待ち申し上げております。



2015年8月16日日曜日

年間第20主日 聖母被昇天・洗礼式・初聖体のお祝い会

子どもたちの夏休みも残り数日になりました。今日の教会は、サマーキャンプで一回りも二回りも逞しく成長してきた子供たち、若いご両親と一緒に里帰りをして少し戸惑いを見せる子供たち、そして、昨日、聖母の被昇天の日に洗礼と初聖体に与り、力強く胸を張る子供たち、様々な子供たちの姿が印象的でした。
また、北一条教会は、昨年まで8月15日の次の主日に被昇天ミサを行っていましたが、今年は昨日の15日、聖母の被昇天の祭日に被昇天ミサを行いました。昨日の後藤神父様のお説教では「北一条教会は聖母の被昇天の祭日にミサをあげるのは何十年ぶり~」とのことでした。15日夜は平和祈願ミサも行われ、子供たちの豊かな表情に包まれた本日の年間第20主日ミサ、そして、その後に開かれた、祝賀会(洗礼、初聖体、被昇天)と、大変充実した2日間でした。過去の慣例を変えるのは難しいことですが、櫻谷委員長の決断に感謝をします。
北一条教会はこの後、9月に年間で最も大切な共同体イベントの一つである「かてどらる祭チャリティーバザー」を開催し、10月には「現聖堂献堂100周年記念事業の1年前準備」が始まり、更には「水曜日の朝ミサ時間の変更」、「共同体、地区活動の活性化」、「教区との様々な調整事項」等々、の山積する課題に対応して行くことになりますが、「教会共同体はオールスターキャスト」をキーワードに東奔西走される櫻谷委員長の下で、カトリック教会の内に存在するキリストの教会、私たちの北一条教会共同体は、神の民としての結びつきをより強くする事が出来ると思います。
 後藤神父様が今日の説教で「聖体を共同体として頂く」とお話し下さいましたように、聖体拝領により、私たちは教会共同体の1メンバーとして、神の恵みに与る喜びを頂きます。

<後藤神父様のお説教概要>
『聖堂前庭に、秋を感じさせるコスモスの鉢が置かれていましたが、被昇天を終え、秋をより強く感じています。
昨日は、聖母の被昇天ミサの中で洗礼と3人の子供が初聖体を受けました、初聖体の勉強の最後に子供たちから「聖体はどんな味がするのですか?」「聖体は噛んで頂いても構わないのですか?」といった質問を受けました。子供たちは周囲の皆さんの拝領の様子を見ていて、自分はどのような思いで聖体を受ければ良いのか、そんな疑問が出てきたのではないかと思います。昨日、子供たちが初めて頂いた、イエスの命のパンはどんな味がしたのか、私の方から質問してみようと思います。今日は、その命のパンのみ言葉でした。皆さんにとって命のパンはどうなっていますか?皆さんはどのように考えているのでしょうか?
「私は天から降って来た生きたパンである、私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉である」。イエスのみ言葉は核心部分に触れるように人々に語られました。「天から降って来た生きたパン」この言葉に人々は驚きます。「パンが私の肉である」という言葉が理解できず、疑問を感じた会衆がそこにいました。彼らはイエスの言葉について行けなくなり呟きます。確かに、信仰をもってこの言葉を受け止めなければ、血、肉、という言葉に抵抗を感じ、異なるイメージに包まれてしまい、簡単には理解できるものではないと思います。聖書の中には肉という言葉は繰り返され出てきます、肉は親しい関係ということも表します。でも、今日のみ言葉の中で語られた「肉」はどうでしょうか?
イエスが与えるパンとは、肉であり、血であり、そしてそのパンは「私を食べるものは私によって生きる」と表現されます。多くの会衆がパンの奇跡に与り、その奇跡を前にした時「あなたは神の子」「主よ」「偉大なる預言者」と叫びましたが、一旦、疑問を感じてしまうと、会衆の思いは激しい否定に向かって行きました。これまでは「イエス」と表現をしていた人々が、イエスという名前さえ口にすることなく、「この人」という呼び方をしています。「この人」という呼び方に人々の心情の変化が感じられると思います。それまでは、イエスを信じ、イエスを追い駆けるようにして集まってきた人々、ある時はその奇跡に驚き、イエスを担ぎ出して「自分たちの王に」と考えた人々でした。でも、一旦、疑問を感じてしまうと、そうした心はあっという間に変化してしまうのです。
それでもイエスは冷静に対応し「はっきり言っておく」という言葉で話し始めます。「はっきり言っておく」この日本語の訳は、聖書では「アーメン、アーメン」という言葉で表現され、「あなた方に私は言う」という意味です。これを日本語の聖書では「はっきり言っておく」と言う訳に変えています。皆さんは「アーメン」はヘブライ語で「真にそうである」という意味、信仰として賛同を表す言葉として使われる、と教えられたと思います。ですが「アーメン、アーメン」と2回繰り返す時は、そうであるということが強調されて使われているという解釈で「はっきり言っておく」という意味に訳されます。
イエスが「アーメン、アーメン」といって話された次の言葉は、最初は否定的で「人の子の肉を食べないなら、あなたたち内に命はない」であり、命が無いとの否定的な言葉に続いて肯定的に「私の肉を食べるものは永遠の命を得、終わりの日に復活させる」と言い換えられ、更に「肉体をも与えられて復活する」と続きます。
今日のみ言葉は、イエスの弟子たちに、私たちに「私は天から降って来た生きたパンである、このパンを食べるならばその人は永遠に生きる」と告げられています。そしてその言葉通り、私たちは、このミサの中で、その命のパンを頂こうとしています。イエスの血と肉は食べものとして私たちの内にあり、イエスは、私たち一人一人に命を与え続けています。このパンを通して、私たちは神との交わりをもたらされています。神との交わりにより深く一致させられるために、私たちはこのパンを大切に頂いています。
アウグスチヌスは命のパンについて「今や、あなたは交わりの中にいる、あなたがそれに共に与るからである、それをともに飲むからである」と言われます。命のパンを私たちに与えるイエス、命を与えるイエスは、更に私たちに血と肉によって完全な命をもたらして下さり、私たちはその信仰を大切にして歩んでいます。ミサの度に頂くこの恵みであるご聖体、天から降って来たパンであって、永遠の命に繋がる恵みのパン、ご聖体、私たちはそれをこのミサの中で共同体として頂こうとしています。感謝のうちにこのミサに与り、イエスの命のパンを頂きたいと思います。命あるものを限りなく恵みで満たし、慈しみを注いで下さる神に感謝をして、今日も主の祭壇の前に心から共に祈りましょう。』



8月16日(日)主日ミサの後、カテドラルホールで聖母被昇天と洗礼式・初聖体のお祝い会が行われました。
教会学校で学んでいる10名ほどの子供達も参加して、和やかなお祝い会になりました。


後藤神父様からお祝いの言葉が贈られました


昨日洗礼を受けたルカ湯本くんです。
おめでとうございます!


子供達に用意されたケーキを取り分けています


聖歌隊の歌





チャリティバザー『かてどらる祭』のご案内


9月13日(日) 午前11時からチャリティバザー『かてどらる祭』を行います。
カトリック北1条教会に集う日本人と外国人、そして「聖園こどもの家」がひとつになって開催します。
食べ物の出店、ステージでの催し物など子供から大人まで楽しめる内容です。
どうぞお気軽にお越しください。

かてどらる祭の収益金は、東日本大震災の義援金に充てられる他、カトリック福祉団体である、みなずき会(ホームレス炊き出し支援)、札幌マック、カリタス家庭支援センター、札幌働く人の家、虹の会などへ配分されます。皆さまの温かいご支援どうぞよろしくお願い申し上げます。

【スケジュール】
10:00   英語ミサとの合同ミサ(日本語・英語)
  フィリップ神父様・後藤神父様の共同司式
11:00   かてどらる祭開会  開催挨拶
11:10頃 「聖園こどもの家」の子供達による歌
11:50頃 パイプオルガン演奏
12:20頃 ギターと歌(英語ミサグループ)
12:40頃 手話の歌
13:00頃 絵本・紙芝居
13:30   閉会

【フードコーナー】
カレーライス、焼きそば、うどん、稲荷寿司、焼き鳥、フランクフルト、ホットドッグ、ゆでとうきび、おにぎり、赤飯、ケーキ、クッキー、etc

【販売品出店】
雪の聖母園(野菜)、札北荘、パウロ書店

【あそびコーナー】
お化け屋敷、くじ引き、ヨーヨー釣り、紐釣り、まとあて、その他

2015年8月15日土曜日

8月15日(土)  聖母の被昇天(祭)


北一条教会では十何年か振りに8月15日の日に、「聖母の昇天」の祭日をお祝いするミサが行われました。
そして、今日の御ミサの中で、3人の子供達の洗礼式、初聖体が行われました。
今日の日を迎えるために、一生懸命勉強していましたね、おめでとうございます!



後藤神父様は、入祭の歌の後、そしてお説教の中で、次のように平和の大切さをお話されました。

『聖母マリアは、教会そして私たちにとって特別な存在です。
聖母の被昇天をお祈りする8月15日は、私たちに日本人にとっても、終戦記念日、お盆、と特別な思いが訪れる日でもあります。
広島、長崎の原爆投下、そして戦争が終わって70年が経過したこの日、洗礼そして初聖体を迎えたこの3人の子供達が、70年後にも今日と同じような平和の中でこの日を迎えることができるよう祈りましょう。
平和への切実な願いの中で、日本の国の将来に不安を募らせるような問題も多く見え隠れしています。
平和のために努力することは、誰もが認めるところですが、なかなか思うように平和の実現に向かっていないジレンマに、私たちはいつも苦しみ、悩み、戸惑います。
戦後70年が経過し、日本人の人口の8割は戦争を経験していない世代になります。しかし、戦争がもたらす悲惨さを私たちは決して忘れてはいけません。』

2015年8月9日日曜日

年間第19主日

平和を願い、平和への祈りを捧げる季節が訪れています。
今から70年前に長崎に原爆が投下された午前11時2分に合わせ、北一条教会の鐘楼で「平和の鐘」が鳴らされ、平和への祈りが捧げられました。


今日の主日ミサでは、当教会を訪れているイエズス会の植栗弥(うえくり わたる)神父様が後藤神父様と一緒に司式されました。


植栗神父様のお説教の一部をご紹介します。

『ここ3週間にわたって、福音朗読では、イエス様のパンのお話が続いています。
パンは、私たちにとって日常的に食するものであって、特別なごちそうという訳ではありません。しかし、考えてみるとすばらしい意味合いを持っていると思います。
イエス様は、この世での生活が終わって、人類に何か残すものがあるかと探された時に、パンになって残れば、人類と共にずっと生き続けることができると、お選びになったのが、ありきたりのパンであったのです。
パンというのは飽きが来ない、いつも食卓に乗るもの、そして食べて体に取り入れられるということに大変深い意味を読み取ることができると思います。
パンは、口の中に入ると、噛み砕かれ、形が無くなってしまいますが、胃や腸に入って吸収され、そして私たちの貴重な栄養となります。
これこそ私たちの普段の暮らしに直結するイエス様のお姿だと思います。』

2015年8月2日日曜日

年間第18主日

8月6日から平和旬間が始まります。私たちの身近なところから平和を実現していくことができるようお祈りしてまいりましょう。



後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『昨日、平和講演会が北一条教会で行われました。
今週の8月6日から平和旬間が始まりますが、札幌地区では既に7月7日から「平和を祈る40日間」が始まっています。もう10年以上も前から続いている行事ですが、今一度原点に立ち返り平和への思いを新たにすることが大切だと思います。
平和講演会は、イエズス会の修道司祭である林尚志神父様をお招きしましたが、年齢を感じさせない迫力のあるお話をされました。
「平和を実現させるためには時間がかかる。人と人との絆や繋がり、関係性は平和のためには重要なこと。諦めるな、沈黙するな。」と呼びかけられました。
そして、「心重」(心の芯を重ねるという神父様の造語)することも大切。それは、心と心の触れ合い、重なりあいが大切だというお話をされていました。人から話を聞くとき、心の奥底で受け取るようにすることで、絆が作られるのだと思います。
私たちも、イエスの話しに耳を傾けるとき、心ここにあらずではなく、心の奥底でイエスの言葉を受け止めるようにしたいものです。
今日の福音(ヨハネ6・24-35)は、先週のお話の翌日の出来事が語られています。群衆から離れたイエスは湖の向こう側におられました。群集の心は、イエスの奇跡に心を奪われるばかりで自分達のリーダーに、という思いが大きくなっています。
イエスはそんな彼らに対し、「永遠の命にいたる食べ物のことを大切にしなさい。」と言われます。イエスの答えに納得できない群衆はイエスへ問い返します。そのやり取りの様子が語られます。
私たちも会話を交わすとき、人の言っていることを受け入れることよりも、自分の納得する答えを引き出そうとすることが多々あるのではないでしょうか。
典礼聖歌「ガリラヤの風かおる丘で」の中で、「いのちの み言葉を 私にも聞かせてください」と私たちは歌います。イエスの御言葉は命の言葉でもあります。会話も質問ばかりだと人と人との信頼関係は薄れていきます。
私たちが無条件に神の御言葉を受け入れる姿勢を大切にすることができるよう祈っていきましょう。
そして、平和旬間を迎えるにあたって、私たちの身近なところから平和を実現していくことができるようお祈りしてまいりましょう。』


12時半からの英語ミサは、勝谷司教様の司式で行われ、外国人信徒の堅信式が行われました。おめでとうございます!