子どもたちの夏休みも残り数日になりました。今日の教会は、サマーキャンプで一回りも二回りも逞しく成長してきた子供たち、若いご両親と一緒に里帰りをして少し戸惑いを見せる子供たち、そして、昨日、聖母の被昇天の日に洗礼と初聖体に与り、力強く胸を張る子供たち、様々な子供たちの姿が印象的でした。
また、北一条教会は、昨年まで8月15日の次の主日に被昇天ミサを行っていましたが、今年は昨日の15日、聖母の被昇天の祭日に被昇天ミサを行いました。昨日の後藤神父様のお説教では「北一条教会は聖母の被昇天の祭日にミサをあげるのは何十年ぶり~」とのことでした。15日夜は平和祈願ミサも行われ、子供たちの豊かな表情に包まれた本日の年間第20主日ミサ、そして、その後に開かれた、祝賀会(洗礼、初聖体、被昇天)と、大変充実した2日間でした。過去の慣例を変えるのは難しいことですが、櫻谷委員長の決断に感謝をします。
北一条教会はこの後、9月に年間で最も大切な共同体イベントの一つである「かてどらる祭チャリティーバザー」を開催し、10月には「現聖堂献堂100周年記念事業の1年前準備」が始まり、更には「水曜日の朝ミサ時間の変更」、「共同体、地区活動の活性化」、「教区との様々な調整事項」等々、の山積する課題に対応して行くことになりますが、「教会共同体はオールスターキャスト」をキーワードに東奔西走される櫻谷委員長の下で、カトリック教会の内に存在するキリストの教会、私たちの北一条教会共同体は、神の民としての結びつきをより強くする事が出来ると思います。
後藤神父様が今日の説教で「聖体を共同体として頂く」とお話し下さいましたように、聖体拝領により、私たちは教会共同体の1メンバーとして、神の恵みに与る喜びを頂きます。
<後藤神父様のお説教概要>
『聖堂前庭に、秋を感じさせるコスモスの鉢が置かれていましたが、被昇天を終え、秋をより強く感じています。
昨日は、聖母の被昇天ミサの中で洗礼と3人の子供が初聖体を受けました、初聖体の勉強の最後に子供たちから「聖体はどんな味がするのですか?」「聖体は噛んで頂いても構わないのですか?」といった質問を受けました。子供たちは周囲の皆さんの拝領の様子を見ていて、自分はどのような思いで聖体を受ければ良いのか、そんな疑問が出てきたのではないかと思います。昨日、子供たちが初めて頂いた、イエスの命のパンはどんな味がしたのか、私の方から質問してみようと思います。今日は、その命のパンのみ言葉でした。皆さんにとって命のパンはどうなっていますか?皆さんはどのように考えているのでしょうか?
「私は天から降って来た生きたパンである、私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉である」。イエスのみ言葉は核心部分に触れるように人々に語られました。「天から降って来た生きたパン」この言葉に人々は驚きます。「パンが私の肉である」という言葉が理解できず、疑問を感じた会衆がそこにいました。彼らはイエスの言葉について行けなくなり呟きます。確かに、信仰をもってこの言葉を受け止めなければ、血、肉、という言葉に抵抗を感じ、異なるイメージに包まれてしまい、簡単には理解できるものではないと思います。聖書の中には肉という言葉は繰り返され出てきます、肉は親しい関係ということも表します。でも、今日のみ言葉の中で語られた「肉」はどうでしょうか?
イエスが与えるパンとは、肉であり、血であり、そしてそのパンは「私を食べるものは私によって生きる」と表現されます。多くの会衆がパンの奇跡に与り、その奇跡を前にした時「あなたは神の子」「主よ」「偉大なる預言者」と叫びましたが、一旦、疑問を感じてしまうと、会衆の思いは激しい否定に向かって行きました。これまでは「イエス」と表現をしていた人々が、イエスという名前さえ口にすることなく、「この人」という呼び方をしています。「この人」という呼び方に人々の心情の変化が感じられると思います。それまでは、イエスを信じ、イエスを追い駆けるようにして集まってきた人々、ある時はその奇跡に驚き、イエスを担ぎ出して「自分たちの王に」と考えた人々でした。でも、一旦、疑問を感じてしまうと、そうした心はあっという間に変化してしまうのです。
それでもイエスは冷静に対応し「はっきり言っておく」という言葉で話し始めます。「はっきり言っておく」この日本語の訳は、聖書では「アーメン、アーメン」という言葉で表現され、「あなた方に私は言う」という意味です。これを日本語の聖書では「はっきり言っておく」と言う訳に変えています。皆さんは「アーメン」はヘブライ語で「真にそうである」という意味、信仰として賛同を表す言葉として使われる、と教えられたと思います。ですが「アーメン、アーメン」と2回繰り返す時は、そうであるということが強調されて使われているという解釈で「はっきり言っておく」という意味に訳されます。
イエスが「アーメン、アーメン」といって話された次の言葉は、最初は否定的で「人の子の肉を食べないなら、あなたたち内に命はない」であり、命が無いとの否定的な言葉に続いて肯定的に「私の肉を食べるものは永遠の命を得、終わりの日に復活させる」と言い換えられ、更に「肉体をも与えられて復活する」と続きます。
今日のみ言葉は、イエスの弟子たちに、私たちに「私は天から降って来た生きたパンである、このパンを食べるならばその人は永遠に生きる」と告げられています。そしてその言葉通り、私たちは、このミサの中で、その命のパンを頂こうとしています。イエスの血と肉は食べものとして私たちの内にあり、イエスは、私たち一人一人に命を与え続けています。このパンを通して、私たちは神との交わりをもたらされています。神との交わりにより深く一致させられるために、私たちはこのパンを大切に頂いています。
アウグスチヌスは命のパンについて「今や、あなたは交わりの中にいる、あなたがそれに共に与るからである、それをともに飲むからである」と言われます。命のパンを私たちに与えるイエス、命を与えるイエスは、更に私たちに血と肉によって完全な命をもたらして下さり、私たちはその信仰を大切にして歩んでいます。ミサの度に頂くこの恵みであるご聖体、天から降って来たパンであって、永遠の命に繋がる恵みのパン、ご聖体、私たちはそれをこのミサの中で共同体として頂こうとしています。感謝のうちにこのミサに与り、イエスの命のパンを頂きたいと思います。命あるものを限りなく恵みで満たし、慈しみを注いで下さる神に感謝をして、今日も主の祭壇の前に心から共に祈りましょう。』
教会学校で学んでいる10名ほどの子供達も参加して、和やかなお祝い会になりました。
後藤神父様からお祝いの言葉が贈られました
昨日洗礼を受けたルカ湯本くんです。
おめでとうございます!
子供達に用意されたケーキを取り分けています
聖歌隊の歌