写真左から、後藤神父様、勝谷司教様、ハン神父様
準備に時間がなかったため、外国人信徒の参加者は少ないものとなってしまいました。
また例年、北一条教会で行われていた催しも今年は見送られることになり、とても寂しい国際デーとなりました。
札幌市内で唯一、英語ミサが行われている北一条教会はここ数年、教会行事等をとおして同じ共同体に所属する信徒同士として繋がりを深め合っていこうという姿勢で取り組みを行ってきています。
今年は仕切り直しの年となりましたが、ぜひ来年につなげていけるような一年となりますようお祈りしたいと思います。
今日のミサでの勝谷司教様のお説教の概要をご紹介します。
『昨日、韓国からの修道者とともに原発被災地を訪れてきました。
そこで感じたことは、津波被害と原発被害では被災者に対する保障内容が異なることによって、被災者同士、被災者を受けている地域の中で、不満の種が生まれているということでした。このような住民同士の分断を生むような政策に対しては非常に疑問を感じました。
なぜ最初にこの話題を出したのかというのは、私たちが気の毒な人たちを受け入れる、助けるという時に気を付けなければならない心の姿勢についてお話ししようと思ったからです。
私たちは”神の憐み”というものを受け入れるということに対しては、すんなりと腑に落ちるのですが、それが”神の愛”を受け入れるということになると相当な困難を感じます。
それは、自分たちは”かわいそうな”立場の人に対しては、助けてあげたいという思いで手を差し伸べますが、いったんこれが自分たちと同じ”立場”に立つと、とたんに排斥しようとする。これは自分たちよりも下にいる立場は憐れむという姿勢ですが、神の愛はそうではありません。神の憐みというのは、泥に埋まっている人に対して、自分が汚れないところから救いの”ロープ”を投げかけるのではなく、自分も泥に埋まりながら救いの手を差し伸べる、というのがイエス様をとおして示された神の愛です。
これは、憐みと愛の違いについて、一般的に私たちが受け入れている感覚とは異なるということを示しているのだと思います。憐れむべき人たちがいったん自分たちと同じところに上がってきて自己主張するとき、それでも一緒に受け入れて共に生きていく、その人たちの痛みを自分の痛みとして抱え、その人たちの過去に思いを馳せ、そして未来を共に築いていく、これが愛の姿勢であるわけです。
以前、日本にもベトナム難民がボートピープルとして大勢押し寄せてきたときに、同じようなことがありました。彼らに対し仮の定住施設を作るというときの住民説明会では、難民を受け入れるということに対して誰も文句は言わなかったのですが、自分たちの地域の共同体の中に彼らが住むということに関しては拒否反応を示したのです。
今世界中で注目されているシリア難民に対しても、ヨーロッパ諸国ではかなりの人数の受け入れが決まりましたが、日本ではごく僅かな対応しか示されませんでした。
今後の流動的な国際情勢の中で、私たち日本人は国や国境の在り方について根本的に見直さなければならない時代に入ってきているのではないかと思います。
私たちが国際的な意味で苦しんでいる人たち、迫害されている人たちに対し、どのように支援し受け入れることができるのか、これは私たちにとっての切実な問題として考えていかなければならない問題だと思います。』