2016年6月27日月曜日

年間第13主日

イエスの声を聞き、自分を捨てる覚悟で十字架を背負ってどこまでも従っていくこと。
それがイエスの道であり、弟子たちに求められる道でもありました。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『6月の最後の日曜日を迎えていますが、今週末はもう7月に入ります。今年も半年が過ぎたという実感が出て来ますが、時の流れは速いと 年齢とともに益々感じるこの頃でもあります。

   明日から全道の司祭会議が行われることになっています。今年のテーマは、教区100周年と今後の教区の課題を乗り越えていくためには、ということでテーマを掲げ話し合いがなされようとしています。全道司祭会議の上にも皆さまのお祈りをお願いしたいと思います。

  先週、私たちに告げられたみ言葉、どんなものだったかちょっと思い返してみます。先週のペトロの信仰告白に伴い、受難の予告も聖書の中で語られていました。今日の福音はそういう中で、イエスは弟子たちとともに過ごしながら、心の内では自分が天に昇られる、弟子たちと別れの日をいつも考えていたのではないか、そういうことを想像させる内容から始まっています。イエスの父なる神から託された、神の僕としての大きな使命、その責任、人々を救う大切な努めを、イエスは今、弟子たちに諭らせようとしています。
 今日の福音の最初の部分、エルサレムに向かう決意を固められたというところから、その出来事、内容が進んでいきます。いよいよイエスはエルサレムに向かう決意をされた。きっとそこには並々ならぬ決意があったと思います。イエスの使命、すべての人を神の国に迎え入れ永遠の命に導くというものでした。
 でも、ともに過ごしていた弟子たちはどこまでイエスのその使命を理解されていただろうか。イエスの十字架の道に対して、神が定めた十字架の死に対して、弟子たちは充分な理解ができないままにイエスに従い、また別な願いをイエスに託していた弟子たちもいたようです。イエスに従っていたとしても、弟子たちの心は御父のみ旨の道を歩もうとしているイエスからは、まだまだ遠いものがある。ある弟子は、イエスは貧しい社会に革命をもたらしてくださる素晴らしいリーダーだ、そんな思いを持っていたと聖書は記しています。当時はイエス以外にも社会の革命を起こそうとして、力を発揮していた人たちがいたということです。バラバという人もそういう役割を少しは担っていたと思います。イエスは別な意味で弟子たちにとって頼りがいのある人、力のある存在でした。でも、イエスの力のみに頼ろうとする弟子たちは、サマリアの人たちがイエスを歓迎せず、妨害しようとすることで「滅ぼしてしまいましょうか。」と叫ぶほどでした。大きな勘違いがあるかのような弟子たちの思いがその一言に感じられます。イエスはそれを戒めました。
 イエスは十字架の道による人々の救い、その救いの道を伝えようとしているからです。 人々を滅ぼすために自分は来たのではない。自分の道は人々を滅びへとおとしめることではない。
逆にそういう人々を救うがための自分の使命でもあった。でも弟子たちの思いは少し違っていました。一般の常識から見れば、愚かで敗北としか思われない受難の道と死の苦しみをイエスが歩んでいる道でもありました。でもその死と苦しみの中に最高の価値があるということを、イエスは弟子たちに伝えようとしています。
 私に従いなさい。召命、召し出しの道がそこに描かれてもいます。どんなに厳しく苦しい状況になろうともひるむことなく、神のみ旨に徹底的に生きようとする決意が弟子たちの生きる道である、証しの道であるからでした。弟子たちもときにイエスに宣言しています。あなたは主である。神の子である。救い主です。私はあなたに従ってまいります。あなたのお出でになるところなら何処へでも従ってまいります。主よ、あなたに従います。12人の弟子以外にもイエスに従って行こうとする人々が現れていたようです。でも、イエスは時にそうした人々に対してその申し出を受けながらも、鋤に手をかけてから後ろを顧みるは、神の国に相応しくないとも話されています。どういうことでしょうか。鋤とは、農業に携わっている人たちは、鋤の意味は良く分かると思います。
  ※「鋤とは」
      牛に引かせて畑を耕すときに使う農耕具。右手に鞭をもって牛をまっすぐに進めなけれ  ばならない。そうしなければ、畑はメチャクチャになってしまう。しっかりと扱う必要が  ある。

  当時の人々は農耕具の話しをすれば、自分たちに身近なものでしたから、十分理解できたのだと思います。でも、イエスの話しはそれは条件付きであれば、徹底して進むことは出来ないことのようでした。人々の救いに関わるということは、決心が中途半端であってはならないという戒めがそこに含まれています。私たちも時に、様々な条件を付けて断ったり、それがかなったら前に進んでいきますというようなことを、話しているような気がします。神の前に本当にまっさらな心の自由を持って、生きることは簡単ではないような気がします。自分の心の内にあるしがらみは、人それぞれだと思いますが。肉の欲にかられたり、目の欲、食べるものにも、着るものにも心を奪われて、本当の自由はなかなか持つことが出来ないくらい、私たちの心は何かにつけて、半分はそちらに向かっているような気がします。自由であると言いながら本当の自由は、なかなか私たちの心の中に獲得することは出来ないような気がします。

  召命の道はそう言う意味では険しい道であるかもしれません。イエスの声を聞き、自分を捨てる覚悟で十字架を背負ってどこまでも従っていくこと。それがイエスの道であり、弟子たちに求められる道でもありました。み言葉を通して、その生き方はけっして私たちにも無縁ではない生き方です。信仰者としてキリストを信じる者として同じ道が求められるかと思います。 召命、召し出し、その条件の中には忍耐があります。弟子たちは滅ぼしてしまいましょうか。自分たちを受け入れない者、自分たちに逆らう者は滅ぼしてしまえばいい。そんな思いがありましたが、イエスは弟子たちにそれを戒め、まだ「その時」ではない。待つように、忍耐するように、そういうお話もされました。そして、何よりも召命は主とともに生きる生活である。
また、宣教という任務を最も優先させなければならないということ。今日の福音の最後の一言もそのことだと思います。
 そして、旧約のエリアは、両親との別れの挨拶を頼んだ弟子に行ってきなさいと、許した箇所が記されていますが、イエスの要求はそれよりも厳しかったと言えます。イエスは弟子たちに示されたその条件は、家族との離別、友人さえも放棄するその覚悟を、時には必要だと話されました。

  今日私たちは福音の中に「従う」ということを何度も聞きました。そして、今日の集会祈願の中でもその一言が入っていました。「いつもキリストに従って歩むことができますように。」と祈りました。従う、言葉ではたやすく言えますが、本当に主に従う道は必ずしもやさしいものではないと思います。その召命を生きる、札幌教区の全司祭による会議が、明日から行われようとしています。神の国と教会のためにより良い会議になるように、皆さんのお祈りをお願いしたいと思います。今日は聖使徒ペトロの使徒座の献金を少し心に留めながら、このミサに与り、教皇様のためにも祈りましょう。』

2016年6月19日日曜日

年間第12主日

イエスが弟子たちに求めたのは、人々を真剣に愛し、人々をその心に包み込み、そのためにいのちを投げ出せるようなイエスの心でした。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『昨日は隣の幼稚園では運動会、そして聖堂ではコンサートが行われていましたが、私は札幌教区の「召命の集い」があり、そちらに出席していました。わたしも三人の司祭が担当する教区の養成担当司祭として関わることになりましたが、昨年は一人しか申し込みがなかったので、今年はどうなることだろうと、この春4月に加藤神父様、場崎神父様の三人で話し合って準備しました。
結果的には、今年は4名の参加がありました。今の時代ですから参加者の平均年齢は40歳を超えていました。それぞれの人生、経験は様々で、召命の動機もそれぞれ異なりますが、教会や共同体との関わりに喜びを感じ、信仰生活を送っている話を伺い分かち合いました。まだまだ、一人一人の決心には時間をかける必要があるとは思いますが、それぞれがイエスに出会い、神と教会に深く結ばれたいと考えておられることには違いありません。召命とは何か、司祭とは何か、「イエスに仕える」とはどんなことなのかを今後も学びながら召し出しの喜びと、その実現に向けて関わらせていただく責任も感じてきました。
召命と一粒会のためにみなさんの祈りと献金に感謝していますが、これからもよろしくお願いいたします。

わたしには昨日の一日が、今日の福音につながって見えています。イエスは弟子たちにどんな心構えを求めたか考えるのです。
今日の福音は、ペトロが答えた「あなたは神からのメシアです」という信仰告白によって展開し、イエスの一回目の受難の予告と弟子たちへの招きが中心となっています。イエスに従い信仰告白する弟子たちに対するイエスの期待や後継者として生きるべく弟子たちの心構えも示されているからです。
ここに至るルカの第9章の初めでは、まず弟子たち12人を宣教に送り出し、病気の人を癒したり、救いのことばを告げるというイエスがそれまで行ってきたことを弟子たちに委ねています。宣教に派遣された弟子たちにとって大切なことのひとつが、イエスと同じように貧しさを生きるということでした。イエスが教える貧しさは霊的な力をもたらすものであり、また真の力を弟子たちに与えるものでした。
それは、貧しさに徹することこそ使徒職の秘訣となるということを教える私たちへのメッセージでもあります。
イエスに見倣い、その働きを終えて戻ってきた弟子たちをイエスは人里離れたところに導いて休ませ、そして祈るのです。
祈りこそ、活動と働きに疲れた弟子たちの心を憩わせ、神のいのちを心に充電させるものとなるからです。その祈り「ora et labora(祈りかつ働け)」というイエスの心を戒律とするのがトラピスト修道院であり、厳しい戒律に従い「祈りかつ働け」を信条とする生活を今も続けています。聖人となったマザーテレサもそうでした。祈りと活動、それが調和して大きな実りをもたらすと信じるからです。

マタイ福音書では、ペトロの信仰告白は「あなたは生ける神の子キリストです。」と宣言されて、その後すぐにイエスは「シモン、あなたは幸いである。わたしはこの岩の上に教会を建てる。」と約束しています。
しかし今日、ルカで語られるペトロの信仰告白は、「ヨハネが死者の中から生き返った」、「エリアが現れた」、「また、預言者が生き返った」という、当時、人々の噂になっていることが述べられ、いったいその人は誰なのか?という背景があって、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」というイエスの問いに対する答えです。
イエスはこの答えを聞いて「メシアである自分の弟子として生きるにはどうしたらよいか?」という心構えを伝えようとしているようです。
そして言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と。これがイエスの心です。
イエスは、いのちのパンであり、愛そのものです。そのいのちであるパンを裂き、自らの愛を裂いて私たちと深くつながってくださるのがミサであることを私たちは知っています。
イエスの救いへの招き・宣教の原点は、祭壇上で裂かれるパンを見つめるミサを通しても見つめることができるのです。人々を真剣に愛し、人々をその心に包み込み、そのためにいのちを投げ出せるような心を育ててこそ、初めて真のキリストの弟子となることを求めます。
それはまた、今日を生きる私たちの信者としての使徒的役割・使命ともつながっていきます。
私たちの働きに祈りを忘れず、役割をみつめ、教会を訪れる人にイエスの愛を少しでも伝えることができるように共に祈り、今日の働きが神に喜ばれ、祝福されるものとなるよう祈りましょう。』

2016年6月13日月曜日

年間第11主日

今日の聖書朗読のテーマは罪のゆるしです。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『年間の季節の中で、日曜日・主の日に告げられるみ言葉はキリストの教えと神秘全体を追憶する期間となっているようです。そういう中で今日のみ言葉、イエスが弟子たちといっしょに宣教活動を続ける中で、シモンと呼ばれていたファリサイ派の人から食事の招待を受け、そこに着いたときの出来事が語られます。
 イエスの話しを聞いた人々、食事に招待したファリサイ派の人もまた、イエスの教えを耳にして、どこかでイエスに注目していたということだと思います。でも、ファリサイ派の人から見ると少しイエスに反発を感じながらも、本当に人々の言うようなイエスは預言者であるのかどうか、そんな疑問も心に抱えての食事への招待であったとも思われます。

 聖書で語られるこの場面を想像すると、私たちには想像もつかないような、当時の習慣もまた聖書から語られてくるようです。
   まず最初に、招待客とともに食事をしている席に、見知らぬ人が入ってきたということに私たちは驚くのではないでしょうか。今の私たちの生活の中ではあり得ないようなことです。それも、その突然入って来た人が 、町中の噂になっている罪を犯した女の人であるということを考えたら、きっと私たちの現代社会ではとても大変な出来事になってしまうような気がします。警察に連絡をするほどの人が出てくるような出来事になるようなことかもしれません。でも、イエスを尋ねた女の人の立場から考えると、またこのお話はちがった面を想像します。この女の人は、イエスがどこかの家で食事を招待を受け、そこに出席すると聞いて、泣きながらその家を見いだし尋ねて来ました。イエスの足下に近づき、イエスの足に接吻をする。  疲れた人、重荷を背負っている人は私のところに来なさい。イエスは群衆に、またイエスのもとに集まってきた人々にそういう話しをされていました。きっとこの女の人も、人生に疲れ、自分の過去を振り返りながら、ボロボロになった自分の心をイエスのみ言葉を聞いて、癒されたことを思い出し、もう一度イエスにすがりたい、イエスに感謝の言葉を述べたい、そういう思いで尋ねて来たようにも考えることができると思います。
  でも、イエスを食事に招待したファリサイ派のシモンは、その様子を内心咎めるようにして見つめています。イエスはその罪深い女の人に対してどのような対応をするのか、まさに好奇心一杯でそれを見つめています。そういうシモンの心をイエスは見抜いています。すぐにシモンに対してたとえ話しをしました。二人のお金を借りた負債者がいる。一人は500日分の給料に値する大きな金額、もう一人はその10分の1、50日分の借金。1年分というととてつもない大きな金額ではないでしょうか。今の私たち現代にしても、1年分の以上の借金ということになると大変な金額だと思います。ですから、当時で考えたらもっともっと大きな借金になったと思います。一月以上のお金を借りるにしても、その人の困っている状態を考えると大変なことだと思います。二人とも当然借りたお金を返す術を持っていなかったと思います。そういうたとえ話しでした。
  金貸しの主人は帳消しにして二人を赦してやった。そして、この二人の内どちらがより多く愛するであろうか、これがイエスのシモンに対する質問でした。当然、シモンもその話しを受けて迷うことなく、多い額を帳消しにしてくれた方が多く愛するでしょうと答えます。そのたとえ話しの中で、イエスは何をこのシモンに伝えようとしたのか、何を知ってもらいかったのか、シモンの心の内と外側を見ている状況を察して、イエスはこの話しを彼にしたわけです。

 イエスの御業は罪によって転落していく者でさえも祝福をもたらす御業、それは神の愛そのものでもありました。罪でもさえも善に変えていくそういう力を持っている方、そういうことを私たちにも話されているようです。イエスはこの罪を犯したといわれている女の人に対して、あなたの罪は赦されたと宣言しています。人間誰もが自分の過去の罪深さに泣き、そして人間的な弱さに立ち止まり苦労しています。
  第一朗読に登場する偉大なるダビデにしても大きな罪を犯したことに悔い、私は主に対して罪を犯しましたと告白し赦されています。罪に赦しがあることで、私たちもまた希望が与えられていると思います。私たちもまた同じように過ちを繰り返し、罪を犯して赦しを頂いて、新しい一日一日を歩もう、希望をもって自分たちの信仰を生きています。

  今日の聖書のお話の中で、当時のもう一つの習慣を考えてみますと、こういうことが話されています。当時、自分の家に人を迎えようとするならば、必ず行うようなもてなしがあったそうです。まず家を訪れた人に対して汚れている足を洗ってあげる。頬にくちづけをして歓迎の挨拶をする。良くテレビや映画を見ているとハグをして挨拶をするのが普通に行われていることがあったというこです。さらにユダヤの当時の習慣では、頭に香油を塗る習慣もあったようです。でも、当時そういうことが当たり前に行われていた社会、生活の中で、このシモンはイエスを招待したにもかかわらず、それらの一般的に常識と思われることでさえ何もしなかったということも、今日の物語の背景にあるんです。常識外れの無礼なことを彼はイエスに対してしていた。それに対して罪深い女と言われるこの人はそれらのことを皆行った、というのがこの背景としてしっかり見て行く必要がある。自分の髪、自分の涙、イエスの足を洗い、香油を塗ってあげる。シモンは頭っから女性が入って来たときから、自分が正しい者でこの女の人は罪深いものだと決めつけて見ています。でも真理は逆で、女の人が正しいことを行い、シモンは愛に欠ける悪い心でイエスに接していたということも考えることができるのではないでしょうか。当時の生活習慣もまた、 聖書を理解するためには大切な要素でもあると思います。イエスはシモンに向かってはっきりと言っています。私が家に入ってきても、あなたは足を洗う水もくれなかった。しかし、彼女(罪深い女)は涙で私の足を濡らして、自分の髪の毛で拭いてくれた。罪を犯したとしてもその罪を悔い、神に赦しを願い正しく生きている人の愛は、神の前にどう見えているのだろうか。そんなことも私たちには黙想のヒントとして傾聴されるようです。

  罪が赦されるのは多くの愛を行動でしめすことによるとも受け取ることができます。愛を表現できるのはキリストを信じていたからにほかなりません。それは信仰を前提に考えられています。イエスはこの後、この女性に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と声をかけています。イエスのこのやさしい言葉、導きは新しい人としての出発を意味しています。きっと、聖書の中では具体的には語られてはいないけれど、弟子たちやその周りの人々を一生懸命世話をしていた婦人たちの中に入っていって、彼女もまた弟子たちとともにその後の日々を過ごしていったのではと、そんなことも想像できます。

  罪は赦しにありますが、その前提として神への深い愛と信仰が求められます。キリストに従って生きるということは条件となっています。私たちの教会でも赦しの秘跡について、共同回心式について、いろいろ皆さんと話し合ったり意見を交わしてきています。私たち一人ひとりは既に神様から赦されていますが、赦される存在、神様はそれを待っている。そういうことを私たちはいつも心にとめて、神への信頼に応えていかなければと思います。 
  赦されて生きている私たちに、キリストへの愛が欠けているとすれば、神が与えてくださる
赦しに対して、まだ十分に私たち一人一人に心の備えができていないからではないでしょうか。
神はいつも私たちを赦し、赦しをもたらし、愛を与えてくださる方。その愛と赦しの源である神に、一人ひとりは霊的な成長を願いながら、希望を持って励もうとしています。      
 今日もまた、主の祭壇の前で一致し祈りを捧げながら、主であるご聖体とともに新しい一週間に向かいます。赦されていることを感謝し、また、イエスと一つになることを感謝しながら、このミサに与りたいと思います。』


主日ミサの後、春の大掃除を行いました。
英語ミサグループの外国籍信徒の方々も多数お手伝い下さいました。
写真でご紹介します。

















2016年6月6日月曜日

年間第10主日

今日の第一朗読とルカによる福音では、息子を亡くしたやもめに対する主の憐れみが語られました。


この日はフィリピンから旅行者の方々が教会を訪れ、ともにお祈りを捧げました。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先週は聖体の祝日を祝いました。
聖体はキリストのパンのことですけれど、日常生活に欠かせないパンという私たちにとっては大切な食べ物です。イエスはそのパンを最後の晩餐で聖体の秘跡に用いられ、「私のからだである」として、命のパン、天のパンとして制定されました。私たちはそれによって、ミサの度ごとに私たちにそのパンがキリストのからだとなって、私たちに渡されるようになりました。
エリアの言葉は、主の真実を告げると第一朗読で話されています。み言葉はイエスである。イエスのからだである。でも今日の旧約のみ言葉では、主の真実という表現がとられています。パンに例えられる神のみ言葉でもありますけれども、み言葉は私たちの心を養うものとしても聖書で話されます。イエスのからだとして私たちがいただくパンは、み言葉と深くつながっていて、そのみ言葉で私たちは心も養われるということです。パンは神の祝
福のパンであり、労働の糧、そして私たち一人ひとりの人間をこのミサにおいて一つに結ぶパンとして表されます。ご聖体はパンのもつ全てをシンボルとして表しています。

今日もまた私たちはともに集って祈ります。そして先週のみ言葉でイエスが告げられたように、「主の死を思い復活を告げ知らせよう主が来られるまで」。このパンを聖体の恵みとして、今いただこうとしています。年間の季節を迎えて語られる聖書のみ言葉は、イエスの宣教の旅の中で起こった数々の出来事が語られます。今日は第一朗読と福音朗読の中で死んだ息子の復活について話されています。また第二朗読ではパウロがキリスト者になる前のことが語られましたけれど、いずれも、深く印象に残っていることと思います。
パウロは聖書の中で「ことごとくキリスト者を迫害し壊滅させようとした」と述べ、それほどまでユダヤ教に熱心でキリスト教を憎んでいたパウロでしたけれども、回心によって、全く違った生き方をするようになった、このパウロの信仰もまた、私たちの模範となっています。私たちはいつでも誰でも回心があると、新しい出発を目指すことができるということだと思います。

旧約の第一朗読のお話し、エリアが息子の命をお返しになったという表現が出てきました。ルカの福音では、亡くなっていた息子をその母親にお返しになった。命を返す、母親に息子を返す、いずれも同じ”返す”という言葉が使われています。第一朗読、そして新約聖書のお話し、深い関わりがあるということで、日曜日いつも私たちに語られるわけですけれども、同一性を示しながら、イエスはエリア以上の偉大なる予言者である、そのイエスが復活を私たちにもたらす権能を有する方であるということを告知しています。幸せを求める私たちですけれども、残念ながら幸せはいつも長続きするものではないのです。いつも幸せと不幸が隣り合わせになっているのが、私たちのこの世の現実だと思います。嫌がおうにも不幸な現実が目に飛び込んできます。2000年前の旅するイエスの目にも社会の中で生きる人々の辛さに触れながら、いかに神の憐れみを求める人々が多かったかということが聖書にはたくさん記されています。
最愛の一人息子を亡くしたやもめの母親、なおのこと、やもめの一人息子であるということで悲しみを誘うように聖書の物語は語られます。悲しみに耐え、のべ送りの行列は墓地に向かっているのかもしれません。イエスと弟子たちの一行はまさにその瞬間に行列と出会いました。短い言葉で不幸の現実に目を止めるイエスが、ルカによって語られています。主はこの母親を見て憐れに思い、母親の悲しみ苦悩のうえに深い同情を示されるイエスが声をかけられました。この同情というものは、聖書の”よき隣人”の話で、私たちは理解していたと思います。道端に倒れていた人を見たよきサマリア人、彼もまた、旅の途中で傷ついた人を見つけて憐れに思い同情して近づいて快方したという聖書の話で、隣人とは誰かといったときに、その人に近づいた人です、というのが聖書の話になっています。私たちもよく言葉は使っているのではないかと思います。同情するということは、見て心が動かされ黙ってはいられないほどの憐れみの心を持つということだそうです。聖書のなかではそういう説明がされています。見て心が動かされる、黙ってはいられなくなる心を同情というそうです。私たちは同情という言葉を使うときに、聖書のそういう解釈を持って、使っているかどうか。心を動かされたとしても黙ってはいられない行動になっているかどうか。心の中で強く憐れみを感じ、痛みを感じるけれども、そのまま通り過ぎるような、よきサマリア人や聖職者のような生き方もできないわけではありません。私たちもキリスト者として、同情するということをもう一度聖書の解釈、聖書から教えられるその意味と深くつながって、私たちもその言葉を大切にできるようにと思います。イエスは母親の涙に、人の上に降りかかる痛ましい不幸を十分に理解し、流される涙の故にその罪を赦し、回心の恵みを与えていきます。イエスはその同情の心をもって、慰めの言葉を掛けると同時に、死んでいた若者を立ち上がらせます。神の業はそういうものである、私たちもそういう神の業に与りたい、近づきたい、ということではないでしょうか。イエスは自分を取り囲む人々に対して、この出来事をとおしてご自身が来るべきものであることを証しているのです。神の業をとおして、御父へと人々を導こうとしているイエスの真理は、この物語の中でも表れています。

私たちの信仰にとっては、何が大切なのかをもう一度思い起こさなければなりません。来るべきものであるイエスを待ち続ける私たちは、ミサの度ごとに、「信仰の神秘、主の死をおもい復活を告げ知らせよう、主が来られるまで」。毎日曜日、そのように私たちは宣言しています。それが私たち信仰者の行動にもつながるよう私たちは神の恵み、精霊のはたらきを強く願いたいと思います。そして、いつくしみの特別聖年の歩みのなかにいる私たち一人一人が、その使命に生きることができるように。私たちの望める神の慈しみや憐れみを私たち自身が私たちの隣人にも表すことができるように、信仰のうえでも人間としても成長していきたいものです。今日はその力を願いながら主に近づくように祈りましょう。』