2016年6月27日月曜日

年間第13主日

イエスの声を聞き、自分を捨てる覚悟で十字架を背負ってどこまでも従っていくこと。
それがイエスの道であり、弟子たちに求められる道でもありました。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『6月の最後の日曜日を迎えていますが、今週末はもう7月に入ります。今年も半年が過ぎたという実感が出て来ますが、時の流れは速いと 年齢とともに益々感じるこの頃でもあります。

   明日から全道の司祭会議が行われることになっています。今年のテーマは、教区100周年と今後の教区の課題を乗り越えていくためには、ということでテーマを掲げ話し合いがなされようとしています。全道司祭会議の上にも皆さまのお祈りをお願いしたいと思います。

  先週、私たちに告げられたみ言葉、どんなものだったかちょっと思い返してみます。先週のペトロの信仰告白に伴い、受難の予告も聖書の中で語られていました。今日の福音はそういう中で、イエスは弟子たちとともに過ごしながら、心の内では自分が天に昇られる、弟子たちと別れの日をいつも考えていたのではないか、そういうことを想像させる内容から始まっています。イエスの父なる神から託された、神の僕としての大きな使命、その責任、人々を救う大切な努めを、イエスは今、弟子たちに諭らせようとしています。
 今日の福音の最初の部分、エルサレムに向かう決意を固められたというところから、その出来事、内容が進んでいきます。いよいよイエスはエルサレムに向かう決意をされた。きっとそこには並々ならぬ決意があったと思います。イエスの使命、すべての人を神の国に迎え入れ永遠の命に導くというものでした。
 でも、ともに過ごしていた弟子たちはどこまでイエスのその使命を理解されていただろうか。イエスの十字架の道に対して、神が定めた十字架の死に対して、弟子たちは充分な理解ができないままにイエスに従い、また別な願いをイエスに託していた弟子たちもいたようです。イエスに従っていたとしても、弟子たちの心は御父のみ旨の道を歩もうとしているイエスからは、まだまだ遠いものがある。ある弟子は、イエスは貧しい社会に革命をもたらしてくださる素晴らしいリーダーだ、そんな思いを持っていたと聖書は記しています。当時はイエス以外にも社会の革命を起こそうとして、力を発揮していた人たちがいたということです。バラバという人もそういう役割を少しは担っていたと思います。イエスは別な意味で弟子たちにとって頼りがいのある人、力のある存在でした。でも、イエスの力のみに頼ろうとする弟子たちは、サマリアの人たちがイエスを歓迎せず、妨害しようとすることで「滅ぼしてしまいましょうか。」と叫ぶほどでした。大きな勘違いがあるかのような弟子たちの思いがその一言に感じられます。イエスはそれを戒めました。
 イエスは十字架の道による人々の救い、その救いの道を伝えようとしているからです。 人々を滅ぼすために自分は来たのではない。自分の道は人々を滅びへとおとしめることではない。
逆にそういう人々を救うがための自分の使命でもあった。でも弟子たちの思いは少し違っていました。一般の常識から見れば、愚かで敗北としか思われない受難の道と死の苦しみをイエスが歩んでいる道でもありました。でもその死と苦しみの中に最高の価値があるということを、イエスは弟子たちに伝えようとしています。
 私に従いなさい。召命、召し出しの道がそこに描かれてもいます。どんなに厳しく苦しい状況になろうともひるむことなく、神のみ旨に徹底的に生きようとする決意が弟子たちの生きる道である、証しの道であるからでした。弟子たちもときにイエスに宣言しています。あなたは主である。神の子である。救い主です。私はあなたに従ってまいります。あなたのお出でになるところなら何処へでも従ってまいります。主よ、あなたに従います。12人の弟子以外にもイエスに従って行こうとする人々が現れていたようです。でも、イエスは時にそうした人々に対してその申し出を受けながらも、鋤に手をかけてから後ろを顧みるは、神の国に相応しくないとも話されています。どういうことでしょうか。鋤とは、農業に携わっている人たちは、鋤の意味は良く分かると思います。
  ※「鋤とは」
      牛に引かせて畑を耕すときに使う農耕具。右手に鞭をもって牛をまっすぐに進めなけれ  ばならない。そうしなければ、畑はメチャクチャになってしまう。しっかりと扱う必要が  ある。

  当時の人々は農耕具の話しをすれば、自分たちに身近なものでしたから、十分理解できたのだと思います。でも、イエスの話しはそれは条件付きであれば、徹底して進むことは出来ないことのようでした。人々の救いに関わるということは、決心が中途半端であってはならないという戒めがそこに含まれています。私たちも時に、様々な条件を付けて断ったり、それがかなったら前に進んでいきますというようなことを、話しているような気がします。神の前に本当にまっさらな心の自由を持って、生きることは簡単ではないような気がします。自分の心の内にあるしがらみは、人それぞれだと思いますが。肉の欲にかられたり、目の欲、食べるものにも、着るものにも心を奪われて、本当の自由はなかなか持つことが出来ないくらい、私たちの心は何かにつけて、半分はそちらに向かっているような気がします。自由であると言いながら本当の自由は、なかなか私たちの心の中に獲得することは出来ないような気がします。

  召命の道はそう言う意味では険しい道であるかもしれません。イエスの声を聞き、自分を捨てる覚悟で十字架を背負ってどこまでも従っていくこと。それがイエスの道であり、弟子たちに求められる道でもありました。み言葉を通して、その生き方はけっして私たちにも無縁ではない生き方です。信仰者としてキリストを信じる者として同じ道が求められるかと思います。 召命、召し出し、その条件の中には忍耐があります。弟子たちは滅ぼしてしまいましょうか。自分たちを受け入れない者、自分たちに逆らう者は滅ぼしてしまえばいい。そんな思いがありましたが、イエスは弟子たちにそれを戒め、まだ「その時」ではない。待つように、忍耐するように、そういうお話もされました。そして、何よりも召命は主とともに生きる生活である。
また、宣教という任務を最も優先させなければならないということ。今日の福音の最後の一言もそのことだと思います。
 そして、旧約のエリアは、両親との別れの挨拶を頼んだ弟子に行ってきなさいと、許した箇所が記されていますが、イエスの要求はそれよりも厳しかったと言えます。イエスは弟子たちに示されたその条件は、家族との離別、友人さえも放棄するその覚悟を、時には必要だと話されました。

  今日私たちは福音の中に「従う」ということを何度も聞きました。そして、今日の集会祈願の中でもその一言が入っていました。「いつもキリストに従って歩むことができますように。」と祈りました。従う、言葉ではたやすく言えますが、本当に主に従う道は必ずしもやさしいものではないと思います。その召命を生きる、札幌教区の全司祭による会議が、明日から行われようとしています。神の国と教会のためにより良い会議になるように、皆さんのお祈りをお願いしたいと思います。今日は聖使徒ペトロの使徒座の献金を少し心に留めながら、このミサに与り、教皇様のためにも祈りましょう。』