イエスが弟子たちに求めたのは、人々を真剣に愛し、人々をその心に包み込み、そのためにいのちを投げ出せるようなイエスの心でした。
今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『昨日は隣の幼稚園では運動会、そして聖堂ではコンサートが行われていましたが、私は札幌教区の「召命の集い」があり、そちらに出席していました。わたしも三人の司祭が担当する教区の養成担当司祭として関わることになりましたが、昨年は一人しか申し込みがなかったので、今年はどうなることだろうと、この春4月に加藤神父様、場崎神父様の三人で話し合って準備しました。
結果的には、今年は4名の参加がありました。今の時代ですから参加者の平均年齢は40歳を超えていました。それぞれの人生、経験は様々で、召命の動機もそれぞれ異なりますが、教会や共同体との関わりに喜びを感じ、信仰生活を送っている話を伺い分かち合いました。まだまだ、一人一人の決心には時間をかける必要があるとは思いますが、それぞれがイエスに出会い、神と教会に深く結ばれたいと考えておられることには違いありません。召命とは何か、司祭とは何か、「イエスに仕える」とはどんなことなのかを今後も学びながら召し出しの喜びと、その実現に向けて関わらせていただく責任も感じてきました。
召命と一粒会のためにみなさんの祈りと献金に感謝していますが、これからもよろしくお願いいたします。
わたしには昨日の一日が、今日の福音につながって見えています。イエスは弟子たちにどんな心構えを求めたか考えるのです。
今日の福音は、ペトロが答えた「あなたは神からのメシアです」という信仰告白によって展開し、イエスの一回目の受難の予告と弟子たちへの招きが中心となっています。イエスに従い信仰告白する弟子たちに対するイエスの期待や後継者として生きるべく弟子たちの心構えも示されているからです。
ここに至るルカの第9章の初めでは、まず弟子たち12人を宣教に送り出し、病気の人を癒したり、救いのことばを告げるというイエスがそれまで行ってきたことを弟子たちに委ねています。宣教に派遣された弟子たちにとって大切なことのひとつが、イエスと同じように貧しさを生きるということでした。イエスが教える貧しさは霊的な力をもたらすものであり、また真の力を弟子たちに与えるものでした。
それは、貧しさに徹することこそ使徒職の秘訣となるということを教える私たちへのメッセージでもあります。
イエスに見倣い、その働きを終えて戻ってきた弟子たちをイエスは人里離れたところに導いて休ませ、そして祈るのです。
祈りこそ、活動と働きに疲れた弟子たちの心を憩わせ、神のいのちを心に充電させるものとなるからです。その祈り「ora et labora(祈りかつ働け)」というイエスの心を戒律とするのがトラピスト修道院であり、厳しい戒律に従い「祈りかつ働け」を信条とする生活を今も続けています。聖人となったマザーテレサもそうでした。祈りと活動、それが調和して大きな実りをもたらすと信じるからです。
マタイ福音書では、ペトロの信仰告白は「あなたは生ける神の子キリストです。」と宣言されて、その後すぐにイエスは「シモン、あなたは幸いである。わたしはこの岩の上に教会を建てる。」と約束しています。
しかし今日、ルカで語られるペトロの信仰告白は、「ヨハネが死者の中から生き返った」、「エリアが現れた」、「また、預言者が生き返った」という、当時、人々の噂になっていることが述べられ、いったいその人は誰なのか?という背景があって、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」というイエスの問いに対する答えです。
イエスはこの答えを聞いて「メシアである自分の弟子として生きるにはどうしたらよいか?」という心構えを伝えようとしているようです。
そして言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と。これがイエスの心です。
イエスは、いのちのパンであり、愛そのものです。そのいのちであるパンを裂き、自らの愛を裂いて私たちと深くつながってくださるのがミサであることを私たちは知っています。
イエスの救いへの招き・宣教の原点は、祭壇上で裂かれるパンを見つめるミサを通しても見つめることができるのです。人々を真剣に愛し、人々をその心に包み込み、そのためにいのちを投げ出せるような心を育ててこそ、初めて真のキリストの弟子となることを求めます。
それはまた、今日を生きる私たちの信者としての使徒的役割・使命ともつながっていきます。
私たちの働きに祈りを忘れず、役割をみつめ、教会を訪れる人にイエスの愛を少しでも伝えることができるように共に祈り、今日の働きが神に喜ばれ、祝福されるものとなるよう祈りましょう。』