この日はフィリピンから旅行者の方々が教会を訪れ、ともにお祈りを捧げました。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『先週は聖体の祝日を祝いました。
聖体はキリストのパンのことですけれど、日常生活に欠かせないパンという私たちにとっては大切な食べ物です。イエスはそのパンを最後の晩餐で聖体の秘跡に用いられ、「私のからだである」として、命のパン、天のパンとして制定されました。私たちはそれによって、ミサの度ごとに私たちにそのパンがキリストのからだとなって、私たちに渡されるようになりました。
エリアの言葉は、主の真実を告げると第一朗読で話されています。み言葉はイエスである。イエスのからだである。でも今日の旧約のみ言葉では、主の真実という表現がとられています。パンに例えられる神のみ言葉でもありますけれども、み言葉は私たちの心を養うものとしても聖書で話されます。イエスのからだとして私たちがいただくパンは、み言葉と深くつながっていて、そのみ言葉で私たちは心も養われるということです。パンは神の祝
福のパンであり、労働の糧、そして私たち一人ひとりの人間をこのミサにおいて一つに結ぶパンとして表されます。ご聖体はパンのもつ全てをシンボルとして表しています。
今日もまた私たちはともに集って祈ります。そして先週のみ言葉でイエスが告げられたように、「主の死を思い復活を告げ知らせよう主が来られるまで」。このパンを聖体の恵みとして、今いただこうとしています。年間の季節を迎えて語られる聖書のみ言葉は、イエスの宣教の旅の中で起こった数々の出来事が語られます。今日は第一朗読と福音朗読の中で死んだ息子の復活について話されています。また第二朗読ではパウロがキリスト者になる前のことが語られましたけれど、いずれも、深く印象に残っていることと思います。
パウロは聖書の中で「ことごとくキリスト者を迫害し壊滅させようとした」と述べ、それほどまでユダヤ教に熱心でキリスト教を憎んでいたパウロでしたけれども、回心によって、全く違った生き方をするようになった、このパウロの信仰もまた、私たちの模範となっています。私たちはいつでも誰でも回心があると、新しい出発を目指すことができるということだと思います。
旧約の第一朗読のお話し、エリアが息子の命をお返しになったという表現が出てきました。ルカの福音では、亡くなっていた息子をその母親にお返しになった。命を返す、母親に息子を返す、いずれも同じ”返す”という言葉が使われています。第一朗読、そして新約聖書のお話し、深い関わりがあるということで、日曜日いつも私たちに語られるわけですけれども、同一性を示しながら、イエスはエリア以上の偉大なる予言者である、そのイエスが復活を私たちにもたらす権能を有する方であるということを告知しています。幸せを求める私たちですけれども、残念ながら幸せはいつも長続きするものではないのです。いつも幸せと不幸が隣り合わせになっているのが、私たちのこの世の現実だと思います。嫌がおうにも不幸な現実が目に飛び込んできます。2000年前の旅するイエスの目にも社会の中で生きる人々の辛さに触れながら、いかに神の憐れみを求める人々が多かったかということが聖書にはたくさん記されています。
最愛の一人息子を亡くしたやもめの母親、なおのこと、やもめの一人息子であるということで悲しみを誘うように聖書の物語は語られます。悲しみに耐え、のべ送りの行列は墓地に向かっているのかもしれません。イエスと弟子たちの一行はまさにその瞬間に行列と出会いました。短い言葉で不幸の現実に目を止めるイエスが、ルカによって語られています。主はこの母親を見て憐れに思い、母親の悲しみ苦悩のうえに深い同情を示されるイエスが声をかけられました。この同情というものは、聖書の”よき隣人”の話で、私たちは理解していたと思います。道端に倒れていた人を見たよきサマリア人、彼もまた、旅の途中で傷ついた人を見つけて憐れに思い同情して近づいて快方したという聖書の話で、隣人とは誰かといったときに、その人に近づいた人です、というのが聖書の話になっています。私たちもよく言葉は使っているのではないかと思います。同情するということは、見て心が動かされ黙ってはいられないほどの憐れみの心を持つということだそうです。聖書のなかではそういう説明がされています。見て心が動かされる、黙ってはいられなくなる心を同情というそうです。私たちは同情という言葉を使うときに、聖書のそういう解釈を持って、使っているかどうか。心を動かされたとしても黙ってはいられない行動になっているかどうか。心の中で強く憐れみを感じ、痛みを感じるけれども、そのまま通り過ぎるような、よきサマリア人や聖職者のような生き方もできないわけではありません。私たちもキリスト者として、同情するということをもう一度聖書の解釈、聖書から教えられるその意味と深くつながって、私たちもその言葉を大切にできるようにと思います。イエスは母親の涙に、人の上に降りかかる痛ましい不幸を十分に理解し、流される涙の故にその罪を赦し、回心の恵みを与えていきます。イエスはその同情の心をもって、慰めの言葉を掛けると同時に、死んでいた若者を立ち上がらせます。神の業はそういうものである、私たちもそういう神の業に与りたい、近づきたい、ということではないでしょうか。イエスは自分を取り囲む人々に対して、この出来事をとおしてご自身が来るべきものであることを証しているのです。神の業をとおして、御父へと人々を導こうとしているイエスの真理は、この物語の中でも表れています。
私たちの信仰にとっては、何が大切なのかをもう一度思い起こさなければなりません。来るべきものであるイエスを待ち続ける私たちは、ミサの度ごとに、「信仰の神秘、主の死をおもい復活を告げ知らせよう、主が来られるまで」。毎日曜日、そのように私たちは宣言しています。それが私たち信仰者の行動にもつながるよう私たちは神の恵み、精霊のはたらきを強く願いたいと思います。そして、いつくしみの特別聖年の歩みのなかにいる私たち一人一人が、その使命に生きることができるように。私たちの望める神の慈しみや憐れみを私たち自身が私たちの隣人にも表すことができるように、信仰のうえでも人間としても成長していきたいものです。今日はその力を願いながら主に近づくように祈りましょう。』