2016年6月13日月曜日

年間第11主日

今日の聖書朗読のテーマは罪のゆるしです。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『年間の季節の中で、日曜日・主の日に告げられるみ言葉はキリストの教えと神秘全体を追憶する期間となっているようです。そういう中で今日のみ言葉、イエスが弟子たちといっしょに宣教活動を続ける中で、シモンと呼ばれていたファリサイ派の人から食事の招待を受け、そこに着いたときの出来事が語られます。
 イエスの話しを聞いた人々、食事に招待したファリサイ派の人もまた、イエスの教えを耳にして、どこかでイエスに注目していたということだと思います。でも、ファリサイ派の人から見ると少しイエスに反発を感じながらも、本当に人々の言うようなイエスは預言者であるのかどうか、そんな疑問も心に抱えての食事への招待であったとも思われます。

 聖書で語られるこの場面を想像すると、私たちには想像もつかないような、当時の習慣もまた聖書から語られてくるようです。
   まず最初に、招待客とともに食事をしている席に、見知らぬ人が入ってきたということに私たちは驚くのではないでしょうか。今の私たちの生活の中ではあり得ないようなことです。それも、その突然入って来た人が 、町中の噂になっている罪を犯した女の人であるということを考えたら、きっと私たちの現代社会ではとても大変な出来事になってしまうような気がします。警察に連絡をするほどの人が出てくるような出来事になるようなことかもしれません。でも、イエスを尋ねた女の人の立場から考えると、またこのお話はちがった面を想像します。この女の人は、イエスがどこかの家で食事を招待を受け、そこに出席すると聞いて、泣きながらその家を見いだし尋ねて来ました。イエスの足下に近づき、イエスの足に接吻をする。  疲れた人、重荷を背負っている人は私のところに来なさい。イエスは群衆に、またイエスのもとに集まってきた人々にそういう話しをされていました。きっとこの女の人も、人生に疲れ、自分の過去を振り返りながら、ボロボロになった自分の心をイエスのみ言葉を聞いて、癒されたことを思い出し、もう一度イエスにすがりたい、イエスに感謝の言葉を述べたい、そういう思いで尋ねて来たようにも考えることができると思います。
  でも、イエスを食事に招待したファリサイ派のシモンは、その様子を内心咎めるようにして見つめています。イエスはその罪深い女の人に対してどのような対応をするのか、まさに好奇心一杯でそれを見つめています。そういうシモンの心をイエスは見抜いています。すぐにシモンに対してたとえ話しをしました。二人のお金を借りた負債者がいる。一人は500日分の給料に値する大きな金額、もう一人はその10分の1、50日分の借金。1年分というととてつもない大きな金額ではないでしょうか。今の私たち現代にしても、1年分の以上の借金ということになると大変な金額だと思います。ですから、当時で考えたらもっともっと大きな借金になったと思います。一月以上のお金を借りるにしても、その人の困っている状態を考えると大変なことだと思います。二人とも当然借りたお金を返す術を持っていなかったと思います。そういうたとえ話しでした。
  金貸しの主人は帳消しにして二人を赦してやった。そして、この二人の内どちらがより多く愛するであろうか、これがイエスのシモンに対する質問でした。当然、シモンもその話しを受けて迷うことなく、多い額を帳消しにしてくれた方が多く愛するでしょうと答えます。そのたとえ話しの中で、イエスは何をこのシモンに伝えようとしたのか、何を知ってもらいかったのか、シモンの心の内と外側を見ている状況を察して、イエスはこの話しを彼にしたわけです。

 イエスの御業は罪によって転落していく者でさえも祝福をもたらす御業、それは神の愛そのものでもありました。罪でもさえも善に変えていくそういう力を持っている方、そういうことを私たちにも話されているようです。イエスはこの罪を犯したといわれている女の人に対して、あなたの罪は赦されたと宣言しています。人間誰もが自分の過去の罪深さに泣き、そして人間的な弱さに立ち止まり苦労しています。
  第一朗読に登場する偉大なるダビデにしても大きな罪を犯したことに悔い、私は主に対して罪を犯しましたと告白し赦されています。罪に赦しがあることで、私たちもまた希望が与えられていると思います。私たちもまた同じように過ちを繰り返し、罪を犯して赦しを頂いて、新しい一日一日を歩もう、希望をもって自分たちの信仰を生きています。

  今日の聖書のお話の中で、当時のもう一つの習慣を考えてみますと、こういうことが話されています。当時、自分の家に人を迎えようとするならば、必ず行うようなもてなしがあったそうです。まず家を訪れた人に対して汚れている足を洗ってあげる。頬にくちづけをして歓迎の挨拶をする。良くテレビや映画を見ているとハグをして挨拶をするのが普通に行われていることがあったというこです。さらにユダヤの当時の習慣では、頭に香油を塗る習慣もあったようです。でも、当時そういうことが当たり前に行われていた社会、生活の中で、このシモンはイエスを招待したにもかかわらず、それらの一般的に常識と思われることでさえ何もしなかったということも、今日の物語の背景にあるんです。常識外れの無礼なことを彼はイエスに対してしていた。それに対して罪深い女と言われるこの人はそれらのことを皆行った、というのがこの背景としてしっかり見て行く必要がある。自分の髪、自分の涙、イエスの足を洗い、香油を塗ってあげる。シモンは頭っから女性が入って来たときから、自分が正しい者でこの女の人は罪深いものだと決めつけて見ています。でも真理は逆で、女の人が正しいことを行い、シモンは愛に欠ける悪い心でイエスに接していたということも考えることができるのではないでしょうか。当時の生活習慣もまた、 聖書を理解するためには大切な要素でもあると思います。イエスはシモンに向かってはっきりと言っています。私が家に入ってきても、あなたは足を洗う水もくれなかった。しかし、彼女(罪深い女)は涙で私の足を濡らして、自分の髪の毛で拭いてくれた。罪を犯したとしてもその罪を悔い、神に赦しを願い正しく生きている人の愛は、神の前にどう見えているのだろうか。そんなことも私たちには黙想のヒントとして傾聴されるようです。

  罪が赦されるのは多くの愛を行動でしめすことによるとも受け取ることができます。愛を表現できるのはキリストを信じていたからにほかなりません。それは信仰を前提に考えられています。イエスはこの後、この女性に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と声をかけています。イエスのこのやさしい言葉、導きは新しい人としての出発を意味しています。きっと、聖書の中では具体的には語られてはいないけれど、弟子たちやその周りの人々を一生懸命世話をしていた婦人たちの中に入っていって、彼女もまた弟子たちとともにその後の日々を過ごしていったのではと、そんなことも想像できます。

  罪は赦しにありますが、その前提として神への深い愛と信仰が求められます。キリストに従って生きるということは条件となっています。私たちの教会でも赦しの秘跡について、共同回心式について、いろいろ皆さんと話し合ったり意見を交わしてきています。私たち一人ひとりは既に神様から赦されていますが、赦される存在、神様はそれを待っている。そういうことを私たちはいつも心にとめて、神への信頼に応えていかなければと思います。 
  赦されて生きている私たちに、キリストへの愛が欠けているとすれば、神が与えてくださる
赦しに対して、まだ十分に私たち一人一人に心の備えができていないからではないでしょうか。
神はいつも私たちを赦し、赦しをもたらし、愛を与えてくださる方。その愛と赦しの源である神に、一人ひとりは霊的な成長を願いながら、希望を持って励もうとしています。      
 今日もまた、主の祭壇の前で一致し祈りを捧げながら、主であるご聖体とともに新しい一週間に向かいます。赦されていることを感謝し、また、イエスと一つになることを感謝しながら、このミサに与りたいと思います。』


主日ミサの後、春の大掃除を行いました。
英語ミサグループの外国籍信徒の方々も多数お手伝い下さいました。
写真でご紹介します。