今日の主日ミサは、昨年4月に司祭叙階された佐藤謙一神父様の当教会での初ミサでした。
叙階されてから10ヶ月を迎え、現在、月寒教会で助任司祭を務められている御多忙の中、主日ミサを司式くださいました。
また併せて、この日は当教会の主任司祭 後藤神父様の霊名「聖ヨハネ・ボスコ司祭」記念日(1月31日)をお祝いしました。
両神父様へは、日頃への感謝を込めて、ささやかな記念品がお贈りされました。
この日の佐藤神父様のお説教をご紹介します。
『司祭に叙階されてから、もう10か月目になります。
司祭叙階記念カードを今一度見てみると、「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」というルカ福音書の言葉を取っていました。
なぜこの言葉を選んだのかというと、今は泣いているが、慰められて、笑うようになるという積極的な意味が込められているからだと思ったからです。
今日のマタイによる福音でも同じようなことが言われています。
「悲しむ人は幸いである、その人たちは慰められる」。
ルカ福音書ではさらに「笑うようになる」と言われています。
神は慰めてくれるが、さらに自分は笑うようになるともう一歩先の段階まで行くことを示しています。
それで選んだのです。
いろいろなことでわたしたちは悲しんだり泣いたりします。
しかし、イエスがいつもそばにいてくれるということが分かると、慰められ、そして笑うようになるのだということです。
わたし自身両親の死をきっかけに司祭召命の道を歩み始めましたが、わたしと同じように司祭叙階記念カードの言葉のように皆さんがなってくれたらと思います。
「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」。
ところで、今日の福音の「真福八端」と呼ばれる個所は、信徒としてのあり方を問う個所として取り上げられることがあります。
倫理的な基準として考えられることがあります。
しかしそうしなければならないと考えるよりも、そうされてしまった人々に対して神がどう見ているかと考えるべきだと思います。
ここでイエスが語ったことばは、目の前にいる弟子たちに向けて語った祝福の言葉です。
いろいろな悩みや病気、問題を抱えてきた群衆に向かって語った言葉です。
「貧しい人」「悲しむ人」「飢え渇く人」がなぜ幸いなのか。
それは「天の国はあなた がたのもの」だからです。
「国」はギリシア語で「支配」という意味や「王であること、王となること」を意味します。
神は決してあなたがたを見捨 ててはいない、神が王となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのだというのです。
「満たされる」とか「慰められる」のは神によってという言葉が付け加えられれば、よりわかりやすいと思います。
つまりこれこそ、わたしたち自身に向けられた「福音=よい知らせ」なのです。
福音の最後に「喜びなさい。大いに喜びなさい」とあります。
わたしたちはこの福音を聞いたときに、喜びに満ちあふれて生きていかなければならないのです。
8つの幸いのうちの、後半の4つは、貧しいだけでなく、その中でもっと前向きに生き ようとする人々の姿を表しています。
それは「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現す る」「義のために迫害される」という生き方です
そういう生き方をわたしたちができるかということが問われていると思います。
そういう生き方を通して、イエスのために「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」わたしたちは神に祝福されるのです。
来週、ユスト高山右近が列福されます。
彼の生き方を通して今日の「真福八端」を見つめるのもよい信仰の振り返りとなると思います。
キリストの十字架の道のりはまさにこの「しんぷくはったん」を表しています。
キリストの十字架を背負ってどう生きていくかということがこの8つの幸いの中に込められています。
わたしたちの人生の歩みをこの8つの幸いという祝福の言葉に当てはめて考えてみるのもよい信仰の振り返りになるのではないでしょうか。』
御ミサの後、場所をカテドラルホールに移して、主日初ミサと霊名記念の祝賀会を行いました。
2017年1月29日日曜日
2017年1月24日火曜日
年間第3主日
「悔い改めなさい。天の国は近づいた。」
先日、封切られた遠藤周作の小説を映画化した「沈黙 -サイレンス-」と重ねて、この日のみ言葉について、後藤神父様がお説教されました。
『昨日、「沈黙-サイレンス」という映画が封切られました。私は、8時45分の一番最初の映画を駆けつけて観てきました。映画の中の世界でも、今の私たちの世界と変わらない面があると考えます。黙想するとそういう思い、そういう一瞬の場面が今の時代と変わらない、そんな気もします。地上の生活が苦しく厳しく、また悲しみが深まれば深まるほど、信仰を奪われた苦しむ民にとっては、イエスの深い憐れみの心は新しい春の訪れのようであるかのようです。希望の光、救いの光としてイエスは信仰者とともに歩んでくださる方になっていくような気がします。映画の中でもそんな思いで眺めていました。
「沈黙」という映画と重ねて、今日のみ言葉を黙想することもできます。み言葉の場面は、イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネが捕らえられ、首を斬られて殉教する時代を描いています。一言でヨハネが捕らえられたと表現されていますが、聖書をみますと捕らえられたヨハネは首を斬られ殉教するという様子が描かれます。まさに、聖書の世界でも迫害時代が始まる状況を私たちに示されています。黙想する一瞬の背景には、迫害の中にあって貧しさ苦しさ悲惨な状況、闇である世界を見せつけてくれます。イエスはそういう中にあっても、闇の世界にあっても、喜びの訪れを告げるために人々の中に入っていきました。当時の人々もまた、私たちもまた、そのイエスの愛と憐れみを受け取るための人間として、そのイエスの前に立つことが求められるようです。
イエスは洗者ヨハネが伝えていたように、イエスもまた「悔い改めなさい。天の国は近づいた。」と話されています。呼びかけています。信仰の喜び信仰の救いとは、神との関係から私たちに伝えられるもの、私たちに入ってくるもの。悔い改めの呼びかけは、その意味では大切な要素になります。洗者ヨハネも繰り返し呼びかけた、救いと天国への準備の悔い改めでもあったはずです。心を入れ替えて神にかえり、そういう悔い改めに対して逆に悔い改めない心とはどういうことを考えるでしょうか。自分に対しても人に対しても 悲しみの深さを理解することが出来ない、その心を指しているような気がします。
罪について私たちはもっともっと深く黙想しながら、自分の信仰にあわせながら考えていかなければならないようです。そこには自分の弱さ、自分のもろさを知らない思い上がった心があるために、悔い改めに繋がらない自分が立ち止まってしまいます。そういう心を持っていては、悔い改めることが出来ない状況であるならば、イエスとの真の出会いは難しいのではないでしょうか。
イエスと出会うために、イエスと再び生きるために「沈黙」という映画の中では告解、悔い改め…長崎の当時の言葉では「コンヒサン」と呼んでいました。…そのコンヒサンを訪れた司祭に願って、悔い改めるシーンが何度も何度も繰り返し、映画では描かれています。そして、何度も何度も告解する「キチジロー」という主役に近い登場人物がいますが、自分の弱さゆえに告解を繰り返ししなければならない状況を、映画は強調して描いているように思いました。
「人間がこんなに悲しいのに、主よ海があまりにも青いのです。」遠藤周作は小説を書かれた後にそう言う言葉を残しているそうです。時代は変わっても、海の青さはそのまま私たちに見せている。でも、その青い海の中に殉教した多くの人々がその命を埋めていった、沈めていった。そういう現実がまた見えてきます。「キチジロー」という人の告白、告解、悔いあたらめ、映画でも小説でもそうですが、だらしなく、いくじのない「キチジロー」の姿を私たちに見せつけます。不安と恐れにかられてあまりにも弱い姿を、私たちにいやというほど見せつけるのが遠藤周作の世界であり、映画でもそういうことが強調されています。そして「キチジロー」の転び、罪は誰にでもある悩みであり、格闘する心、不安な心に繋がっているようでもあります。私たちも決して「転ばない。」とは言い切れない、そういう不安を抱えているのではないでしょうか。
「悔い改めよ、天の国は近づいた。」その後に弟子たちを招くイエスに言葉は「私についてきなさい。」という言葉です。イエスの招きは、私たちの洗礼に始まる信仰の歩みでもあったはずです。私たちもイエスの招きによって洗礼の恵みをいただいて信仰を得ています。そしてその信仰を歩んでいます。
私たちのその信仰はどんな信仰でしょうか。本当にイエスに出会い、イエスからの光を大切にして、それを生きているでしょうか。イエスの教えを本当に守っているでしょうか。過ちを犯したならば、それを悔い改める信仰になっているでしょうか。誰もが救いの光、希望の光、安らぎの光をイエスに求めます。最後にはきっと天の国に入る、いや入れてもらえるという思いをもって、私たちは信仰を生きているような気がします。そこに甘えも見えてくる。私自身そのような思いで映画を観たと。「キチジロー」が転んで悔い改めて赦しを願う姿を見ながら、私自身の甘い信仰もまた見つめています。いつかは天の国に行く私も招かれている、招かれているはずだ。でも、悔い改めもしないままで、神様はそのまま天の門に招き入れるのでしょうか。改めることも出来ない状況で、そのことは強く私の心に留まっています。
私たちの教会の中では「赦しの秘跡」、「共同回心式」について、昨年あたりからいろいろと話しをしています。悔い改めることは大切、赦しの秘跡は大切だと分かっていながらも、前に一歩も進めずに立ち止まっている私たちがあります。私たちの共同体はそこにあるようにも感じます。誰もが大切であると知りながら、その一歩を踏み出せないままで、私たちは天の国に入ると、また甘えの信仰を生きているのではないか、そんなことも考えたりしています。
今日のミサの十字架のしるしをした、最初の祈りの中にも悔い改めの祈りがありました。私たちは罪を認め心を改めましょうと呼びかけられて、心を清め改めてもう一度イエスといっしょに歩んで、この祈りに入っていくために悔い改めの祈りをしています。私たちの罪を思えていたときにどんな罪を考えたのでしょうか。罪とはいっているけれど、具体的に自分の罪を思い浮かべることなくして、告白の祈りを唱えている人も多いのではないでしょうか。具体的にこのミサの前に、私はどのような思いをもってミサに入ろうとしていたのでしょうか。罪というのは言葉では簡単にひとことで言ってしまいますが、私たちの罪はそんなに簡単なものでしょうか。弱い自分を理解して欲しい、弱い自分を理解して欲しい、知って欲しいといいながらも、悔い改めて神の恵みを取り戻そうともしない、自分の信仰に甘んじている私たちがいるのではないでしょうか。そんな自分自身の信仰を見つめさせる映画でもありました。自分の心さえ抉ってくるような、そんな場面に何度も何度も出会いながら映画を鑑賞していました。
イエスは弟子たちを集め、闇の中にいるすべての人を、そして私たち一人ひとりを照らす光として、福音の良い便りを伝えようとしています。年間の季節に入って、マタイによる福音によって宣教活動を開始するイエスを、これから毎日曜日、朗読されることになります。ガリラヤよりもナザレの田舎の方が安定であったはずなのに、イエスは世の中に出て、闇の中に入っていって人々に光を差し出して、そこから救いだそうとされます。「ガリラヤに退かれた。」というこの表現の中にイエスの宣教の決意、意気込みを私たちは感じることができます。イエスの歩みは、より貧しいより悲しい、そういう悲しみ溢れる人々の中にイエスの期待はさらに照らし出されていきます。深い悲しみの涙の流れるところに、イエスの歩みは繋がっていきます。でも、私たちは甘んじて信仰を生きることなく、甘えでイエスの手をただつかみ取るのではなくて、私たち自身も努力をしながら本当に真の出会いがあるように、イエスの手を私たちは受けとめたいと思います。弟子たちを招いたイエスに私たちの思いも重ねながら、イエスに信頼して希望の光を見失うことなく、従いつつ歩んで行きたいと思います。
子供たちの三学期が始まりました。春は進学、就職の季節であり、厳しい競争社会の中に入っていく若者もたくさんいる季節です。生きる試練を経験する人も少なくないと思います。憐れみの光をしっかりと見つめる幼子のように、単純な信頼でイエスとの絆をより強めると思います。子供たちや私たちが出会う人々に、イエスが告げた良き便りを私たちからも伝えられるように、宣教の働きを大切にしたいと思います。
映画の中で「神の沈黙」ということは観た後も解決することもなく、一人の心をつかんでしまうと思います。小説を読まれたときから、ずっとそのテーマが皆さまの心にもあるのではないでしょうか。
「神の沈黙」…難しいテーマだと思います。映画を観ても解決するわけではありません。でも、私たちのその沈黙の中に神の愛が感じられます。そして闇の中にあったとしても、ひとすじの光が自分の方に向かってくる、そんな恵みもまた感じられます。私たちの信仰をもう一度見つめながら、神の沈黙と対峙して私たちの信仰を成長させたいと思います。』
先日、封切られた遠藤周作の小説を映画化した「沈黙 -サイレンス-」と重ねて、この日のみ言葉について、後藤神父様がお説教されました。
『昨日、「沈黙-サイレンス」という映画が封切られました。私は、8時45分の一番最初の映画を駆けつけて観てきました。映画の中の世界でも、今の私たちの世界と変わらない面があると考えます。黙想するとそういう思い、そういう一瞬の場面が今の時代と変わらない、そんな気もします。地上の生活が苦しく厳しく、また悲しみが深まれば深まるほど、信仰を奪われた苦しむ民にとっては、イエスの深い憐れみの心は新しい春の訪れのようであるかのようです。希望の光、救いの光としてイエスは信仰者とともに歩んでくださる方になっていくような気がします。映画の中でもそんな思いで眺めていました。
「沈黙」という映画と重ねて、今日のみ言葉を黙想することもできます。み言葉の場面は、イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネが捕らえられ、首を斬られて殉教する時代を描いています。一言でヨハネが捕らえられたと表現されていますが、聖書をみますと捕らえられたヨハネは首を斬られ殉教するという様子が描かれます。まさに、聖書の世界でも迫害時代が始まる状況を私たちに示されています。黙想する一瞬の背景には、迫害の中にあって貧しさ苦しさ悲惨な状況、闇である世界を見せつけてくれます。イエスはそういう中にあっても、闇の世界にあっても、喜びの訪れを告げるために人々の中に入っていきました。当時の人々もまた、私たちもまた、そのイエスの愛と憐れみを受け取るための人間として、そのイエスの前に立つことが求められるようです。
イエスは洗者ヨハネが伝えていたように、イエスもまた「悔い改めなさい。天の国は近づいた。」と話されています。呼びかけています。信仰の喜び信仰の救いとは、神との関係から私たちに伝えられるもの、私たちに入ってくるもの。悔い改めの呼びかけは、その意味では大切な要素になります。洗者ヨハネも繰り返し呼びかけた、救いと天国への準備の悔い改めでもあったはずです。心を入れ替えて神にかえり、そういう悔い改めに対して逆に悔い改めない心とはどういうことを考えるでしょうか。自分に対しても人に対しても 悲しみの深さを理解することが出来ない、その心を指しているような気がします。
罪について私たちはもっともっと深く黙想しながら、自分の信仰にあわせながら考えていかなければならないようです。そこには自分の弱さ、自分のもろさを知らない思い上がった心があるために、悔い改めに繋がらない自分が立ち止まってしまいます。そういう心を持っていては、悔い改めることが出来ない状況であるならば、イエスとの真の出会いは難しいのではないでしょうか。
イエスと出会うために、イエスと再び生きるために「沈黙」という映画の中では告解、悔い改め…長崎の当時の言葉では「コンヒサン」と呼んでいました。…そのコンヒサンを訪れた司祭に願って、悔い改めるシーンが何度も何度も繰り返し、映画では描かれています。そして、何度も何度も告解する「キチジロー」という主役に近い登場人物がいますが、自分の弱さゆえに告解を繰り返ししなければならない状況を、映画は強調して描いているように思いました。
「人間がこんなに悲しいのに、主よ海があまりにも青いのです。」遠藤周作は小説を書かれた後にそう言う言葉を残しているそうです。時代は変わっても、海の青さはそのまま私たちに見せている。でも、その青い海の中に殉教した多くの人々がその命を埋めていった、沈めていった。そういう現実がまた見えてきます。「キチジロー」という人の告白、告解、悔いあたらめ、映画でも小説でもそうですが、だらしなく、いくじのない「キチジロー」の姿を私たちに見せつけます。不安と恐れにかられてあまりにも弱い姿を、私たちにいやというほど見せつけるのが遠藤周作の世界であり、映画でもそういうことが強調されています。そして「キチジロー」の転び、罪は誰にでもある悩みであり、格闘する心、不安な心に繋がっているようでもあります。私たちも決して「転ばない。」とは言い切れない、そういう不安を抱えているのではないでしょうか。
「悔い改めよ、天の国は近づいた。」その後に弟子たちを招くイエスに言葉は「私についてきなさい。」という言葉です。イエスの招きは、私たちの洗礼に始まる信仰の歩みでもあったはずです。私たちもイエスの招きによって洗礼の恵みをいただいて信仰を得ています。そしてその信仰を歩んでいます。
私たちのその信仰はどんな信仰でしょうか。本当にイエスに出会い、イエスからの光を大切にして、それを生きているでしょうか。イエスの教えを本当に守っているでしょうか。過ちを犯したならば、それを悔い改める信仰になっているでしょうか。誰もが救いの光、希望の光、安らぎの光をイエスに求めます。最後にはきっと天の国に入る、いや入れてもらえるという思いをもって、私たちは信仰を生きているような気がします。そこに甘えも見えてくる。私自身そのような思いで映画を観たと。「キチジロー」が転んで悔い改めて赦しを願う姿を見ながら、私自身の甘い信仰もまた見つめています。いつかは天の国に行く私も招かれている、招かれているはずだ。でも、悔い改めもしないままで、神様はそのまま天の門に招き入れるのでしょうか。改めることも出来ない状況で、そのことは強く私の心に留まっています。
私たちの教会の中では「赦しの秘跡」、「共同回心式」について、昨年あたりからいろいろと話しをしています。悔い改めることは大切、赦しの秘跡は大切だと分かっていながらも、前に一歩も進めずに立ち止まっている私たちがあります。私たちの共同体はそこにあるようにも感じます。誰もが大切であると知りながら、その一歩を踏み出せないままで、私たちは天の国に入ると、また甘えの信仰を生きているのではないか、そんなことも考えたりしています。
今日のミサの十字架のしるしをした、最初の祈りの中にも悔い改めの祈りがありました。私たちは罪を認め心を改めましょうと呼びかけられて、心を清め改めてもう一度イエスといっしょに歩んで、この祈りに入っていくために悔い改めの祈りをしています。私たちの罪を思えていたときにどんな罪を考えたのでしょうか。罪とはいっているけれど、具体的に自分の罪を思い浮かべることなくして、告白の祈りを唱えている人も多いのではないでしょうか。具体的にこのミサの前に、私はどのような思いをもってミサに入ろうとしていたのでしょうか。罪というのは言葉では簡単にひとことで言ってしまいますが、私たちの罪はそんなに簡単なものでしょうか。弱い自分を理解して欲しい、弱い自分を理解して欲しい、知って欲しいといいながらも、悔い改めて神の恵みを取り戻そうともしない、自分の信仰に甘んじている私たちがいるのではないでしょうか。そんな自分自身の信仰を見つめさせる映画でもありました。自分の心さえ抉ってくるような、そんな場面に何度も何度も出会いながら映画を鑑賞していました。
イエスは弟子たちを集め、闇の中にいるすべての人を、そして私たち一人ひとりを照らす光として、福音の良い便りを伝えようとしています。年間の季節に入って、マタイによる福音によって宣教活動を開始するイエスを、これから毎日曜日、朗読されることになります。ガリラヤよりもナザレの田舎の方が安定であったはずなのに、イエスは世の中に出て、闇の中に入っていって人々に光を差し出して、そこから救いだそうとされます。「ガリラヤに退かれた。」というこの表現の中にイエスの宣教の決意、意気込みを私たちは感じることができます。イエスの歩みは、より貧しいより悲しい、そういう悲しみ溢れる人々の中にイエスの期待はさらに照らし出されていきます。深い悲しみの涙の流れるところに、イエスの歩みは繋がっていきます。でも、私たちは甘んじて信仰を生きることなく、甘えでイエスの手をただつかみ取るのではなくて、私たち自身も努力をしながら本当に真の出会いがあるように、イエスの手を私たちは受けとめたいと思います。弟子たちを招いたイエスに私たちの思いも重ねながら、イエスに信頼して希望の光を見失うことなく、従いつつ歩んで行きたいと思います。
子供たちの三学期が始まりました。春は進学、就職の季節であり、厳しい競争社会の中に入っていく若者もたくさんいる季節です。生きる試練を経験する人も少なくないと思います。憐れみの光をしっかりと見つめる幼子のように、単純な信頼でイエスとの絆をより強めると思います。子供たちや私たちが出会う人々に、イエスが告げた良き便りを私たちからも伝えられるように、宣教の働きを大切にしたいと思います。
映画の中で「神の沈黙」ということは観た後も解決することもなく、一人の心をつかんでしまうと思います。小説を読まれたときから、ずっとそのテーマが皆さまの心にもあるのではないでしょうか。
「神の沈黙」…難しいテーマだと思います。映画を観ても解決するわけではありません。でも、私たちのその沈黙の中に神の愛が感じられます。そして闇の中にあったとしても、ひとすじの光が自分の方に向かってくる、そんな恵みもまた感じられます。私たちの信仰をもう一度見つめながら、神の沈黙と対峙して私たちの信仰を成長させたいと思います。』
2017年1月15日日曜日
年間第2主日
典礼は年間の季節に入りました。
ミサの後、聖堂で、ボーイスカウト26団の子供たちによるマザーテレサをテーマにした聖劇が行われました。この日のために一生懸命練習を積んだとのことです。
マザーテレサの無償の愛の姿が伝わって来るような、大変素晴らしい出来栄えに、
鑑賞した皆さんから、たくさんの温かい拍手がありました。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『冬至を過ぎてからは、日暮れが少しずつ遅くなって、春が近づいてゆくのですが、北海道はこの季節が一番寒い季節となっています。この冬は「大寒」を前にして、雪も寒さも記録的ですから、一歩、家から出るにしても緊張があり健康維持も大変になります。
昨日から始まったセンター試験も、受験生たちが試験の前から会場に着くまで緊張を強いられているようで気の毒でした。今朝の新聞でも「道内は今日から大荒れ」と大きな見出しが出ていました。
今日のミサ後に、ボーイスカウトの子供たちによるマザーテレサをテーマにした聖劇が発表されます。昨日も寒い聖堂で一生懸命練習していました。是非見てあげて、温かい拍手を送ってあげてください。
さて、これまで白い祭服を着てミサをしていましたが、今日から色が緑に変わりました。何故だかわかりましたか?先週「主の公現」の日曜日が終わり、翌日の「主の洗礼」を迎え平日から年間の季節に入ったのです。3月1日の「灰の水曜日」から始まる「四旬節」まで年間の季節となります。
今年はA年ですから、日曜日ごとに「マタイの福音」のみ言葉をとおして、キリストの生涯と宣教の様子が語られますが、年間の第2主日の今日だけは、決まってABC年ともにヨハネの福音の最初の部分、イエスの洗礼の出来事が朗読され、イエスが宣教活動に乗り出す場面が語られます。
今日のみ言葉を黙想してみましょう。第一朗読 イザヤ予言書の印象的なみ言葉は、最初の「あなたはわたしの僕、あなたによってわたしの輝きは現れる」であり、すでに主の公現、主の洗礼の出来事につながっているように思えます。また「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」とイザヤの予言は「救いの到来」を告げていますが、これこそ救い主イエスの到来と一致するのです。
イザヤは旧約の時代、紀元前745年~695年の時代に生きて活躍した予言者です。紀元前722年、当時の北王国であったイスラエルが滅び、南のユダ王国が残りました。イザヤも信仰の民も、苦しみの時が過ぎると神の民には輝かしい未来が到来すると、神の約束を信じていました。しかし、その時代は、政治的腐敗と圧政、道徳的堕落がはびこっていました。青年であったイザヤは民の偶像崇拝に心を悩ませると同時に、神の救いを保証する使命に燃えていたようです。若き予言者イザヤの心にその熱き信仰と使命を考えながら耳を傾けるなら、聖書の一節一節、一言一言にも思いが伝わって来るようです。
答唱詩編では「わたしはせつに神を呼び求め、神は耳を傾けてわたしの叫びを聞き入れられた」と歌うとき、イザヤの切なる願いが感謝の歌、賛美の歌となります。
そこから、福音のみ言葉を味わうならば、イエスの到来、イエスの洗礼の現実は、全能の父である神の計画に圧倒される思いになり、イエスに託されたすべての人々に対する救いの使命は、私たちの願い、祈りでなければならないと強く思わされます。
洗礼者ヨハネは、自分の使命を「道を整える者に過ぎない」と述べていましたが、イエスに洗礼を授け、真理について証する者となりました。主である神は、洗礼の恵みを受けたわたしたち一人一人にもイエスを証する者となるように願っているのではないでしょうか。
最初、「わたしはこの方を知らなかった」とヨハネは述べていますが、日曜日ごとに「信仰宣言」をするわたしたちは、神の子であるイエスを証するように、すでに招かれているのです。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と、ヨハネはイエスを指し示しています。小羊は苦しみの僕として、イエスの姿を示すいけにえの小羊です。
人類全体を、そしてわたしたち一人一人を救うために十字架にのぼられた尊いいけにえ 神の子イエスの姿なのです。イエスの歩まれた道を歩むために、「神の小羊」であるイエスを深く黙想して宣教のためにも祈りましょう。
力が足りないというのなら聖霊の助けを祈りながら、語り伝えることが宣教につながっていくことだと思います。』
ミサの後、聖堂で、ボーイスカウト26団の子供たちによるマザーテレサをテーマにした聖劇が行われました。この日のために一生懸命練習を積んだとのことです。
マザーテレサの無償の愛の姿が伝わって来るような、大変素晴らしい出来栄えに、
鑑賞した皆さんから、たくさんの温かい拍手がありました。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『冬至を過ぎてからは、日暮れが少しずつ遅くなって、春が近づいてゆくのですが、北海道はこの季節が一番寒い季節となっています。この冬は「大寒」を前にして、雪も寒さも記録的ですから、一歩、家から出るにしても緊張があり健康維持も大変になります。
昨日から始まったセンター試験も、受験生たちが試験の前から会場に着くまで緊張を強いられているようで気の毒でした。今朝の新聞でも「道内は今日から大荒れ」と大きな見出しが出ていました。
今日のミサ後に、ボーイスカウトの子供たちによるマザーテレサをテーマにした聖劇が発表されます。昨日も寒い聖堂で一生懸命練習していました。是非見てあげて、温かい拍手を送ってあげてください。
さて、これまで白い祭服を着てミサをしていましたが、今日から色が緑に変わりました。何故だかわかりましたか?先週「主の公現」の日曜日が終わり、翌日の「主の洗礼」を迎え平日から年間の季節に入ったのです。3月1日の「灰の水曜日」から始まる「四旬節」まで年間の季節となります。
今年はA年ですから、日曜日ごとに「マタイの福音」のみ言葉をとおして、キリストの生涯と宣教の様子が語られますが、年間の第2主日の今日だけは、決まってABC年ともにヨハネの福音の最初の部分、イエスの洗礼の出来事が朗読され、イエスが宣教活動に乗り出す場面が語られます。
今日のみ言葉を黙想してみましょう。第一朗読 イザヤ予言書の印象的なみ言葉は、最初の「あなたはわたしの僕、あなたによってわたしの輝きは現れる」であり、すでに主の公現、主の洗礼の出来事につながっているように思えます。また「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」とイザヤの予言は「救いの到来」を告げていますが、これこそ救い主イエスの到来と一致するのです。
イザヤは旧約の時代、紀元前745年~695年の時代に生きて活躍した予言者です。紀元前722年、当時の北王国であったイスラエルが滅び、南のユダ王国が残りました。イザヤも信仰の民も、苦しみの時が過ぎると神の民には輝かしい未来が到来すると、神の約束を信じていました。しかし、その時代は、政治的腐敗と圧政、道徳的堕落がはびこっていました。青年であったイザヤは民の偶像崇拝に心を悩ませると同時に、神の救いを保証する使命に燃えていたようです。若き予言者イザヤの心にその熱き信仰と使命を考えながら耳を傾けるなら、聖書の一節一節、一言一言にも思いが伝わって来るようです。
答唱詩編では「わたしはせつに神を呼び求め、神は耳を傾けてわたしの叫びを聞き入れられた」と歌うとき、イザヤの切なる願いが感謝の歌、賛美の歌となります。
そこから、福音のみ言葉を味わうならば、イエスの到来、イエスの洗礼の現実は、全能の父である神の計画に圧倒される思いになり、イエスに託されたすべての人々に対する救いの使命は、私たちの願い、祈りでなければならないと強く思わされます。
洗礼者ヨハネは、自分の使命を「道を整える者に過ぎない」と述べていましたが、イエスに洗礼を授け、真理について証する者となりました。主である神は、洗礼の恵みを受けたわたしたち一人一人にもイエスを証する者となるように願っているのではないでしょうか。
最初、「わたしはこの方を知らなかった」とヨハネは述べていますが、日曜日ごとに「信仰宣言」をするわたしたちは、神の子であるイエスを証するように、すでに招かれているのです。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と、ヨハネはイエスを指し示しています。小羊は苦しみの僕として、イエスの姿を示すいけにえの小羊です。
人類全体を、そしてわたしたち一人一人を救うために十字架にのぼられた尊いいけにえ 神の子イエスの姿なのです。イエスの歩まれた道を歩むために、「神の小羊」であるイエスを深く黙想して宣教のためにも祈りましょう。
力が足りないというのなら聖霊の助けを祈りながら、語り伝えることが宣教につながっていくことだと思います。』
2017年1月9日月曜日
1月8日(日) 主の公現
この日の主日ミサでの後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日は、3人の博士が幼子イエスを訪問するという「主の公現」のお祝い日を迎えています。礼拝する3人の博士を思い浮かべると何となく明るい光景がそこに見えてくるようです。皆さんは今日の馬小屋をしっかり覗かれていたでしょうか。今までの馬小屋の飾りの中に3人の博士が加わって、幼子のそばに立たせてあります。私たちはクリスマスや主の降誕というと、いろいろな絵物語をイメージするのだと思います。クリスマスカードの中にも3人の博士が遠くから砂漠を越えてくるカードなどがありますが、皆さんのクリスマスのストーリーはどんな理解をされているでしょうか。
主の公現の日…主の顕現という言葉も良く使われてきています。顕現の日…幼子、神の子が公になったという意味もあるようです。そして、元々はキリストの洗礼を祝う日が先行していました。ところが東方教会ではキリストの洗礼のお祝い日として大事にされてきたのが、西方教会にそうした習慣が入って来るときに、3人の博士の方が強調されるようになって、キリストの洗礼を祝うよりも、3人の博士の訪問、礼拝をお祝いする日になったことのようです。
聖書の解釈の歴史も豊かなものがあって、聖書では描かれていない内容も盛り込まれて、この3人の博士のストーリが作られていったようです。「3人の博士」と私たちは今、普通に言いますが、聖書の中には「3人」ということはどこにも書かれていないのです。「博士たち」と複数では表現されていますが、博士たちが3人であったのか5人であったのかは一切書かれていません。ところが、教会の解釈の中ではもう3人の博士で定着しているわけです。どうして3人になったのかというと、黄金・乳香・没薬のこの3種類が登場したために、3人の博士で定着したものと考えられます。さらに3人の博士には名前も付けられるようにもなりました。メルヒオール、バルタザール、カスパル、こういう名前が博士の名前と言われるようになりました。それは7世紀になってから、キリスト誕生から700年くらいたってから出来上がった物語になってくるのです。
ですから私たちが理解している、そうだと思っている内容もどこかで、私たちの信仰の創造によって作られた物語が定着してしまったということがたくさんあるようです。さらに、そうしたストーリはこの3人の博士たちが世界の3大陸…当時は3つの大陸しか考えられなかった時代でした。ですから、ヨーロッパ、アジア、アフリカの大陸しか考えられない時代でしたから、その大陸の代表者である一人ひとりが3人の博士となって、イエスを訪れたというストーリも作られてしまうわけです。同時にそれぞれの3人の博士は、老人であり、壮年の一人であり、青年としても描かれているようです。インターネットでも3人の博士を見てみると、それぞれ同じキリスト教の世界でも宗派の違うキリスト教の教会では3人の博士の名前はそれぞれ違ったかたちで登場してきます。非常に興味深いものとなります。
創造と解釈の発展も私たちにとって良く見ようとすれば、興味深いものがそこからたくさん見えてきます。少なくても今日私たちが聴いたマタイの福音では、イエスの誕生の状況を詳細には語っていません。ユダヤのベトレヘムでイエスが生まれたことのみを語っているのであって、そこはダビデ王の出身地であるベトレヘムであるともマタイが記している内容です。
占星術の学者たちはエルサレムを経由して幼子イエスの前にひれ伏して拝んだ。マタイの福音は幼子を最初に礼拝した人たちが外国人、すなわちそれは異邦人ということを表しますが、ユダヤの人ではなくて外国人、異邦人であることが強調されています。ここにも大きな意味があることを教会は見いだしています。それはとりもなおさず救いはイスラエルやユダヤの国だけではなくて、異邦の民に及ぶという主の公現の救いの広がり、救いの豊かさを示しているとも言われます。キリスト教の世界、イスラエルの信仰の世界に留まる救いではなくて、イエスの訪れ、イエスの誕生は世界の人々の救いに繋がっていくのだとマタイの福音記者は書いている、強調したのです。今日の聖書の中でもイエスが誕生した、救い主が誕生したということは、博士たちによってまずヘロデ王にも話されています。当然、長老や律法学者たちもその話に加わっています。でも長老や律法学者たちの誰一人としてイエスを礼拝するということはなかった。むしろヘロデ王も長老や祭司長たちものちのちイエスを抹殺しようとしたということになります。歓迎するのではなくてヘロデ王に関してはエルサレムに住む2歳以下の幼子を皆殺しにしなさいという命令さえ出した。そういう状況のもとで幼子が誕生している。けっしてロマチックな誕生物語ではなくて、厳しい現実がそこにあったということです。博士たちも砂漠を越えて命がけで幼子のところにたどり着いたと言えるでしょう。私たちが主の祭壇に捧げる祈り、その祈りも神を信じる人たちばかりの祈りではなくて、この世界のすべての人に及ぶものになるよう、今日は祈りを捧げたいと思います。
3人の博士をとおして、黄金・乳香・没薬という当時の社会の中では貴重で高価なものがイエスに捧げられています。価値ある最高の贈り物であると言えると思います。黄金は金属の中でも朽ちることのない崇高なもの、今でいう「金」と言っても良いと思いますが、純粋で価値ある黄金が捧げられる。乳香というのは高価な香料であったそうです。また、薬としても使われたそうです。それは抗菌、殺菌、防腐剤としての効果もあったと言われています。エジプトではミイラの防腐剤として有効と言われていますから、これもまた一般の人は手にすることの出来ない貴重なものと考えられます。没薬はイエスが十字架に付けられたときに、兵士から痛みを和らげるために葡萄酒に混ぜて飲ませたとも言われているものです。それは痛みを和らげる効果があるそうです。そうした当時で言えばまさに一般の人には触れることも出来ない高価で貴重なものが、この3人の博士によって贈り物として捧げられたことのようです。
イエスへの最高の捧げ物がイエスの生涯の歩みにも繋がっています。黄金は王である権威を表す。没薬はイエスの十字架の死を後々象徴するものと考えられました。乳香は祭司が使うもので、王職とか祭司職といわれるイエスの3つの役割も、この3つの捧げ物にも表されるとも言われます。
博士たちが捧げた贈り物。それにちなんでかどうか、クリスマスには贈り物が一般的に使われるようになっているようですが、私たちは幼子イエスのお祝いをしながらどんな贈り物を携えていたでしょうか。
子ども達はクリスマスケーキやたくさんの贈り物を期待しているクリスマスかもしれませんが、私たちが神様から贈られた幼子。私たちがその幼子に捧げる贈り物はいったい何であったでしょうか。そんなことも考えています。親しい人に贈り物が出来るならば、それはとても嬉しいクリスマスになってくるでしょうが、なかなか思うようにはならない、そういうことがあります。
私が北一条教会に赴任したその年のクリスマスだったと思います。お金のかからない、いらない贈り物もありますよと話したことがありますが、覚えておられますか。私たちはそれを周りの人に捧げることが出来ますよとお話しましたが、思い出せますか。もう一度繰り返してその話しをします。
こうした贈り物はお金のかからない贈り物として私たちが準備出来るものですよと、話しをしたことがありました。
贈り物は大切な人への愛のしるしにもなるかもしれません。博士たちのような高価な贈り物は出来ないけれど、私たちが心をこめて出来る贈り物は工夫すれば、努力すればたくさんあるような気がします。
今日私たちが捧げる祈りも贈り物として、この世界に生きるすべての人の平和と救いのためになりますようにと、祈りを贈り物にして捧げたたいと思います。主の公現を祝う一年の始まりに私たちが教会共同体として共に集まり、共同体のメンバーとして一緒に祈るひとときが神のみ旨に適うことであれば、それはまた最高の贈り物になるような気がします。
今日は心をこめて最高の贈り物を、最高の祈りとして捧げる祈りとしたいと思います。』
『今日は、3人の博士が幼子イエスを訪問するという「主の公現」のお祝い日を迎えています。礼拝する3人の博士を思い浮かべると何となく明るい光景がそこに見えてくるようです。皆さんは今日の馬小屋をしっかり覗かれていたでしょうか。今までの馬小屋の飾りの中に3人の博士が加わって、幼子のそばに立たせてあります。私たちはクリスマスや主の降誕というと、いろいろな絵物語をイメージするのだと思います。クリスマスカードの中にも3人の博士が遠くから砂漠を越えてくるカードなどがありますが、皆さんのクリスマスのストーリーはどんな理解をされているでしょうか。
主の公現の日…主の顕現という言葉も良く使われてきています。顕現の日…幼子、神の子が公になったという意味もあるようです。そして、元々はキリストの洗礼を祝う日が先行していました。ところが東方教会ではキリストの洗礼のお祝い日として大事にされてきたのが、西方教会にそうした習慣が入って来るときに、3人の博士の方が強調されるようになって、キリストの洗礼を祝うよりも、3人の博士の訪問、礼拝をお祝いする日になったことのようです。
聖書の解釈の歴史も豊かなものがあって、聖書では描かれていない内容も盛り込まれて、この3人の博士のストーリが作られていったようです。「3人の博士」と私たちは今、普通に言いますが、聖書の中には「3人」ということはどこにも書かれていないのです。「博士たち」と複数では表現されていますが、博士たちが3人であったのか5人であったのかは一切書かれていません。ところが、教会の解釈の中ではもう3人の博士で定着しているわけです。どうして3人になったのかというと、黄金・乳香・没薬のこの3種類が登場したために、3人の博士で定着したものと考えられます。さらに3人の博士には名前も付けられるようにもなりました。メルヒオール、バルタザール、カスパル、こういう名前が博士の名前と言われるようになりました。それは7世紀になってから、キリスト誕生から700年くらいたってから出来上がった物語になってくるのです。
ですから私たちが理解している、そうだと思っている内容もどこかで、私たちの信仰の創造によって作られた物語が定着してしまったということがたくさんあるようです。さらに、そうしたストーリはこの3人の博士たちが世界の3大陸…当時は3つの大陸しか考えられなかった時代でした。ですから、ヨーロッパ、アジア、アフリカの大陸しか考えられない時代でしたから、その大陸の代表者である一人ひとりが3人の博士となって、イエスを訪れたというストーリも作られてしまうわけです。同時にそれぞれの3人の博士は、老人であり、壮年の一人であり、青年としても描かれているようです。インターネットでも3人の博士を見てみると、それぞれ同じキリスト教の世界でも宗派の違うキリスト教の教会では3人の博士の名前はそれぞれ違ったかたちで登場してきます。非常に興味深いものとなります。
創造と解釈の発展も私たちにとって良く見ようとすれば、興味深いものがそこからたくさん見えてきます。少なくても今日私たちが聴いたマタイの福音では、イエスの誕生の状況を詳細には語っていません。ユダヤのベトレヘムでイエスが生まれたことのみを語っているのであって、そこはダビデ王の出身地であるベトレヘムであるともマタイが記している内容です。
占星術の学者たちはエルサレムを経由して幼子イエスの前にひれ伏して拝んだ。マタイの福音は幼子を最初に礼拝した人たちが外国人、すなわちそれは異邦人ということを表しますが、ユダヤの人ではなくて外国人、異邦人であることが強調されています。ここにも大きな意味があることを教会は見いだしています。それはとりもなおさず救いはイスラエルやユダヤの国だけではなくて、異邦の民に及ぶという主の公現の救いの広がり、救いの豊かさを示しているとも言われます。キリスト教の世界、イスラエルの信仰の世界に留まる救いではなくて、イエスの訪れ、イエスの誕生は世界の人々の救いに繋がっていくのだとマタイの福音記者は書いている、強調したのです。今日の聖書の中でもイエスが誕生した、救い主が誕生したということは、博士たちによってまずヘロデ王にも話されています。当然、長老や律法学者たちもその話に加わっています。でも長老や律法学者たちの誰一人としてイエスを礼拝するということはなかった。むしろヘロデ王も長老や祭司長たちものちのちイエスを抹殺しようとしたということになります。歓迎するのではなくてヘロデ王に関してはエルサレムに住む2歳以下の幼子を皆殺しにしなさいという命令さえ出した。そういう状況のもとで幼子が誕生している。けっしてロマチックな誕生物語ではなくて、厳しい現実がそこにあったということです。博士たちも砂漠を越えて命がけで幼子のところにたどり着いたと言えるでしょう。私たちが主の祭壇に捧げる祈り、その祈りも神を信じる人たちばかりの祈りではなくて、この世界のすべての人に及ぶものになるよう、今日は祈りを捧げたいと思います。
3人の博士をとおして、黄金・乳香・没薬という当時の社会の中では貴重で高価なものがイエスに捧げられています。価値ある最高の贈り物であると言えると思います。黄金は金属の中でも朽ちることのない崇高なもの、今でいう「金」と言っても良いと思いますが、純粋で価値ある黄金が捧げられる。乳香というのは高価な香料であったそうです。また、薬としても使われたそうです。それは抗菌、殺菌、防腐剤としての効果もあったと言われています。エジプトではミイラの防腐剤として有効と言われていますから、これもまた一般の人は手にすることの出来ない貴重なものと考えられます。没薬はイエスが十字架に付けられたときに、兵士から痛みを和らげるために葡萄酒に混ぜて飲ませたとも言われているものです。それは痛みを和らげる効果があるそうです。そうした当時で言えばまさに一般の人には触れることも出来ない高価で貴重なものが、この3人の博士によって贈り物として捧げられたことのようです。
イエスへの最高の捧げ物がイエスの生涯の歩みにも繋がっています。黄金は王である権威を表す。没薬はイエスの十字架の死を後々象徴するものと考えられました。乳香は祭司が使うもので、王職とか祭司職といわれるイエスの3つの役割も、この3つの捧げ物にも表されるとも言われます。
博士たちが捧げた贈り物。それにちなんでかどうか、クリスマスには贈り物が一般的に使われるようになっているようですが、私たちは幼子イエスのお祝いをしながらどんな贈り物を携えていたでしょうか。
子ども達はクリスマスケーキやたくさんの贈り物を期待しているクリスマスかもしれませんが、私たちが神様から贈られた幼子。私たちがその幼子に捧げる贈り物はいったい何であったでしょうか。そんなことも考えています。親しい人に贈り物が出来るならば、それはとても嬉しいクリスマスになってくるでしょうが、なかなか思うようにはならない、そういうことがあります。
私が北一条教会に赴任したその年のクリスマスだったと思います。お金のかからない、いらない贈り物もありますよと話したことがありますが、覚えておられますか。私たちはそれを周りの人に捧げることが出来ますよとお話しましたが、思い出せますか。もう一度繰り返してその話しをします。
- 「聞く」贈り物。人の話を良く聞く贈り物を自分の心の中で決心することが、周りの人に贈り物を準備することになる、そんな話をした記憶があります。そういう心がけでクリスマス、新年を迎える新しい一年に向かったらどうでしょうか。
- 「励まし」の贈り物もあります。人を励ます言葉を大切にしていきましょうというお話をしました。
- 「笑い」の贈り物。つまり、人に笑顔を贈ること。
- 「一筆」の贈り物。それは一言のメッセージ、手紙を遠く離れた人に、身近な人にも心をこめて一筆捧げる贈り物が出来るのではないでしょうか。
- 「褒めことば」の贈り物。人を大切にすることに繋がっていきます。笑顔を贈ることにも繋がっていきます。
- 「親切」の贈り物についても触れたと思います。
- 「一人っきりにする」贈り物。何でもかんでも関わって相手を患わせるのではなくて、少しそっとしておく。そういう心がけも贈り物として出来るのではないでしょうか。
- 最後の贈り物は、「明るい雰囲気づくり」も贈り物になるのではないでしょうか。
こうした贈り物はお金のかからない贈り物として私たちが準備出来るものですよと、話しをしたことがありました。
贈り物は大切な人への愛のしるしにもなるかもしれません。博士たちのような高価な贈り物は出来ないけれど、私たちが心をこめて出来る贈り物は工夫すれば、努力すればたくさんあるような気がします。
今日私たちが捧げる祈りも贈り物として、この世界に生きるすべての人の平和と救いのためになりますようにと、祈りを贈り物にして捧げたたいと思います。主の公現を祝う一年の始まりに私たちが教会共同体として共に集まり、共同体のメンバーとして一緒に祈るひとときが神のみ旨に適うことであれば、それはまた最高の贈り物になるような気がします。
今日は心をこめて最高の贈り物を、最高の祈りとして捧げる祈りとしたいと思います。』
2017年1月1日日曜日
1月1日(日) 神の母聖マリア
新年明けましておめでとうございます。
新しい年が神の恵みに満ちた平和な一年でありますように。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『皆さん、新年明けましておめでとうございます。
神に感謝し、共に喜びお祝いいたします。
雪と寒さに溜息をついていた私たちではないでしょうか。
でも、大みそかの日と今日の元旦は、穏やかな一日を迎えています。
この穏やかな自然に包まれていると、心も平和を取り戻すようなそんな落ち着きを私は感じています。その心の平和を味わっていると、そこに神の恵みも感じられてきます。
教会は毎年の元旦を「神の母聖マリア」の祭日として、世界中の教会、信徒がこの地上に世界平和を祈る日となっています。教皇様は既に全世界の信徒に向けて、メッセージを出されています。信仰と希望における父として、旧約聖書のアブラハムの姿を教皇様は私たちに告げ知らせています。人間が一見不可能と思われるその中に希望があるということを旧約聖書のアブラハムの物語でも示されています。
「希望は新たな地平を開き、想像もつかないところに夢を見させる。希望は不確かな未来の闇の中に歩むための光を私たちにもたらす。」教皇様はこうメッセージの中で触れています。
聖書を見ますと、アブラハムの歩みは困難なものであって、失望や老いや疲れを感じる中で、子孫を持たずに死ぬことを神に嘆いたりするアブラハムの姿が旧約聖書で語られます。この神に嘆くということ自体が一つの信仰の形ではないか、一つの祈りではないかと、教皇様はメッセージの中で触れられています。実際、私たちも信仰生活を送るなかで、神様に愚痴をこぼすことがたくさんあるような気がします。でもそれもまた神に向っての祈りにつながっていくと思います。信仰はただ黙って受け入れるのではなくて、格闘でもあると教皇様は言われます。希望は決して失望させることはないと強調されています。どんなにつらくても、嘆きを言わざるをえなくても、希望を失わずに祈り続けなさい、そう言われているような気がします。教皇様のクリスマスのメッセージのなかでも、平和について、そしてこの世にある嘆き苦しみについて触れられています。特にこの地球に住む人たち、とりわけシリアやウクライナ、そして聖地パレスチナおよびイスラエルを始め、世界中で行われている戦争や激しい紛争の結果、苦しんでいるすべての人たちのもとへ平和が訪れますようにと。今、私たちの世界、私たちの社会、いつでも大きな不安を私たちにもたらす世界になっています。テロは遠い国で起こることではなくて、私たちの身近な世界・社会にも起こっています。教皇様はそういうなかで、テロの犠牲者たちにも慰めの言葉をクリスマスのメッセージのなかに込めていました。平和はなかなか進展していません。それはとても残念なことですが、そのようななかにあっても私たちは希望を持ち続けなければなりません。イスラエルとパレスチナの問題に対しては、歴史の新たな一ページを記す勇気と決意を持つこと、さらには残忍なテロ行為の結果として大切な人を失くした人たちには平和を希望しますと、教皇様は語られます。
私たちもどこかで挫折しそうな時が出てくるかもしれません。自分の思いはなかなか現実とはならない歯がゆさも感じることが度々あるかもしれません。でも神が一人一人を呼び集めてくださったこの私たちの教会から、私たちが一つになって心から祈るその願いは、新しい一歩として希望の光をもたらすことができると私たちは信じています。
今日、平和を祈る私たち、私たちのその聖なる心の祈りをいつも忘れることのない、この一年の歩みといたしましょう。
そして、教区100年、北一条教会の献堂100年を祝った私たちの祈りが、いつも神のみ心にかない私たちに勇気を与えるものとなりますように。
全ての人の平和を実現するための行動が伴う日々となりますように。
幼子を送ってくださった神に感謝し、地には平和が訪れますように。
み心にかなう人に幸せが来ますように。
また、教会のモットーでもあった「次の世代に繋ぐ」というその言葉がかないますように。
新しい年に、神の祝福が全ての人に行き渡るように、心を合わせて祈るこのミサを捧げていきたいと思います。』
新しい年が神の恵みに満ちた平和な一年でありますように。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『皆さん、新年明けましておめでとうございます。
神に感謝し、共に喜びお祝いいたします。
雪と寒さに溜息をついていた私たちではないでしょうか。
でも、大みそかの日と今日の元旦は、穏やかな一日を迎えています。
この穏やかな自然に包まれていると、心も平和を取り戻すようなそんな落ち着きを私は感じています。その心の平和を味わっていると、そこに神の恵みも感じられてきます。
教会は毎年の元旦を「神の母聖マリア」の祭日として、世界中の教会、信徒がこの地上に世界平和を祈る日となっています。教皇様は既に全世界の信徒に向けて、メッセージを出されています。信仰と希望における父として、旧約聖書のアブラハムの姿を教皇様は私たちに告げ知らせています。人間が一見不可能と思われるその中に希望があるということを旧約聖書のアブラハムの物語でも示されています。
「希望は新たな地平を開き、想像もつかないところに夢を見させる。希望は不確かな未来の闇の中に歩むための光を私たちにもたらす。」教皇様はこうメッセージの中で触れています。
聖書を見ますと、アブラハムの歩みは困難なものであって、失望や老いや疲れを感じる中で、子孫を持たずに死ぬことを神に嘆いたりするアブラハムの姿が旧約聖書で語られます。この神に嘆くということ自体が一つの信仰の形ではないか、一つの祈りではないかと、教皇様はメッセージの中で触れられています。実際、私たちも信仰生活を送るなかで、神様に愚痴をこぼすことがたくさんあるような気がします。でもそれもまた神に向っての祈りにつながっていくと思います。信仰はただ黙って受け入れるのではなくて、格闘でもあると教皇様は言われます。希望は決して失望させることはないと強調されています。どんなにつらくても、嘆きを言わざるをえなくても、希望を失わずに祈り続けなさい、そう言われているような気がします。教皇様のクリスマスのメッセージのなかでも、平和について、そしてこの世にある嘆き苦しみについて触れられています。特にこの地球に住む人たち、とりわけシリアやウクライナ、そして聖地パレスチナおよびイスラエルを始め、世界中で行われている戦争や激しい紛争の結果、苦しんでいるすべての人たちのもとへ平和が訪れますようにと。今、私たちの世界、私たちの社会、いつでも大きな不安を私たちにもたらす世界になっています。テロは遠い国で起こることではなくて、私たちの身近な世界・社会にも起こっています。教皇様はそういうなかで、テロの犠牲者たちにも慰めの言葉をクリスマスのメッセージのなかに込めていました。平和はなかなか進展していません。それはとても残念なことですが、そのようななかにあっても私たちは希望を持ち続けなければなりません。イスラエルとパレスチナの問題に対しては、歴史の新たな一ページを記す勇気と決意を持つこと、さらには残忍なテロ行為の結果として大切な人を失くした人たちには平和を希望しますと、教皇様は語られます。
私たちもどこかで挫折しそうな時が出てくるかもしれません。自分の思いはなかなか現実とはならない歯がゆさも感じることが度々あるかもしれません。でも神が一人一人を呼び集めてくださったこの私たちの教会から、私たちが一つになって心から祈るその願いは、新しい一歩として希望の光をもたらすことができると私たちは信じています。
今日、平和を祈る私たち、私たちのその聖なる心の祈りをいつも忘れることのない、この一年の歩みといたしましょう。
そして、教区100年、北一条教会の献堂100年を祝った私たちの祈りが、いつも神のみ心にかない私たちに勇気を与えるものとなりますように。
全ての人の平和を実現するための行動が伴う日々となりますように。
幼子を送ってくださった神に感謝し、地には平和が訪れますように。
み心にかなう人に幸せが来ますように。
また、教会のモットーでもあった「次の世代に繋ぐ」というその言葉がかないますように。
新しい年に、神の祝福が全ての人に行き渡るように、心を合わせて祈るこのミサを捧げていきたいと思います。』
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