2017年1月24日火曜日

年間第3主日

「悔い改めなさい。天の国は近づいた。」
先日、封切られた遠藤周作の小説を映画化した「沈黙 -サイレンス-」と重ねて、この日のみ言葉について、後藤神父様がお説教されました。


『昨日、「沈黙-サイレンス」という映画が封切られました。私は、8時45分の一番最初の映画を駆けつけて観てきました。映画の中の世界でも、今の私たちの世界と変わらない面があると考えます。黙想するとそういう思い、そういう一瞬の場面が今の時代と変わらない、そんな気もします。地上の生活が苦しく厳しく、また悲しみが深まれば深まるほど、信仰を奪われた苦しむ民にとっては、イエスの深い憐れみの心は新しい春の訪れのようであるかのようです。希望の光、救いの光としてイエスは信仰者とともに歩んでくださる方になっていくような気がします。映画の中でもそんな思いで眺めていました。

 「沈黙」という映画と重ねて、今日のみ言葉を黙想することもできます。み言葉の場面は、イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネが捕らえられ、首を斬られて殉教する時代を描いています。一言でヨハネが捕らえられたと表現されていますが、聖書をみますと捕らえられたヨハネは首を斬られ殉教するという様子が描かれます。まさに、聖書の世界でも迫害時代が始まる状況を私たちに示されています。黙想する一瞬の背景には、迫害の中にあって貧しさ苦しさ悲惨な状況、闇である世界を見せつけてくれます。イエスはそういう中にあっても、闇の世界にあっても、喜びの訪れを告げるために人々の中に入っていきました。当時の人々もまた、私たちもまた、そのイエスの愛と憐れみを受け取るための人間として、そのイエスの前に立つことが求められるようです。
 イエスは洗者ヨハネが伝えていたように、イエスもまた「悔い改めなさい。天の国は近づいた。」と話されています。呼びかけています。信仰の喜び信仰の救いとは、神との関係から私たちに伝えられるもの、私たちに入ってくるもの。悔い改めの呼びかけは、その意味では大切な要素になります。洗者ヨハネも繰り返し呼びかけた、救いと天国への準備の悔い改めでもあったはずです。心を入れ替えて神にかえり、そういう悔い改めに対して逆に悔い改めない心とはどういうことを考えるでしょうか。自分に対しても人に対しても 悲しみの深さを理解することが出来ない、その心を指しているような気がします。
  罪について私たちはもっともっと深く黙想しながら、自分の信仰にあわせながら考えていかなければならないようです。そこには自分の弱さ、自分のもろさを知らない思い上がった心があるために、悔い改めに繋がらない自分が立ち止まってしまいます。そういう心を持っていては、悔い改めることが出来ない状況であるならば、イエスとの真の出会いは難しいのではないでしょうか。
 イエスと出会うために、イエスと再び生きるために「沈黙」という映画の中では告解、悔い改め…長崎の当時の言葉では「コンヒサン」と呼んでいました。…そのコンヒサンを訪れた司祭に願って、悔い改めるシーンが何度も何度も繰り返し、映画では描かれています。そして、何度も何度も告解する「キチジロー」という主役に近い登場人物がいますが、自分の弱さゆえに告解を繰り返ししなければならない状況を、映画は強調して描いているように思いました。

  「人間がこんなに悲しいのに、主よ海があまりにも青いのです。」遠藤周作は小説を書かれた後にそう言う言葉を残しているそうです。時代は変わっても、海の青さはそのまま私たちに見せている。でも、その青い海の中に殉教した多くの人々がその命を埋めていった、沈めていった。そういう現実がまた見えてきます。「キチジロー」という人の告白、告解、悔いあたらめ、映画でも小説でもそうですが、だらしなく、いくじのない「キチジロー」の姿を私たちに見せつけます。不安と恐れにかられてあまりにも弱い姿を、私たちにいやというほど見せつけるのが遠藤周作の世界であり、映画でもそういうことが強調されています。そして「キチジロー」の転び、罪は誰にでもある悩みであり、格闘する心、不安な心に繋がっているようでもあります。私たちも決して「転ばない。」とは言い切れない、そういう不安を抱えているのではないでしょうか。

  「悔い改めよ、天の国は近づいた。」その後に弟子たちを招くイエスに言葉は「私についてきなさい。」という言葉です。イエスの招きは、私たちの洗礼に始まる信仰の歩みでもあったはずです。私たちもイエスの招きによって洗礼の恵みをいただいて信仰を得ています。そしてその信仰を歩んでいます。
 私たちのその信仰はどんな信仰でしょうか。本当にイエスに出会い、イエスからの光を大切にして、それを生きているでしょうか。イエスの教えを本当に守っているでしょうか。過ちを犯したならば、それを悔い改める信仰になっているでしょうか。誰もが救いの光、希望の光、安らぎの光をイエスに求めます。最後にはきっと天の国に入る、いや入れてもらえるという思いをもって、私たちは信仰を生きているような気がします。そこに甘えも見えてくる。私自身そのような思いで映画を観たと。「キチジロー」が転んで悔い改めて赦しを願う姿を見ながら、私自身の甘い信仰もまた見つめています。いつかは天の国に行く私も招かれている、招かれているはずだ。でも、悔い改めもしないままで、神様はそのまま天の門に招き入れるのでしょうか。改めることも出来ない状況で、そのことは強く私の心に留まっています。

  私たちの教会の中では「赦しの秘跡」、「共同回心式」について、昨年あたりからいろいろと話しをしています。悔い改めることは大切、赦しの秘跡は大切だと分かっていながらも、前に一歩も進めずに立ち止まっている私たちがあります。私たちの共同体はそこにあるようにも感じます。誰もが大切であると知りながら、その一歩を踏み出せないままで、私たちは天の国に入ると、また甘えの信仰を生きているのではないか、そんなことも考えたりしています。
  今日のミサの十字架のしるしをした、最初の祈りの中にも悔い改めの祈りがありました。私たちは罪を認め心を改めましょうと呼びかけられて、心を清め改めてもう一度イエスといっしょに歩んで、この祈りに入っていくために悔い改めの祈りをしています。私たちの罪を思えていたときにどんな罪を考えたのでしょうか。罪とはいっているけれど、具体的に自分の罪を思い浮かべることなくして、告白の祈りを唱えている人も多いのではないでしょうか。具体的にこのミサの前に、私はどのような思いをもってミサに入ろうとしていたのでしょうか。罪というのは言葉では簡単にひとことで言ってしまいますが、私たちの罪はそんなに簡単なものでしょうか。弱い自分を理解して欲しい、弱い自分を理解して欲しい、知って欲しいといいながらも、悔い改めて神の恵みを取り戻そうともしない、自分の信仰に甘んじている私たちがいるのではないでしょうか。そんな自分自身の信仰を見つめさせる映画でもありました。自分の心さえ抉ってくるような、そんな場面に何度も何度も出会いながら映画を鑑賞していました。

  イエスは弟子たちを集め、闇の中にいるすべての人を、そして私たち一人ひとりを照らす光として、福音の良い便りを伝えようとしています。年間の季節に入って、マタイによる福音によって宣教活動を開始するイエスを、これから毎日曜日、朗読されることになります。ガリラヤよりもナザレの田舎の方が安定であったはずなのに、イエスは世の中に出て、闇の中に入っていって人々に光を差し出して、そこから救いだそうとされます。「ガリラヤに退かれた。」というこの表現の中にイエスの宣教の決意、意気込みを私たちは感じることができます。イエスの歩みは、より貧しいより悲しい、そういう悲しみ溢れる人々の中にイエスの期待はさらに照らし出されていきます。深い悲しみの涙の流れるところに、イエスの歩みは繋がっていきます。でも、私たちは甘んじて信仰を生きることなく、甘えでイエスの手をただつかみ取るのではなくて、私たち自身も努力をしながら本当に真の出会いがあるように、イエスの手を私たちは受けとめたいと思います。弟子たちを招いたイエスに私たちの思いも重ねながら、イエスに信頼して希望の光を見失うことなく、従いつつ歩んで行きたいと思います。

  子供たちの三学期が始まりました。春は進学、就職の季節であり、厳しい競争社会の中に入っていく若者もたくさんいる季節です。生きる試練を経験する人も少なくないと思います。憐れみの光をしっかりと見つめる幼子のように、単純な信頼でイエスとの絆をより強めると思います。子供たちや私たちが出会う人々に、イエスが告げた良き便りを私たちからも伝えられるように、宣教の働きを大切にしたいと思います。
  映画の中で「神の沈黙」ということは観た後も解決することもなく、一人の心をつかんでしまうと思います。小説を読まれたときから、ずっとそのテーマが皆さまの心にもあるのではないでしょうか。
 「神の沈黙」…難しいテーマだと思います。映画を観ても解決するわけではありません。でも、私たちのその沈黙の中に神の愛が感じられます。そして闇の中にあったとしても、ひとすじの光が自分の方に向かってくる、そんな恵みもまた感じられます。私たちの信仰をもう一度見つめながら、神の沈黙と対峙して私たちの信仰を成長させたいと思います。』