2017年7月31日月曜日

年間第17主日 小田武彦神父様をお招きして

7月29日(土)~30日(日)に、小田武彦神父様(カトリック大阪大司教区司祭、聖マリアンナ医科大学特任教授宗教主事)をお招きし、「ミサ 愛の秘跡に生かされて」と題して講演会が行われました。


主日ミサ後に行われた2日目の講演では、教皇ベネディクト16世 使徒的勧告「愛の秘跡」を引用され、キリストの愛の秘跡とご聖体をいただく意味、信徒の務め、大切に心がけなければならないこと、などについて解りやすくお話いただきました。
私たちが日常生活を過ごすなかで埋没しがちな使徒的意識を目覚めさせていただけるような大変有意義な講演会となりました。特に「私たちが与るミサと日常生活は深くつながっていることが大切です」という言葉がとても印象的でした。イエス様の語られる真理を、私たちは日常生活を送るなかでいつも心に留めておくことが出来るよう祈りたいと思います。






講演会後に小田神父様を囲んでの茶話会では、参加者からの質問にご丁寧にお答えいただき、また、司祭を志すきっかけや、当教会主任司祭 後藤神父様との神学校時代のエピソードについてなどについてもご披露いただき、楽しいひと時を過ごすことができました。
小田神父様、遠いところからお越しいただき大変有難うございました。

この日の主日ミサを司式いただいた小田神父様のお説教をご紹介します。


『今日の第一朗読は、ソロモンがお兄さんのアドニヤとの争いに勝ち、ダビデの王の位を正式に受け継ぎ、ギブオンで一千頭もの焼き尽くす献げ物を捧げ終わった日の夜に、ソロモンが見た夢の話しです。王になったばかりのソロモンは焼き尽くす献げ物を捧げながら、神に向かって必死に祈り続けていたのでしょう。神に感謝し、愛と信頼を込めて語りかける恵みを願い続けていたはずです。焼き尽くす献げ物を捧げ終わった夜、そんなソロモンの夢の中に神が現れて「あなたの願うことを何でも与えよう。」と、おっしゃってくださったのです。ソロモンはアドニヤとの争いに勝つことによって王の位に就きました。その激しい争いの様子は旧約聖書の列王記上1、2章に書かれていますが、けっして生やさしいものではありませんでした。ソロモンはあらゆる手を使って反対勢力を一つ一つねじ伏せ、必死になって王としての立場を確かなものにしていきました。
でも、ソロモンは自分の力で王になれたとはけっして思わなかった。今日の第一朗読の7節をご覧ください。ソロモンの最初の言葉です。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。」実際は激しい争いによって王になったのですが、ソロモンは自分はあくまでも神のみ旨によって、王として立てられたのだと本音で受けとめていました。そして、ソロモンは続けて主に向かって語り掛けます。「私は取るに足りない若者、でどのようにふるまうべきかを知りません。」取りあえず国内を統一することはできたけれど、自分は指導者としてまだまだ未熟だと、ソロモンは自覚していました。それでソロモンは主に向かって 「聞き分ける心をお与えください。」と、必死になって願いました。今日の第一朗読の最後。神はその願いを聞き入れてくださり、聞き分ける知恵、知恵に満ちた賢明な心を与えてくださったと、第一朗読では語られます。

 今日の福音朗読でイエスは、天の国についての三つのたとえを語っておられます。イエスが語る天の国とは、死んでから行くいわゆる天国や極楽のことではありません。つい私たちは、天の国というと日本語の天国と、「の」が入っているか入っていないかの違いなので、「ああ死んでからの世界」と思ってしまうのですが大きく違います。天の国とは神様との交わりそのもの。神との親しい関わりのことです。
  今日のたとえ話しの最初の二つは良く似ています。畑の中に宝を見つけた人も、高価な真珠を見つけた商人も、ともに自分の持ちものをすっかり売り払い、見つけた宝や真珠を手にいれます。つまり、神様と共に生きる天の国というのは、持ち物すべてを手放してでも手に入れたいと願うほどの、貴重で喜びをもたらすものだということです。三つ目のたとえ話しは少し雰囲気が違います。天の国が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を寄せ集める網に似ていると言われます。天の国にはあらゆる魚を集める網のように、すべての人が包み込まれていると言うのです。
 ここで本当に私たち、しっかりとこのイエス様のたとえ話しに耳を傾ける必要があると思います。死んでから行く天国、極楽というイメージで生きたら今日のこのたとえ話し、間違って理解してしまいます。と、言うのはこのたとえ話しの中では、天の国の中には悪い者も含まれているからです。天国、極楽だったら悪い者がいるはずがない。勝手に私たちそう思い込んで、イエス様のお話を誤解して平気で聞いている可能性があります。しっかりと福音を味わいたいと思います。でもこの悪い者とは前の二つのたとえで、持ち物すべてを手放してでも手にいれたいと願うほど、貴著な天の国に気づいていない鈍感な人のことだと、聖書学者たちは解説しています。ですから、悪い者と言われても、つい私たちがなんか意地悪をする人とか、いうふうに思うとこれも違ってきます。私たちが日々出会っている、あらゆる出来事に現れている神の働き。つまり、天の国に気付かない悪い者どもは、世の終わりに泣きわめいて歯ぎしりすることになるだろうと言われます。私たちはすでに天の国を生きているんです。もう私たちの日々の生活の中に神様が働いてくださっているのです。神様が関わってくださっているのです。それに目をつむっていると悪い者だと言われるのです。世の終わりに泣きわめいて歯ぎしりすることになるだろう。私たち、つい子供の頃から極楽の話しを聞いていて、嘘をついたら舌を抜かれるよとか、何かそういう物語、説話の世界に生きていて、ついイエス様の話をいつのまにか、そういう日本の説話の話しとごっちゃまぜにして受けとめている可能性があるのではないでしょうか。
 52節の「天の国のことを学んだ学者」とは、学問に秀でた人と言う意味はありません。そうではなくて、日々の出来事の中に神様の働きが見ることが出来るようになった人のことです。ですから私たち、別に特別な有名な大学を出ていなくても、日々の生活の中で、市場であるいは道端でいろいろな人とおしゃべりをしながら「あっ、神様がここで働いてくださっている。神様が関わってくださっている。導いてくださっている。」と感じることが出来たら、それを感謝することが出来たら、「天の国ことを学んだ学者だ。」とイエス様は今日のたとえ話しの中でおっしゃっているのです。

  第二朗読をご覧ください。パウロは、神を愛する者とは、神のご計画に従って召された者のことだと語ります。私たちが神様に出会させていただき、神様の導きに従って、神様の導きを大切にして生きることが出来るようになったのは、神様が呼びかけてくださったからです。もうすでに、私たちは神様の働きの中で歩み始めています。だから私たちここにいるのです。感謝です。私たちが今ここにいるのは神様が導いてくださったから、召し出してくださったから。
 イエスによって神の支配が始まりました。でもまだ完成はしていません。この世の中には、まだまだ悪が複雑に混じりあって存在しています。ですからちょっとでも油断すると、悪の誘惑に負けてしまいそうになります。こういう世の中だからこそ、パウロは言います。「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになった。」のだと。こういう世の中だからこそ、神様は私たちを召し出してくださった。私たちを義としてくださった。そして、義とされた私たちに栄光を与えようと神様ご自身が、今日も働いてくださっているのです。神様は救いの計画を確実に実現しようと、今日も私たちに働きかけてくださっています。洗礼を受けてキリスト者になるように召された者には、万事が益となるように共に働くことが知らされています。
 ですから、体験している様々な出来事の中に、神様の働きを見ていることがとても大切なのです。私たちの日々の生活の中で神様が働いてくださっている。それはどんなことでも良いのです。ちっぽけなことかもしれません。でも「あっ、ここに神様が働いてくださっている。」人との出会い、あるいはお花、大自然の営み、いろいろなことの中に神様が働いてくださっている。そして、今日私たちがここにこうして集まっているのも神様の働きです。
 なぜ私たちは今日ここにいるのでしょうか。神様が呼んでくださっているからです。私たちの仲間のなかには来たくても来れなかった方々がいらっしゃいます。その方々のことを思いおこしましょう。突然朝になっておばあちゃんの具合が悪くなった。ミサに行きたい。でも、ミサに行くよりもおばあちゃんの世話をすることを優先する。だから今日、ここに来られない方がいらっしゃるかもしれません。周りを見まわして、「あっ、いつもいらっしゃる方が、今日はいらっしゃってない。」そしたら、その方の分も私は祈らなくちゃ。その方のいろいろな事情のために、「どうか神様、私がいただいている恵みを使ってください。」と差し出していく。御ミサのときにパンとブドウ酒を献げていく時に、そういう私たちの頭を使って、わたしたちの普段のつきあいを思いおこし、それは信者だけではないです。ご近所のおじいちゃんのことであったり、職場の最近、何かうつ状態になっている仲間のことだったり、いろいろなこと全部思いおこして、私たちの日々の生活の中に神様が働いてくださっている。それを思いおこすために、神様が私たちを今日ここに呼んでくださいました。

 わたしたちが日々体験している様々な出来事の中に、神様の働きを見、ソロモン王と同じように「聞き分ける知恵、知恵に満ちた賢明な心を与えてください。」と心から願い、もうすでに始まっている天の国、でもまだ完成していない、その途中で神様が「おい、手伝って!」と呼びかけられて、私たちはここに集まりました。「こんな私でよければ手伝います。」と、新たな決意を持って、希望を持って祈って参りましょう。』




2017年7月23日日曜日

7月23日(日)年間第16主日

今日のみことばは「毒麦のたとえ」でした。
私たちの心のうちには"良い麦"もあり"毒麦"もあるのではないでしょうか。
最後まで忍耐強く待たれる神の慈しみについて黙想しましょう。

今日のミサは勝谷司教様の主司式でした(共同司式:後藤神父様、佐久間助祭)


佐久間助祭と蓑島神学生のお二人が夏休みで帰札しました。
ミサの後、お二人からご挨拶がありました。



司教様のこの日のお説教をご紹介します。

『今日の福音のたとえを皆さんはどうお読みになったでしょう。終わりの日に毒麦は焼かれ、麦は倉に入れられる。これを終わりの日の裁き、あるいは個人的な回心を求めるたとえと思ってはいないでしょうか。確かにそういう部分もあります。最終的に私たち善人が報われるのだという希望を与えてくれるメッセージでもあります。
 しかし、今日の福音のポイントはむしろ、それとは逆のことを言っているのではと私は解釈たいと思っています。たとえ悪人であっても、神は忍耐をもってご覧になり、第一朗読にあるように裁きではなくて、寛容と慈悲をもってお臨みになられます。この箇所を個人主義的に読めば本来の意味を見失ってしまいます。今日のメッセージは書かれた当時に、そして現在に共同体に向けられたメッセージです。この話しを私たちの社会や教会共同体にあてはめて考えてみてください。何故、あんな人がいるのか。この人さえいなければ。私たちは自分勝手な好みや独善的な正義感で人を裁いてしまう傾向があります。そして、それが多数派になれば、その人を排除しようとする動きも出てきます。毒麦を抜こうとする僕の姿は、このように私たちの共同体にも良く見られることです。
 しかし、福音にも書かれているとおり、実際は毒麦と麦の区別ははっきりとつきにくいのです。アゥグスチヌスやフランシスコなどは、私たちの知るそのほか多くの聖人たちも多くは、始めのうちは多くの人々から毒麦と思われていた人たちです。実際、誰が自分は神の倉に入れられるように出来るかと言えるのでしょうか。むしろ、自分を良い麦と考え、人を毒麦だと断罪し排除しようする者こそ、イエスが神の国から遠いとされたファリサイ人と、同類とあると知るべきでしょう。私たちのうち、だれ一人として完全な善人や絶対的な悪人はいません。すべての人の内に、毒麦も良い麦も存在するのです。すべてを善か悪か、白か黒かはっきりさせて裁いてしまおうとする態度は、イエスが批判した律法学者の態度なのです。
  そう考えると、終わりの時に焼かれる毒麦のたとえは恐ろしい裁きではなくて、むしろ喜ばしい救いのメッセージであると気付かされます。誰かが裁きを受けて焼き滅ぼされるのではなく、すべての人の中にある毒麦が取り除かれるのです。焼き尽くされるのは私たちの中の愛に反する心で、この炎を通して私たちは純粋な愛の世界へと導き入れられるのです。自分の力では克服出来なかった悪への負担、罪の現実が神の愛の息吹と炎によって、籾殻のように吹き飛ばされ焼き尽くされるのです。残るのはキリストを中心として、完全な愛の交わりに生きる私たちなんです。       
 今日の福音を単純な完全調和のたとえとして考えるのではなくて、私たち一人ひとりの心の中に見極める神の私たちの思いを純化し、神の愛において純粋なものなるように祈りながら、ごミサを捧げて参りましょう。 』

2017年7月16日日曜日

7月16日(日)年間第15主日

今日のみことばは「種を蒔く人」のたとえでした。
イエス様からいただいた"種"。私たちはどんな実を結ばせることができるでしょう。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日のみ言葉は、最初の一節から映画のシーンを見ているようにイエス様の姿が浮かんできます。群衆が取り巻き、その背景にはガリラヤ湖畔の緑豊かな畑も目に浮かんでくるようです。そして、その向こうには羊の群れが無心に草を食む光景や、舟が浮かぶ湖の湖面の波も眺められるような気がしました。
状況はまったく違いますが、イエスが2000年前に話された話を、私たちが今日ここで聞いているという不思議さも感じています。イエスが今日語られたのは「種まき」の話ですが、場所も時間も超えてたった今、私たちは聖書をとおしてその話に耳を傾けています。
皆さんの心にはどのようにイエス様のことばが届いたでしょうか。

パレスチナの自然、その湖の周りは大地が広がり、緑の草や木が豊かに生い茂る自然の姿がありました。地を耕すと、すぐに土の香りが広がる世界が、彼らの生活・現実でした。
耕す土地は、良い土地もあり、悪い土地もあり、また石だらけの土地もあるようです。だから種を蒔いたとしても、どんな土地に種が蒔かれるかによって、たとえ芽を出しても、その成長や収穫も大きな違いとなってしまうというのが今日のお話です。
一方時代を超えて、このみ言葉に耳を傾けている私たちですが、実際に土を耕したり、種を植える生活をしている人はほとんど少ない現状だと思います。種が芽吹いたり成長する姿を見ることもまさに稀なこと、スーパーや店に並ぶ立派に育った見栄えの良い野菜等を手に入れるだけ、それは幸いなのか不幸なのかということを考えます。

もし、イエス様の語られるみ言葉が"種"だとしたら、そのみ言葉を聞き、受け入れる人の心が土地であるというのを、今日のたとえから私たちは考えることができます。イエス様のみ言葉が"種"、その種を私たちは心に受け止めて、どんな心の中に種を植えているでしょうか?種はうまく芽を出しているでしょうか?私たちは成長させて、実り、収穫を手にすることができるでしょうか。聞く人の心が「良い土地」、「悪い土地」、そして「石だらけの土地」ということが考えられそうです。私たちの心はどんな種類の土地になっているでしょうか。
実を結ぶ種であったとしても、道端に落ちたか、石だらけの土地、土が薄い土地に落ちたか、または茨の中に落ちたか、それによって決定的な違いが生じてきます。いくら実を結ぶ種であっても、どんな心の中に受け止められたかによって、実り方も違ってくる。イエス様のたとえの後半では、種が育ったときには、3種類の収穫があるという話をされています。同じ種からでも収穫は30倍、60倍、100倍とそれぞれ違いがあるということを話されています。
まさに自分に置き換えて考えてみるとき、私たちが受け止めた恵みの種はどんな実を結ばせているのだろうかと、考えざるをえません。心が曇っていたり、鈍っている人には、神の奥義は理解できないだけでなく、み言葉そのものさえも受け入れることができないとも言われます。
私たちは日曜日ごとにみ言葉に耳を傾けていますが、キリストの言葉を受け入れ、それを悟るためには、心の貧しい人、小さな人、素直な人、謙虚な心を持たなければならないというところに、私たちはどうしても辿りついていくようです。

イエスの話は、そのような意味で、私たち一人ひとりの決意、覚悟によって、随分と違ったものになっていくということにもなります。
心に蒔かれたものをすぐに奪われてしまう人、苦難や災害にすぐ躓いてしまう人もいる、また、この世の思い煩いや富の誘惑に負ける人がいる、一方、み言葉を聞いて悟る人もいる、というように聞く人の違いが強調されて、今日私たちに語られています。
種よりもむしろ心の状態、土地の肥沃が大きく影響するということだと思います。それはすなわち、私たち自身の心にかかっていることを悟らせる話になっています。
私たちはその話を聞きながら、群衆がそのことを理解することができただろうか、とそんな心配もしています。

結論としては、多くの実を結ぶ最善の方法は、キリストのみ言葉を素直に受け、聞き入れること。そして実際の生活の中で、忠実にそのみ言葉を実践することが大切である、ということになるかと思います。よく私たちは霊的な実りという言葉を使うことがありました。霊的な実りとは、聖書を読むこと霊的な読書をすることとも繋がっていましたし、より良い熱心な祈りを捧げることでもあります。霊的な実りを結ぶということは、聞いたり、見たりしている私たちの決意にかかっているのではないでしょうか。

イエス様は話されています。たとえ失敗が続いても、神の国の働きには必ず希望が与えられること、信仰は必ず報われるということを諭してくださっています。私たちは弱く罪深い一人ひとりであるけれども、神に信頼しながら今日の共同祈願の答唱にあるように「神よ、あなたの道を歩ませてください」と祈り続けることが大切になってきます。
神に信頼し、私たちがその使命に応えることができるように、今日もまた心を合わせて祈りたいと思います。』

2017年7月10日月曜日

7月9日(日)年間第14主日

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
このイエス様の言葉は人々をやさしく包み込む言葉です。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『平日のミサはこの北一条教会は、朝と晩の時間に行われていますが、水曜日だけは午前10時のミサが行われています。今日はその時の様子を皆さんにお話ししたいと思います。10時のミサの後で時間のある人たちはカテドラルホールに集まって話し合いを行っています。その話し合いのテーマはいつも決まっていますが、それは日曜日に聴いた聖書の言葉をもう一度ゆっくり読んで黙想して、話し合いを始めましょうということになっています。ですから水曜日の日は、その週の最初の日曜日に読まれた福音を、そして説教を思い出す方は、説教も含めて分かち合いに入っていきます。自分が思っていること、感じたこと、 そんなことをみ言葉と関係させながら、時にはある人は聖書の言葉がちょと分からないとか、疑問に思います、そういうことも話されますが、そういう分かち合いをしながらお昼まで過ごしています。

  先週(日曜)のみ言葉でこの水曜日に話し合いをしましたけれど、先週(日曜)のみ言葉、一週間過ぎましたが皆さんは思い出しますか? 先週の日曜日に聴いた福音、出だしはちょっとショッキングなイエス様の話しがあったと思います。ショッキングに受けとめた人もいれば、そうでない人もおられたと思います。どんな(ショッキングな)話しだったかなと今、皆さん 思い起こそうとしておられます。イエス様はこんな話しをしたんですね。「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。」「息子や娘を愛するものもふさわしくない。」さらに「自分の十字架を担って従わないものはふさわしくない。」ふさわしくないと言う言葉を3回続けて、どんなことがふさわしくないか話されたのが、先週私たちが聴いた聖書の言葉です。きっと、皆さんの中にもこのお話を聴いて、愛する家族を持つ皆さんにとって、多少なりとも困惑を感じた方がいたかもしれません。人に自慢出来る信仰ではないにしても、自分の家族よりもイエス様の方を愛することが大事であると、信仰において考える人はたくさんいると思います。でも、イエス様、神様を愛することは、何よりも大切と頭では分かったつもりではいても、家族も愛もまた大切だと。そういう現実の中で、どっちかを選ばなければならないとすれば、まさにイエス様のお話は困惑を感じさせるお話だったのではと思います。
 どちらを選ぶか。イエス様を選ぶか、家族を選ぶか。もしそういう選択、どちらかを選ぶように聖書の声が聞こえたとしたら、困惑した方が多いかもしれません。水曜日には、そうしたことも含めて分かち合い、話し合いが進んでいきました。自由に話し会う中で、ほかの人の考え方に耳を傾けるときに、固まってしまった自分の考えにも理解にも、また自分の考えているその世界にも、少しその柔らかさが入ってきます。また、その世界が少し広がるような思いでほかの人の話に耳を傾けることができます。ほかの人の話を聞いていると 自分が気付かなかった体験を持っている人もおられて、そういう話しが耳に入ってきます。心に響きます。ああ、そうか。そう言う意味合いにもとれるんだなと分かってくると、必ずしも自分の考え方がにっちもさっちもいかない思いでいたものが、そういうふうにも考えられたらこのみ言葉は、もっと深い意味があったと気付かされて、そっちが大切だということにも気付かされます。イエスが話された大切の教えが見えたとき感じられたとき、心の中の不安や困惑も少しずつ消えて薄らいでいく、そんな思いになることが良くあります。

 私は皆さんとの分かち合いの中で、神が何よりも大切という、そういう希望を生きた殉教者について少し話しをさせていただきました。それは、日本の26聖人の中にいた、子ども達の殉教者の信仰でした。皆さんもご存知のように、26聖人の中には3人の十代の子供がいました。19歳の人がいましたからその人を入れたら4人になるかもしれません。(19歳と比べると)もっともっと若い3人の子供もいたのです。一人は12歳の最年少のルドビコ茨木。長崎のアントニオといわれる13歳の子供もいました。そしてトマス尾崎という14歳の少年もいました。トマス尾崎は自分が殉教し十字架に架けられるときに、お母さんに手紙をしたためたそうです。その母への手紙はあまりにも有名な話しです。その手紙の一節にはこのように書かれています。「臨終には十分に罪を痛悔し、イエスキリストの幾多のお恵みを感謝なされば救われます。」お母さんに宛てた手紙でこのように触れた14歳のトマス尾崎がいます。そして十代の子供が十字架に架けられるとき、母親を前に私のことはご心配くださいませんようにと声をかけたと言います。そして、特にトマス尾崎は2人の弟がお母さんのもとにいて、自分たちを見つめたそうですけれど、二人の弟もよろしくお願いしますと、お母さんに手紙でしたためていたといわれます。こんな十代の子供の信仰を考えて、私はこの信仰こそ本当に家族の愛よりも、神様の愛を選択したのだろうと強く感じています。そして一人の少年はお母さんに天国で会いましょうと叫んで十字架に架かったといいます。そういう記録、手紙が残されています。特にトマス尾崎の母への手紙はあまりにも有名で、私たちに感動をもたらします。「私よりも父や母を愛するものは、私にふさわしくない。」というまさにそういうイエスの言葉をそのまま生きた信仰がそこにあったということで、殉教者の栄誉に向かったのだと思います。
 そういう意味で分かち合いをしているときに、自分たちが気付かない中に、たくさんの信仰を見ることは出来ます。感じることができます。そういう分かち合いが行われています。神を愛すること、だれもが大切だと思ってはいますが、現実に自分の妻や子供のことを考えたときに、どちらかというとそちらを大切にして選択してしまうこと多いかもしれません。分かち合い全体の中では、神様の愛が何よりも第一にあって、そして私たち家族への愛も生かされているというお話をされました。この世をこえて永遠の生命の世界に行きつくときには、だれもがきっとイエスこそ希望の光であり、そのことをだれもが願って死に向かう、そんなことを考えます。そう思いながらも現実には、この世の愛を、家族の愛を私たちは選んでしまうことが多いかなと思います。

  今日、そういう中でイエス様は私たちに告げます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」このイエス様の言葉は人々をやさしく包み込む言葉です。心にやさしく響く言葉です。疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。私たちはこういう言葉を家族の者には言えるかもしれません。でも家族以外の者にこういう言葉を責任をもって言えるかと考えると、簡単に言える言葉ではないと思います。でも、イエス様はすべての人にこういう言葉をかけて私たちを導いてくださいます。イエス様であるからこそ、無制限に無差別に言えた言葉だと私は思います。気持ちはあったとしても責任をもって、こういう言葉をだれにも言えないと私自身考えてしまいます。でもそうなりたいと心から願います。イエス様の愛と教えは、私たち人間の弱さと限界をはるかに超えたものです。
そして、私たちが持ってるエゴとか欲望のかげりがないのが、イエス様の愛の心だと言えると思います。私たちが真実の愛を知るとき、愛する人を喜ばせるために夢中になることができます。そして苦労をものともせずに働くことさえもできます。そういう体験を持っている方もたくさんおられると思います。でもその愛する人はだれにでも与えられるかというと、愛を私たちは考えてしまいます。家族であるからこそ、子供であるからこそ、労苦を惜しまずに働いて
愛を捧げることができるのだと思います。
  今日のみ言葉を黙想していると私はこう考えます。大人になるほど純粋な愛が、私たちは失われていくだけです。イエスは父なる神を、幼子のようなものとして示されたとありますが、もし自分のエゴとか欲望にかられると、神の愛は少しずつ遠くなっていくということになるような気がします。私たちのエゴとか欲望を超えない限り、神の愛にさらに近づくことは難しいと思います。それが幼子のように神の愛、父なる神を示された言葉のように私は思えます。
 
 すべての人を見つめ続けて愛し支える力は神のみであり、またイエスに見る愛だけかもしれません。だれにでも私のところに来なさいと呼びかけるイエスの愛こそ、私たちが目指すべき
愛ということになると思います。この私たちには難しいと思われる愛を見つめながらも、そこに近づいていくことが出来るように、今日もまた主の祭壇の前で、一致して祈り続けた地と思います。』

2017年7月2日日曜日

7月2日(日)年間第13主日

今日の「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」というイエスのみことばには、「家族をも含むすべての人を大切にする愛に向って生きなさい」というメッセージが込められています。

後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日のみ言葉は、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」ということばで語られました。
大切な家族を愛することがふさわしくない、とはどういうことなのか?と疑問が感じるのではないでしょうか。
自分の信仰は大丈夫なのか?と考える人もいるかもしれません。

イエスがまず話されたのは、弟子たちを宣教に遣わすにあたって、世の中の厳しさ、そして迫害が起こると予想したイエスが、「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と既に話していたことと関連した話で展開します。み言葉を述べ伝えようと強い使命を持って世の中に出ていくときの弟子たちの心境の中に励ましを与える、そして大切なことは何なのかということを教えようとした、そのような背景もしっかりと理解しておきたいと思います。
先週のみ言葉の中でも「恐れるな」ということばを何度も繰り返したイエスでした。弟子たちに対する教えの結論のように、今日のみ言葉は大きく分けると前半と後半にそれぞれ特徴がみられます。特に前半の話をよく黙想し考えながら、私たちに勧められていることはどういうことなのか、そのことを思い巡らしたいと思います。

「隣人を愛しなさい」「敵をも愛しなさい」と言われたイエスの教えを思い出すとき、何よりも私たちは家族への愛も大切に考えます。でもそういう愛を考えていると、「私よりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない」と言われるイエスのことばに、困惑と慄きを感じてしまうのは少なくないと思います。神の愛も大切である、だけれども自分の愛も大事だとするならば、イエスの教えは私たちにとって、矛盾することになってしまうでしょう。神の愛、人間の愛、自分の愛、どちらも大切だとしたら、優劣が付け難いとしたら、私たちはどちらを取ろうとしているのでしょうか。そこに私たちの驚き困惑もあるかのようです。

まず、宣教に遣わす弟子たちの基本的な姿勢には一体何が一番大切なのか、ということが教えられています。その条件として、第一に「神の愛」が弟子たちに強調されました。神の愛は、自分の愛よりも家族への愛よりも第一であると、イエスは弟子たちに気付かせます。私たちは弟子たちにだけでなく、イエス自身がそうした生き方を私たちに示されたことをよく知っているはずです。イエスが御父から託された使命を果たすために、また私たち一人ひとりを救いへと導くために、イエス自身はどんな生涯をおくられたでしょうか。
イエスは私たちの救いのために、私たちに対する愛のために受難を受け止め、そして十字架で苦しみを受けながらもその死を受け入れました。十字架を担い、従い、その死さえも受け入れたのがイエスご自身であるということ。そのイエスを見つめながら、イエスのことばを理解しようとするとき、厳しいことばではあってもその真意を私たちは理解することが出来るような気がします。
イエスは私たちに問いかけます。「あなたがたはわたしを受け入れるのか?わたしを受け入れないのか?」まさにそのどちらかを選ぶという厳しい選択が迫られる教えが、今日のみ言葉の中にあるわけです。受け入れるのか、受け入れないのか、そのどちらかであって中立は無いというのがイエスの教えです。イエスの真の弟子となって、宣教に出かける弟子の条件としてのクライマックスが今日のお話となっています。そしてその条件が、今日のみ言葉の中でも語られる十字架によって表されるのです。

愛する家族をないがしろにするような教えと、もし受けとめるとすると、私たちは前に進むことが出来なくなってしまいそうです。イエスの教えはこの世のものを追い求めるものではなく、まず第一に神のことを追い求めるようにという教えです。
洗礼を受け、神の子となり、キリストの弟子となった私たちは、何を差し置いても神のことを求めなさいと、そう教えているのと同じだと思います。それはまた、愛を極めるということでもあると言えます。愛を追求しなさい、愛をよく考え、愛に向って生きなさい。愛というのは、自分のことだけを考えるものではないはずです。そう話されているような気がします。愛とは他者のことを考え、他者のために奉仕していくことも愛であるということを話されていると思います。
それは家族のことを抜きにするということではなく、家族をも含むすべての人を大切にする、もっと広く言えば、全人類をも大切にする愛に向っていきなさいということだと思います。イエスはその愛のために、十字架に上られたということです。ですから、神に従うこととは、家族をも愛し、大切にしていくことと同じです。
今日の一見厳しいかのようなこのみ言葉を祈りをもって黙想するとき、時に感じることはたくさん浮かんできます。私自身もその使命を考えると、自分のことではなく、教会のため神のため、人々のためにという想いで生きようとしたはずなのに、どこかでそれよりも自分のことを中心に「自己愛」、自分のことを優先することに向って考えてしまうことがたくさんあります。そういう想いはきっとキリストへの愛を引き離すということかもしれません。自分の思い、自分を優先する心を超えて、イエスの示された愛を生きることがどんなに大切かと分かったつもりでいても、必ずしもそう生きられない現実がここにあるはずです。きっと同じ思いを皆さんも体験していると思います。

イエスは「自分の十字架を担ってわたしに従いなさい」と話されます。
この自分の十字架は、時に困難であることを考えてしまいます。でもこの十字架をもう一つ深めて進めて考えるならば、「自分の責任を担って」という言葉にこの十字架を解釈することも出来るのではないでしょうか。自分に課せられた十字架は、自分の責任を担うということでもあるかのように思います。
この聖堂が建てられて「献堂100年」を昨年お祝いした私たちです。私たち一人ひとりもまた、「次の世代につなぐ」という責任をどう生きているか、そのことも考えてみたいと思います。自分の十字架を背負って、神のため神の愛のため生きるということの重さ。でもそこからきっと、大きな喜びも生まれてくるような気がします。

今日のみ言葉の後半では、小さい者の一人に対してもし支援の手を伸ばすときは、必ずその報いを受けるということが話されます。その話は今日私たちが聞いた第一朗読の列王記とも関連する話になっています。でも、利益を前提として親切にしなさい、ということでは決してありません。平凡で取るに足らない「水一杯」の親切にでさえ、神はそれに報いてくださる、そのことが話されています。何かを頂くことが出来るからこれをするということでは決してありません。

キリストと共に生きようとする私たち一人ひとりが、「神こそ永遠のいのちのことばを持っておられる」そのことを信じて歩むことができますように。
また、教会に対して問題意識を常に持ちながらも弟子たちのように福音を証していくことができますように。聖霊の導きと照らしを祈り求めましょう。

昨日は「福者ペトロ岐部司祭と187殉教者」の記念日になっていました。2006年に福者に上げられた188名の殉教者たちが私たちの教会でお祝いされるようになりました。188名のうち聖職者は、わずか4人でした。他は農業や漁業に従事する貧しい一般の人々でした。日本の教会では九つの教区にわたる殉教者が福者に上げられたということです。新潟から九州まで当時様々な迫害の中にあって、神のために神の愛のためにいのちを捧げた人たちが福者に上げられたということでもあります。私たちもそのような福者の愛、聖人の愛をもう一度心に留めながら、その愛に応えることが出来るように祈りたいと思います。』