2017年7月10日月曜日

7月9日(日)年間第14主日

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
このイエス様の言葉は人々をやさしく包み込む言葉です。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『平日のミサはこの北一条教会は、朝と晩の時間に行われていますが、水曜日だけは午前10時のミサが行われています。今日はその時の様子を皆さんにお話ししたいと思います。10時のミサの後で時間のある人たちはカテドラルホールに集まって話し合いを行っています。その話し合いのテーマはいつも決まっていますが、それは日曜日に聴いた聖書の言葉をもう一度ゆっくり読んで黙想して、話し合いを始めましょうということになっています。ですから水曜日の日は、その週の最初の日曜日に読まれた福音を、そして説教を思い出す方は、説教も含めて分かち合いに入っていきます。自分が思っていること、感じたこと、 そんなことをみ言葉と関係させながら、時にはある人は聖書の言葉がちょと分からないとか、疑問に思います、そういうことも話されますが、そういう分かち合いをしながらお昼まで過ごしています。

  先週(日曜)のみ言葉でこの水曜日に話し合いをしましたけれど、先週(日曜)のみ言葉、一週間過ぎましたが皆さんは思い出しますか? 先週の日曜日に聴いた福音、出だしはちょっとショッキングなイエス様の話しがあったと思います。ショッキングに受けとめた人もいれば、そうでない人もおられたと思います。どんな(ショッキングな)話しだったかなと今、皆さん 思い起こそうとしておられます。イエス様はこんな話しをしたんですね。「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。」「息子や娘を愛するものもふさわしくない。」さらに「自分の十字架を担って従わないものはふさわしくない。」ふさわしくないと言う言葉を3回続けて、どんなことがふさわしくないか話されたのが、先週私たちが聴いた聖書の言葉です。きっと、皆さんの中にもこのお話を聴いて、愛する家族を持つ皆さんにとって、多少なりとも困惑を感じた方がいたかもしれません。人に自慢出来る信仰ではないにしても、自分の家族よりもイエス様の方を愛することが大事であると、信仰において考える人はたくさんいると思います。でも、イエス様、神様を愛することは、何よりも大切と頭では分かったつもりではいても、家族も愛もまた大切だと。そういう現実の中で、どっちかを選ばなければならないとすれば、まさにイエス様のお話は困惑を感じさせるお話だったのではと思います。
 どちらを選ぶか。イエス様を選ぶか、家族を選ぶか。もしそういう選択、どちらかを選ぶように聖書の声が聞こえたとしたら、困惑した方が多いかもしれません。水曜日には、そうしたことも含めて分かち合い、話し合いが進んでいきました。自由に話し会う中で、ほかの人の考え方に耳を傾けるときに、固まってしまった自分の考えにも理解にも、また自分の考えているその世界にも、少しその柔らかさが入ってきます。また、その世界が少し広がるような思いでほかの人の話に耳を傾けることができます。ほかの人の話を聞いていると 自分が気付かなかった体験を持っている人もおられて、そういう話しが耳に入ってきます。心に響きます。ああ、そうか。そう言う意味合いにもとれるんだなと分かってくると、必ずしも自分の考え方がにっちもさっちもいかない思いでいたものが、そういうふうにも考えられたらこのみ言葉は、もっと深い意味があったと気付かされて、そっちが大切だということにも気付かされます。イエスが話された大切の教えが見えたとき感じられたとき、心の中の不安や困惑も少しずつ消えて薄らいでいく、そんな思いになることが良くあります。

 私は皆さんとの分かち合いの中で、神が何よりも大切という、そういう希望を生きた殉教者について少し話しをさせていただきました。それは、日本の26聖人の中にいた、子ども達の殉教者の信仰でした。皆さんもご存知のように、26聖人の中には3人の十代の子供がいました。19歳の人がいましたからその人を入れたら4人になるかもしれません。(19歳と比べると)もっともっと若い3人の子供もいたのです。一人は12歳の最年少のルドビコ茨木。長崎のアントニオといわれる13歳の子供もいました。そしてトマス尾崎という14歳の少年もいました。トマス尾崎は自分が殉教し十字架に架けられるときに、お母さんに手紙をしたためたそうです。その母への手紙はあまりにも有名な話しです。その手紙の一節にはこのように書かれています。「臨終には十分に罪を痛悔し、イエスキリストの幾多のお恵みを感謝なされば救われます。」お母さんに宛てた手紙でこのように触れた14歳のトマス尾崎がいます。そして十代の子供が十字架に架けられるとき、母親を前に私のことはご心配くださいませんようにと声をかけたと言います。そして、特にトマス尾崎は2人の弟がお母さんのもとにいて、自分たちを見つめたそうですけれど、二人の弟もよろしくお願いしますと、お母さんに手紙でしたためていたといわれます。こんな十代の子供の信仰を考えて、私はこの信仰こそ本当に家族の愛よりも、神様の愛を選択したのだろうと強く感じています。そして一人の少年はお母さんに天国で会いましょうと叫んで十字架に架かったといいます。そういう記録、手紙が残されています。特にトマス尾崎の母への手紙はあまりにも有名で、私たちに感動をもたらします。「私よりも父や母を愛するものは、私にふさわしくない。」というまさにそういうイエスの言葉をそのまま生きた信仰がそこにあったということで、殉教者の栄誉に向かったのだと思います。
 そういう意味で分かち合いをしているときに、自分たちが気付かない中に、たくさんの信仰を見ることは出来ます。感じることができます。そういう分かち合いが行われています。神を愛すること、だれもが大切だと思ってはいますが、現実に自分の妻や子供のことを考えたときに、どちらかというとそちらを大切にして選択してしまうこと多いかもしれません。分かち合い全体の中では、神様の愛が何よりも第一にあって、そして私たち家族への愛も生かされているというお話をされました。この世をこえて永遠の生命の世界に行きつくときには、だれもがきっとイエスこそ希望の光であり、そのことをだれもが願って死に向かう、そんなことを考えます。そう思いながらも現実には、この世の愛を、家族の愛を私たちは選んでしまうことが多いかなと思います。

  今日、そういう中でイエス様は私たちに告げます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」このイエス様の言葉は人々をやさしく包み込む言葉です。心にやさしく響く言葉です。疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。私たちはこういう言葉を家族の者には言えるかもしれません。でも家族以外の者にこういう言葉を責任をもって言えるかと考えると、簡単に言える言葉ではないと思います。でも、イエス様はすべての人にこういう言葉をかけて私たちを導いてくださいます。イエス様であるからこそ、無制限に無差別に言えた言葉だと私は思います。気持ちはあったとしても責任をもって、こういう言葉をだれにも言えないと私自身考えてしまいます。でもそうなりたいと心から願います。イエス様の愛と教えは、私たち人間の弱さと限界をはるかに超えたものです。
そして、私たちが持ってるエゴとか欲望のかげりがないのが、イエス様の愛の心だと言えると思います。私たちが真実の愛を知るとき、愛する人を喜ばせるために夢中になることができます。そして苦労をものともせずに働くことさえもできます。そういう体験を持っている方もたくさんおられると思います。でもその愛する人はだれにでも与えられるかというと、愛を私たちは考えてしまいます。家族であるからこそ、子供であるからこそ、労苦を惜しまずに働いて
愛を捧げることができるのだと思います。
  今日のみ言葉を黙想していると私はこう考えます。大人になるほど純粋な愛が、私たちは失われていくだけです。イエスは父なる神を、幼子のようなものとして示されたとありますが、もし自分のエゴとか欲望にかられると、神の愛は少しずつ遠くなっていくということになるような気がします。私たちのエゴとか欲望を超えない限り、神の愛にさらに近づくことは難しいと思います。それが幼子のように神の愛、父なる神を示された言葉のように私は思えます。
 
 すべての人を見つめ続けて愛し支える力は神のみであり、またイエスに見る愛だけかもしれません。だれにでも私のところに来なさいと呼びかけるイエスの愛こそ、私たちが目指すべき
愛ということになると思います。この私たちには難しいと思われる愛を見つめながらも、そこに近づいていくことが出来るように、今日もまた主の祭壇の前で、一致して祈り続けた地と思います。』