2017年7月16日日曜日

7月16日(日)年間第15主日

今日のみことばは「種を蒔く人」のたとえでした。
イエス様からいただいた"種"。私たちはどんな実を結ばせることができるでしょう。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日のみ言葉は、最初の一節から映画のシーンを見ているようにイエス様の姿が浮かんできます。群衆が取り巻き、その背景にはガリラヤ湖畔の緑豊かな畑も目に浮かんでくるようです。そして、その向こうには羊の群れが無心に草を食む光景や、舟が浮かぶ湖の湖面の波も眺められるような気がしました。
状況はまったく違いますが、イエスが2000年前に話された話を、私たちが今日ここで聞いているという不思議さも感じています。イエスが今日語られたのは「種まき」の話ですが、場所も時間も超えてたった今、私たちは聖書をとおしてその話に耳を傾けています。
皆さんの心にはどのようにイエス様のことばが届いたでしょうか。

パレスチナの自然、その湖の周りは大地が広がり、緑の草や木が豊かに生い茂る自然の姿がありました。地を耕すと、すぐに土の香りが広がる世界が、彼らの生活・現実でした。
耕す土地は、良い土地もあり、悪い土地もあり、また石だらけの土地もあるようです。だから種を蒔いたとしても、どんな土地に種が蒔かれるかによって、たとえ芽を出しても、その成長や収穫も大きな違いとなってしまうというのが今日のお話です。
一方時代を超えて、このみ言葉に耳を傾けている私たちですが、実際に土を耕したり、種を植える生活をしている人はほとんど少ない現状だと思います。種が芽吹いたり成長する姿を見ることもまさに稀なこと、スーパーや店に並ぶ立派に育った見栄えの良い野菜等を手に入れるだけ、それは幸いなのか不幸なのかということを考えます。

もし、イエス様の語られるみ言葉が"種"だとしたら、そのみ言葉を聞き、受け入れる人の心が土地であるというのを、今日のたとえから私たちは考えることができます。イエス様のみ言葉が"種"、その種を私たちは心に受け止めて、どんな心の中に種を植えているでしょうか?種はうまく芽を出しているでしょうか?私たちは成長させて、実り、収穫を手にすることができるでしょうか。聞く人の心が「良い土地」、「悪い土地」、そして「石だらけの土地」ということが考えられそうです。私たちの心はどんな種類の土地になっているでしょうか。
実を結ぶ種であったとしても、道端に落ちたか、石だらけの土地、土が薄い土地に落ちたか、または茨の中に落ちたか、それによって決定的な違いが生じてきます。いくら実を結ぶ種であっても、どんな心の中に受け止められたかによって、実り方も違ってくる。イエス様のたとえの後半では、種が育ったときには、3種類の収穫があるという話をされています。同じ種からでも収穫は30倍、60倍、100倍とそれぞれ違いがあるということを話されています。
まさに自分に置き換えて考えてみるとき、私たちが受け止めた恵みの種はどんな実を結ばせているのだろうかと、考えざるをえません。心が曇っていたり、鈍っている人には、神の奥義は理解できないだけでなく、み言葉そのものさえも受け入れることができないとも言われます。
私たちは日曜日ごとにみ言葉に耳を傾けていますが、キリストの言葉を受け入れ、それを悟るためには、心の貧しい人、小さな人、素直な人、謙虚な心を持たなければならないというところに、私たちはどうしても辿りついていくようです。

イエスの話は、そのような意味で、私たち一人ひとりの決意、覚悟によって、随分と違ったものになっていくということにもなります。
心に蒔かれたものをすぐに奪われてしまう人、苦難や災害にすぐ躓いてしまう人もいる、また、この世の思い煩いや富の誘惑に負ける人がいる、一方、み言葉を聞いて悟る人もいる、というように聞く人の違いが強調されて、今日私たちに語られています。
種よりもむしろ心の状態、土地の肥沃が大きく影響するということだと思います。それはすなわち、私たち自身の心にかかっていることを悟らせる話になっています。
私たちはその話を聞きながら、群衆がそのことを理解することができただろうか、とそんな心配もしています。

結論としては、多くの実を結ぶ最善の方法は、キリストのみ言葉を素直に受け、聞き入れること。そして実際の生活の中で、忠実にそのみ言葉を実践することが大切である、ということになるかと思います。よく私たちは霊的な実りという言葉を使うことがありました。霊的な実りとは、聖書を読むこと霊的な読書をすることとも繋がっていましたし、より良い熱心な祈りを捧げることでもあります。霊的な実りを結ぶということは、聞いたり、見たりしている私たちの決意にかかっているのではないでしょうか。

イエス様は話されています。たとえ失敗が続いても、神の国の働きには必ず希望が与えられること、信仰は必ず報われるということを諭してくださっています。私たちは弱く罪深い一人ひとりであるけれども、神に信頼しながら今日の共同祈願の答唱にあるように「神よ、あなたの道を歩ませてください」と祈り続けることが大切になってきます。
神に信頼し、私たちがその使命に応えることができるように、今日もまた心を合わせて祈りたいと思います。』