2019年5月26日日曜日

復活節第6主日「世界広報の日」

精霊降臨が近づいているこの日の福音では、最後の晩餐での精霊を約束したイエスのことばが読まれました。


この日の佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日は復活節第6主日です。 復活の主日から36日目にあたります。 復活節は復活の主日から聖霊降臨の主日までの 50 日間ですから、少しずつ、聖霊降臨が近づいているので、 今日聖霊の約束に関連したところが読まれました。
「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したこ とをことごとく思い起こさせてくださる。」 これは力強い励ましのようにも思えます。
が、実際本当にイエスを証しすることが自分にはできるだろうかと不安になるところもあります。 弟子たちの間でも、最初、その不安は持っていたようです。 イエスがなくなった後、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、家の戸に鍵をかけていました。 自分たちにも危害が及ばないようにと不安のうちにあったことが見て取れます。 彼らはイエスが生前に話していたことをすっかり忘れていたのです。
「心を騒がせるな。おびえるな。」 「『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところに戻ってくる』と言ったのをあなたがたは開いた。」 今日の福音に書かれています。 その通りにイエスは戻ってきて、おびえていた弟子たちの間に現れ、息を吹きかけて言われたのです。
「聖霊を受けなさい。」 そこから弟子たちは大胆にイエスを証しするようになるのです。
わたしたちは 2000年前の出来事を聖書で知ることができますが、この弟子たちの変化こそが聖霊の働きで あり、 復活したイエスとの出会いの中に始まったものであると理解し信じています。
でも、本当に自分がイエスを証しして生きて行けるのだろうかという不安は、だれもが持っているものだ と思います。 もし自分の力で何とかしようと考えたとして、誰にも相談せずに自分でいろいろ考えたとしても、不安は なくならないと思います。 弟子たちはどうしていたかというと、何か問題が起こったときにはみんなで集まって協議していました。 使徒たちの宣教で読まれましたが、これはエルサレム会議と言われるもので、使徒たちが集まった最初の 公会議と言われています。 これは教会の中で旧約の掟とイエスの教えの中で激しい意見の対立と論争が生じたため開かれたものです。 問題は、ユダヤ人が律法の掟として守ってきたことを、異邦人にも守らせなければならないのかという点 でした。 使徒たちは話し合いの上、次のように決めました。
「聖霊とわたしたちは、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。」 異邦人はイエスを信じるにあたって、割礼を受ける必要はないということです。 ここで注目すべき点は、文書の中にある「聖霊とわたしたちは」という文言です。 聖霊の働きを強調している言葉です。
わたしたちだけで決めたことではない、聖霊の働きの上で決めたことであるという宣言です。 聖霊がキリストを信じる者の中で分裂しかかっていたものを、一つにしてくださったということが分かり ます。
わたしたちも使徒たちのように、様々な問題を自分で抱え込まないで、誰かに話すことで解決の糸口が見 つかるかもしれません。 あるいは大きな気づきが得られるかもしれません。 そのようなときに聖霊は働かれるのではないかと思います。

今日は世界広報の日でもあります。
教皇様は、「ソーシャル・メディアが出会いを促進するものであるが、一方で人々をさらに孤立させるもの でもある」ともおっしゃられております。 ソーシャル・メディアは便利なツールであり使い方によってはより多くの人との出会いの場となりますが、 一方で孤立や分裂が問題となることもあります。
「互いにかかわりあうという人間の本質を、ネット上においても、ネットを通じても確認しなければなり ません」と教皇様は呼びかけておられます。 特に若者の間では、全世界どこにいてもつながることができますので、ネットの世界だけにとどまってい る者もおります。 ワールドユースデーや高校生のエクスポージャーなどで出会った人たちが、それをきっかけにネットでつ ながるのはとてもいいことだと思います。 ですが仮想的なところだけにとどまることがないように、わたしたちは勧め励ましていかなければならな いと思います。 聖霊の働きにより平和と一致を願いながらこのミサを続けてまいりましょう。 』

2019年5月19日日曜日

復活節第5主日

今日の福音のキーワードは、「栄光」と「愛する」です。
キリストのみことばから、ヨハネが伝えたかったことを黙想してみましょう。


湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音は、キリストが弟子たちと最後の晩餐を祝っているその席上でのお話です。
この短い話の中でキーワードになるのは、「栄光」と「愛する」です。

「栄光」というと、何か輝かしいというイメージを持つかもしれないのですが、「現れる」という意味を持っています。
ですから、「人の子は栄光を受けた」というのは、キリストが神であることが明らかになる、キリストを通して父である神が、神であることを現すということです。

次に「互いに愛し合いなさい」というのは決して、好きとか恋しいとか、肉親への慈しみとか、そのような意味ではありません。ここで使われている「愛」というのは、どちらかというと「兄弟愛」というのが近いかもしれません。互いに同じもの同志が愛するということです。極端に言えば、「私はあなたであり、あなたは私である」という、言わば一心同体であるという意味合いです。

この意味の「愛する」という行為は、現代の教会では実現することは現実的には難しいことかと思いますが、この時代を考えるとあながち非現実的ではなかったようです。この時代は家庭集会のような小さな単位の教会だったからです。
しかし、現代の教会においては、このようなたくさんの人が集まり、隣の人も良く知らないような状況では難しいことかと思います。
しかし、ヨハネがキリストの言葉を切り取って、何を使えようとしているかを考えることはとても重要なことです。』

ミサの後、「教会総会」が行われ、今年度の取り組みが承認され、運営委員長と会計監査の改選が行われました。


2019年5月12日日曜日

復活節第4主日 ~世界召命祈願の日~

毎年この日は「よい牧者」がテーマになっています。
併せて「世界召命祈願の日」でもありました。

この日のミサは、佐藤神父様の司式により行われました。


佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『ヨハネによる福音の10章は羊と羊飼いのたとえが述べられている個所です。このたとえはヨハネの福音にのみ描かれています。 この10章を3つに分けて毎年読まれています。 今年はC年なので10章の終わりの部分が読まれます。羊と羊飼いの間にある深いつながりを通して、イエスとわたしたちの間にある深いつながりを示しています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」イエスの声をわたしたちはイエス様の声だとすぐ分かるのだということです。
 使徒言行録第9章で、イエスはパウロに呼びかけます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」 パウロはだれの声なのか、まだ、わかりませんでした。「主よ、あなたはどなたですか」と質問しました。パウロはそのときはまだイエスを信じていませんでしたので、誰の声か聞き分けられなかったのです。「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と聞きました。イエスに呼びかけられたパウロは、回心し3日後に洗礼を受け、「イエスこそ神の子である」宣べ伝え始め ました。イエスを信じて洗礼を受けたわたしたちも、イエスの声を聞き分け、イエスの呼びかけに応えていく者となっているはずです。
 次にイエスは「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」と言います。わたしたちがイエスを知っているだけではなく、イエスもわたしたち全員を知っているのです。知っているというのは知識として知っているだけではなく、会って話したことがあるというくらいの意味で知っているということです。ですから、わたしたちはすでにイエスと出会って話をする間柄なのです。イエスがわたしたちを知っていてくださるのですから、これは大変大きな恵みではないでしょうか。
 イエスはわたしたちに永遠の命を与えてくださいました。わたしたちは滅びません。 滅びとは地獄に入ることです。「誰もわたしの手から奪うことはできない」「誰も父の手から奪うことはできない。」イエスに聞き従う人は、誰からも奪われることがないのです。ヨハネの黙示に示された通り、小羊であるキリストの血で洗礼を受けた者は、飢えることも渇くこともなく、神と共にいるようになるのです。

 今日、復活節第4主日は世界召命祈願の日と定められています。教皇メッセージの中で、「召命とは、網をもって岸辺にとどまるのではなく、イエスがわたしたちのため、わたしたちの幸せのため、わたしたちのそばにいる人の善のために考えてくださった道を、イエスに従って歩むようにとの招きなのです」と言っています。
 人はそれぞれ神から与えられた召命を持っていると思います。イエスの声を聞き、それに従ったパウロが、危険を顧みずに勇気をもって宣教していく姿を、わたしたちは第一朗読で見ました。
 わたしたちも神からの招きに応えて歩むことができるよう願いながら、そして司祭・修道者への招きに一人でも多くの人が応えることができるよう願いながら、このミサを続けてまいりましょう。』

2019年5月6日月曜日

復活節第3主日「ミカエル湯澤民夫神父様の主日初ミサ」

5月1日付 司祭異動により、前任の後藤神父様は、小野幌・江別・大麻・岩見沢教会の主任司祭(兼務)へと転任されました(居住は小野幌教会)。

今月から新たに、ミカエル 湯澤民夫神父様が主任司祭(北十一条教会、北26条教会主任司祭兼務)として着任されました。
湯澤神父様は、フランシスコ会の修道司祭であり、2017年4月に三軒茶屋教会から北十一条教会の主任司祭として着任されていました。現在、フランシスコ会札幌修道院にお住まいです。

この日は、湯澤神父様の着任後の主日初ミサでした。(勝谷司教、レイ神父との共同司式)


写真左から2人目が湯澤神父様、右端がレイ神父様

また、同じく今月から当教会の助任司祭として、レイナルド・L・レガヤダ神父様(レイ神父様)が着任され、この日のミサを共同司式されました。レイ神父様は主に英語ミサを担当されるということです。

湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『先週の福音(ヨハネ20・19-31)では、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」と言ったのに対し、「見ないで信じる人は幸い」というイエスの返答で終わりました。このトマスの信仰告白は、ヨハネ福音書の序文にある「み言葉は神であった」と枠をなすものです。
ヨハネは、見ないで信じる人たちに向かって「幸いである」と呼び掛けているわけで、それはいわば私たちに向けて語られていると思います。
その「幸い」とはどういうものなのかということが、今日の21章で語られているわけです。ヨハネの福音には書いていませんが、このペトロ、アンデレ、そしてゼベタイの子たちは全員、漁師です。イエスはこの4人を弟子にするときに、「人を漁る(すなとる)漁師にしよう」と彼らに使命を与えました。そういう意味で、この漁というのは「人を漁る(すなとる)」ということと関わりがあるということです。そして、その漁に出かけるわけですが、何も獲れなかったという状況でした。
そこにキリストが現れて「網を打ちなさい」というと魚がたくさん取れたわけです。
いわば、この弟子たちの使命である福音宣教は、キリストの業として行われていくわけで、弟子達自身の業ではないということです。そういう形で使命が果たされていくわけです。

今日の朗読箇所で面白いところがあります。イエスが「子たちよ、何か食べる物があるか」と聞くのですが、弟子たちは「ありません」と答え、それで魚を獲りに行くわけです。しかし、魚を獲って陸に上がってみると、既に魚が焼かれていてパンも置いてあった。何でイエスは「食べる物があるか」と聞いたのでしょうか?
この少し後で、イエスはパンを取って弟子たちに与えられた、魚も同じように与えられた。ということで、この出来事から連想できることは、第6章でイエスが五千人にパンと魚を分け与えたという出来事です。この話はずっと続いて最後は、キリストのご聖体と御血の話に繋がっていくわけです。

宣教というものは、ただ宣教したり福音化してそれでいいわけではなくて、このキリストの交わり・食卓に参加する、新しく加わった人たちと祭壇を囲むことで宣教は完成するということです。
そして、ヨハネの独特の考え方ですが、この集まった人たちは、一人一人個人的に密接にキリストと結ばれるということです。ですからここに、キリストとの交わりが出来上がっていく、宣教の最終的なゴールがあります。そしてこれは、ヨハネの第一の手紙の序文にあるように、この交わりは「父なる神とキリストとの交わり」ですから、その人たちの共同体は三位一体の交わりに加わる人たちとなるということです。
この出来事をとおしてヨハネは、キリスト者の一つの使命を語られています。皆さんももれなくこの使命を受けているということを忘れてはならないと思います。』