2019年5月6日月曜日

復活節第3主日「ミカエル湯澤民夫神父様の主日初ミサ」

5月1日付 司祭異動により、前任の後藤神父様は、小野幌・江別・大麻・岩見沢教会の主任司祭(兼務)へと転任されました(居住は小野幌教会)。

今月から新たに、ミカエル 湯澤民夫神父様が主任司祭(北十一条教会、北26条教会主任司祭兼務)として着任されました。
湯澤神父様は、フランシスコ会の修道司祭であり、2017年4月に三軒茶屋教会から北十一条教会の主任司祭として着任されていました。現在、フランシスコ会札幌修道院にお住まいです。

この日は、湯澤神父様の着任後の主日初ミサでした。(勝谷司教、レイ神父との共同司式)


写真左から2人目が湯澤神父様、右端がレイ神父様

また、同じく今月から当教会の助任司祭として、レイナルド・L・レガヤダ神父様(レイ神父様)が着任され、この日のミサを共同司式されました。レイ神父様は主に英語ミサを担当されるということです。

湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『先週の福音(ヨハネ20・19-31)では、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」と言ったのに対し、「見ないで信じる人は幸い」というイエスの返答で終わりました。このトマスの信仰告白は、ヨハネ福音書の序文にある「み言葉は神であった」と枠をなすものです。
ヨハネは、見ないで信じる人たちに向かって「幸いである」と呼び掛けているわけで、それはいわば私たちに向けて語られていると思います。
その「幸い」とはどういうものなのかということが、今日の21章で語られているわけです。ヨハネの福音には書いていませんが、このペトロ、アンデレ、そしてゼベタイの子たちは全員、漁師です。イエスはこの4人を弟子にするときに、「人を漁る(すなとる)漁師にしよう」と彼らに使命を与えました。そういう意味で、この漁というのは「人を漁る(すなとる)」ということと関わりがあるということです。そして、その漁に出かけるわけですが、何も獲れなかったという状況でした。
そこにキリストが現れて「網を打ちなさい」というと魚がたくさん取れたわけです。
いわば、この弟子たちの使命である福音宣教は、キリストの業として行われていくわけで、弟子達自身の業ではないということです。そういう形で使命が果たされていくわけです。

今日の朗読箇所で面白いところがあります。イエスが「子たちよ、何か食べる物があるか」と聞くのですが、弟子たちは「ありません」と答え、それで魚を獲りに行くわけです。しかし、魚を獲って陸に上がってみると、既に魚が焼かれていてパンも置いてあった。何でイエスは「食べる物があるか」と聞いたのでしょうか?
この少し後で、イエスはパンを取って弟子たちに与えられた、魚も同じように与えられた。ということで、この出来事から連想できることは、第6章でイエスが五千人にパンと魚を分け与えたという出来事です。この話はずっと続いて最後は、キリストのご聖体と御血の話に繋がっていくわけです。

宣教というものは、ただ宣教したり福音化してそれでいいわけではなくて、このキリストの交わり・食卓に参加する、新しく加わった人たちと祭壇を囲むことで宣教は完成するということです。
そして、ヨハネの独特の考え方ですが、この集まった人たちは、一人一人個人的に密接にキリストと結ばれるということです。ですからここに、キリストとの交わりが出来上がっていく、宣教の最終的なゴールがあります。そしてこれは、ヨハネの第一の手紙の序文にあるように、この交わりは「父なる神とキリストとの交わり」ですから、その人たちの共同体は三位一体の交わりに加わる人たちとなるということです。
この出来事をとおしてヨハネは、キリスト者の一つの使命を語られています。皆さんももれなくこの使命を受けているということを忘れてはならないと思います。』