2019年8月28日水曜日

8月25日(日)年間第21主日

「狭い戸口から入るように努めなさい」と、わたしたちは神の意志に適う在り方を求められています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『有名な「狭い戸口から入るように努めなさい」という今日のみことばです。一方で、「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と寛大なみことばがあるわけですが、ここでは救いがないような非常に厳しいみことばになっているわけです。ただ、このことばが、どういう状況のなかで発せられたかということは重要なことです。最初の箇所にあるように、「イエスはエルサレムに向かって進んでおられた」ということで、この旅の先には困難が待ち受けているわけですが、力強くそこに向かっていたのです。そのような状況のなかで、イエスは受難の予告をしています。同時にそれに伴って、弟子はどう在ったらよいのか、ということを教え始めるわけです。
キリストは、「自分の十字架を担って従うように」、また、「仕えられるためではなく仕えるために来た」と言い、キリスト自身の在り方と弟子たちの在り方が重なって来るわけです。つまり弟子たちに自分と同じような在り方を求めて、そういう状況のなかで、このことばが使われているということです。
そして、入れない者に向かって言うことばは、すごく重要なことばですが、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」。この「不義を行う」というのは「正しくない」という意味になります。”正しい”在り方というのは、道徳的な在り方だとか、立派であるとか、そういうことではなくて、弟子の在り方、つまり神の意志に沿っているかということです。
別なところでキリストは、自分たちのグループの条件として、「神の意志を聞いてそれを行う」というように言っています。また全く話は違うところですが、この福音の持っている厳しさも同時に語っているわけです。
キリスト自身が福音であるわけですが、それを前にした時に誰でも、聖母マリアでさえも選択が迫られる、曖昧にしたままではいられない、「神を受け入れるか、受け入れないか」ということを求められています。
キリストに従う者たちは、神の意志を知ってそれを行う、そこに「正しさ」というものがあるわけです。そこには同時に「狭い」という意味があります。決して救いを制限するとかそういう意味ではありません。このように、キリストに従う者は、「狭い戸口」から入るわけですが、その条件は「神の意志に沿った生き方をしているか」ということです。
洗礼を受ける者は神からこのように言われます。「わたしの愛する者、心に適う者」と。
キリストが言われたように、私たちも一人一人、全能の父からそう言われていたのです。そう言われているとしたならば、この全能の父の意志に適う在り方をしていかなければならない。それがこの「正しさ」ということです。
私たちは、このキリストが求めていることを常に忘れてはならない、それが私たちのアイデンティティだからです。そういう意味で、私たちはキリストの言う「正しさ」そういう在り方を求めていかなければなりません。』

2019年8月18日日曜日

年間第20主日

ルカによる福音書 12章49~53節
「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。むしろ分裂だ」と言うイエスの厳しいことばは、福音を選ぶのか選ばないのかを私たちに問いかけています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『8月6日の広島原爆投下の日から先週15日の終戦記念日まで平和旬間として、平和を祈りました。平和を祈ったのに、キリストは「平和をもたらすために来た」と思わないでくれと言っています。分裂をもたらすためだ。何かどっちを選んだら良いのか分からない感じですが、そういう次元とは違う話です。先週、「目を覚ましていなさい。」という言葉でしたが、盗人はいつくるか分からないから、信仰を意識しているようにという福音でした。
  今日の福音はそれと少し関連しています。ですから、そういう文脈で読まないと、キリストは分裂のために来たのだということになってしまう。ほかのところでは「私は平和をあなたがたに与える。」と言っています。ここでは平和ではないと言っているのですから。それぞれ言っていることが少し違うわけです。いわば福音というものが持っている、ひとつの性格です。どうしても決断をせまられるという性格。優柔不断であることは許されない。ルカは誕生物語の中で、シメオンがマリアに向かって言うわけです。あなたの心を剣で刺し貫かれるというわけです。けっして十字架のそばにいるだろうと言っているわけではない。福音が持っている、あるいはイエス・キリストの存在が持っているひとつの性格。あるいはその前のザカリアの子供の洗礼者ヨハネもそうです。その福音を告げる者、告げられる者にとって、それはひとつの選択を迫られるので、そこで優柔不断な判断は出来ないということ。剣で刺し貫かれるということは、白か黒かはっきりさせられる。マリアでさえも決断を迫られるということ。時間の経過からするとマリアはすでに決断している。その言葉を聞くときには決断しているわけです。福音を受け入れるか、受け入れないか、キリストはイスラエルの○○○のところにしるしとなっている。どちらも福音にあったものに決断しなければならない。選ぶか選ばないか、応えるか応えないか、どちらかひとつです。そこには応える者と応えない者が出てくるわけで、それがひとつのたとえになって、一家に五人の人がいるならば、二人と三人が別れる、その後にミカの預言を引用しているわけです。

 けっして福音が不和をもたらしているわけではないのですが、もたらすためのものではなくて、必ずどれかを福音を選ぶか選ばないか 決断を迫られてどっちかを選択しなければならない。どちらでもいいというわけにはいかない。しかし現実はそこまでは厳しいものではなくて、けっこう現代の私たちは信仰生活、それといって生命に関わるわけではないので、状況がそういうことではないので、けっこう優柔不断に曖昧に、さしあたって適当にというわけでおくっている。
  そうだからといって、だから何も問題ないわけです。たしかに主人は帰ってくるだろう。さしあたって今ではないだろうという感覚。これはけっして信仰だけでなくて、たとえばシステムにたいしてもそのように扱っている。たしかに人間はいつかは死ぬ。でも今ではない、自分ではない。だからのんびりと生きていられるわけで、もしそういうことが迫られたら急いで帰って掃除をしなければならない。信仰もおそらく我々は、信じたからと言って厳しい状況に生きるわけでないので、まあ次の日曜日は休むかという感じです。はたしてそれで良いのかというのがこのキリストの問いかけです
 必ず福音はどちらかを選択させられている。いい加減ではいられない。主人が帰って来たら終わりということ。そういう意味でどれだけ本当の信仰に生きている人がいるとしたらというふうに、彼は願っていたわけです。おそらくキリストが登場したこの時代の2000年前の社会も似たような社会であったかもしれない。いつもそうなのかもしれない。
おそらくキリストはこういうような現実を見て、ため息みたいな言葉を言っているわけです。マタイとルカは同じ言葉を残していますが、マタイは……という反疑問。

  いずれにしても、私たちにこの言葉が向けられている言葉としてとらえなければならないないのですが、私たちはさしあたって先延ばしをしているか、注意したり注意されたりしてるかもしれない。この信仰に関しては、さしあたって先延ばしは出来ないことだが、現実はけっこう先延ばし出来るので、適当に済ましている。しかし、いざとなるとどちらかを選択しなければならないそのときがあるのです。それはけっこう日常の中であるかもしれない。しかし、けが人を横目で見て、脇を通ったレビ人、祭司と同じように、さしあたって私ではなくて別な人がいる。そんな感じで通っているかもしれない。信仰生活を少し反省していきたいと思います。』

御ミサの後、カテドラルホールで8月15日『聖母の被昇天』の祝賀会が行われました。
湯澤神父様(主任司祭)とレイ神父様(助任司祭)も参加されました。


レイ神父様は、まだ苦手な日本語でご挨拶されました。



2019年8月17日土曜日

8月15日(木)聖母の被昇天・平和祈願ミサ

8月15日(木)18時から、勝谷司教と司祭8名の共同司式により平和祈願ミサが行われました。ミサには約200名の信徒が参加し、平和を願いお祈りを捧げました。ミサの後、小雨の降る中、大通り公園まで平和行進が行われました。


勝谷司教のお説教の大要をご紹介します。
【聖書朗読箇所】マタイ福音書 第5章1~10節


『私は司祭になった時、自分の考えていることを、相手に正しく伝えることの難しさを感じさせられたことがすぐにありました。初ミサで、そこで説教をしました。ミサが終わった後の懇親会の終わり頃、「神父さん、今日の説教はとても素晴らしかったです。」と、褒めてくださる人がおられました。神父さんがそうおっしゃたことは私の救いになりましたと。でも、私はそのように言ったことは覚えがないのです。全然違うことを言ったのですが、そのように聖霊が働き受けとめたのだろうと、そのときは黙っていました。
  似たようなことがある教会でありました。(内容省略)
 そのときに司祭の説教であっても、人は自分の聞きたいようにしか聞かないし、受け取れないのだと痛感しました。これは最近、司教になってからもいろいろな雑誌やカトリック新聞からも取材があるのですが、載せる前に必ずチェックをします。さすがに記者ですから、こちらの伝えたいことをかなり正確にとらえているのですが、それでも微妙なニュアンスが違うことで、訂正を行うことが必ずあります。ここで言いたいのは、人々はいろんな情報があるとしても、自分が受け止りたいようにフィルターにかけて、その情報を受け取っているということです。

 そして、その問題は現代社会においてはより深刻になっています。私たちの出会う情報量が極めて多いわけですし、それが自分にとって正しい情報を選び出すことが非常に難しくなっています。今、ネットの世界では多くの専門家が指摘しているように、特に保守的な考え方をする人とリベラルな考え方をする人たちは、ホームページなり自分がアクセスする情報は、自分の思いを満足させる、そういう情報に偏っている。どんどんそれが偏っていく結果、あのテロリストのような過激な思想を持つにまで至る。自分でその情報を選んで受け取ろうとしているわけではなくて、自分の中にはそういう思想性がいつか選ぶ情報を自分の中でより分けて、そしてどんどん偏った世界にいく傾向にある。これは私たちが陥りやすい現代の大きな誘惑であり罠だと思います。
 しかし、同時に私たちがそのような傾向を持っているのとは別に、私たちに敢えて誤った考え方をするように操作させる情報もあります。偏った情報で一方の意見や情報しか流さない、あるいは今、世界中で問題になっているフェイクニュース。わざと誤った情報を流して印象を操作する。そのようなことが溢れている中で  私たちは正しい情報を受け散るということを意識的にチェックすることをしなければ、どんどんそのようなものに流され、悪い言い方をするならば、洗脳されている。そういう危険性をある社会に生きていると言わざるを得ないと思います。

  最近、日本の司教団はハンセン病患者の人たちに、あるいは亡くなられた元患者の家族に対して謝罪声明を出しました。これは久しぶりに全司教が一致して出す司教団声明です。
ちょうどそれが、あのハンセン病患者の家族に政府が控訴を断念した、判決確定と重なったのですが、それはたまたまだったのです。その半年以上前から謝罪声明を出さなければならないということで、社会司教委員会で原案を練り、何回も委員や司教の中でやりとりが行われていました。
 ここで非常に難しかったのは、どうして謝罪する必要があるのかという意見です。すなわち、日本のカトリック教会はハンセン病患者のために献身的に努力してきました。いろいろな施設を作り、患者の人たちがここは地上の天国だと思えるような世界を作りたいと、本当に生涯かけて献身的に奉仕した方々もおられました。そういう人たちの行為が間違っていたとか、それらを無にするような、そういう謝罪声明であってはならない、いろんな方面から出されていました。しかし、私たちが良かれと思ってやっていたことが、結果としてあの政府の隔離政策と極めて深刻な人権侵害といわれるものを見過ごしてきたことになるのです。それをどのように謝罪声明に入れるのか、非常に実は苦労しました。
  出された文言の中で一点だけお話します。謝罪声明は「わたしたちカトリック教会は」
ではなく、「私たちカトリック司教団は」ということで主語はすべて、謝罪する主語はすべて司教団としました。教会の指導者である司教団が間違っていた。しかし、その中で形式的に働いておられた人とたちは、その政府の国策に結果的に協力してしまった責任を負わせるものではない。また、負わせることは出来ない。その背景は当時の社会の常識です。   あのハンセン病患者の人たちは隔離されてしまう。当然だということがだれも疑問に感じず、その政府の政策にすべての国民が協力していたわけです。何もそこに疑問を感じていなかった。確かにぞ隔離政策は必要ないという専門家の意見やカトリック教会の中でもそのような人たちがいました。それはごくごく少数でした。あの時代の流れ、雰囲気の中にあって、それに異を唱えるなどということは発想すら起こってこないような状況でした。しかし、これはハンセン病に対する私たちが誤った取り組みをしていたことに限らず、同じことが戦前の雰囲気と言えますし、そして今日本の社会を包み込んでいる空気がいつのまにか、法律などでそういうことが駄目だと言うのではなく、国の空気全体がそうでなければならない。そこから外れた考えを知るものは攻撃され排斥されていく。そういうような得たいのしれない空気のようなものが出来上がってきているのではないかと危険性を感じています。そして、これこそがむしろ明白なおかしな法律だとか、おかしな政策だとかと糾弾するよりも、いつのまのか私たちの足下から私たちの心を食い尽くそうとする、恐ろしいウイルスの存在だと思います。
  そして、現代社会はそのようなものに満ちているのです。危機的状況、戦争とかあるいはそれに至るような私たちの自由が制限されるような、弾圧されるような社会は突然やってくるようなわけではありません。知らないうちに、いつのまにかそうなっていたというのが戦前や日本に限らずドイツもそうでした。民主的な社会だと思い込んでいた、そのしくみの中できちんと営まれていたと思った社会が、まったく違うものに変わってしまっていた。私たちは経験しているわけです。ですから私たちは今、それを見極めることの重要性。それが問われているのだと思います。

  2016年にバチカンで行われた非暴力と正義と平和の会議において、先日シスター弘田も来て南スーダンの司教の話をしていました。非常に印象的な話でした。南スーダンで二つの勢力が対立し内線状態だったとき、唯一、双方の意見を聞くことが出来るのは、信頼されていた司教でした。どうしたら双方の仲介が出来るのですかという質問に対して、非常に抽象的に「愛する。」と答えられたのです。愛するのは分かるが具体的にはといろいろ言ってましたが、特に印象的だったのは、敵対する者に対するリスペクト、相手に対する尊敬の念がなければ絶対に和解というものは成立しない。そして、相手を尊敬、尊重するという態度とともに、現れる態度は聞くことです。相手の意見は自分とは違う、異なる、まったく異なる正反対の価値観を持っていたとしても、まず聞いて受け止める。それは時間がかかるけれど徹底することによって、和解の糸口が見えてくるのだと。それが具体的に政治的レベルの愛することの意味だと、そうおっしゃっていたのが印象的でした。果たして今、日本が抱えている様々な多くの問題の中で、特に敵対する考え方や自分たちと相いれない人たちに対して  相手をリスペクトして主張に耳を傾けることから和解をしようとする努力をなされているのか、これが非常に疑問なところであります。

 実は、昨日、今日の日付(8月15日)で「韓国と日本の和解に向けての会長談話」を正義と平和協議会会長のメッセージをとして日本語と韓国後で出しました。今回は背景となる解説が非常に多く7ページにもなりました。その締めくくりに引用した祈りが、今日の皆さんのしおりの中にある「第52回『世界広報の日』の教皇メッセージより」というものです。これは昨年5月の世界広報の日に、アッシジのフランシスコの平和の祈りを題材にしながら教皇様が祈りとして載せられていたものです。
 これを祈りとして、最後に皆さんと読んで、終わりたいと思います。

『主よ
 わたしたちをあなたの平和の道具にしてください。
 交わりをはぐくまないコミュニケーションに潜む悪に気づかせ、
 わたしたちの判断から毒を取り除き、兄弟姉妹として
 他の人のことを話せるよう助けてください。
 あなたは誠実で信頼できるかたです。
 わたしたちのことばを、この世の善の種にしてください。
 騒音のあるところで、耳を傾け、 混乱のあるところで、調和を促し、
 あいまいさには、明確さを、
 排斥には、分かち合いを、
 扇情主義には、冷静さをもたらすものとしてください。
 深みのないところに、真の問いかけをし、
 先入観のあるところに、信頼を呼び起こし、
 敵意のあるところに、敬意を、
 嘘のあるところに、真理をもたらすことができますように。
 アーメン。』
(日韓政府関係の和解に向けて 8.15「日本カトリック正義と平和協議会 会長」
 談話より)』

2019年8月11日日曜日

年間第19主日

この日の主日ミサは、勝谷司教と韓国から訪問中の金山椿(キム・サンチュン)司祭の共同司式でした。


キム神父様はイエズス会所属で、現在、ソウルの西江大学(ソガン大学)哲学科で教鞭をとっておられるそうです。
キム神父様のお説教では、日韓関係が悪化している状況のなか「カトリック教会だけでも和解の任務を果たさなければならないと思います。」というお話がありました。

キム神父様のお説教の大要をご紹介します。

『このような素晴らしいカテドラルで司教様と一緒にミサを捧げられ、そしてお説教までやらせていただきとてもうれしい気持ちです。

今日の第2朗読「ヘブライ人への手紙」に書かれているように、アブラハムは行き先も知らずに出発しました。私も26歳の時、イエズス会がどんなところかわからずに入会して、もう35年が経ちました。また、この札幌教区がどんなところか分からないのに、お盆に実家に帰省する人のように毎年、20年間くらい夏休みに訪れています。昨年、司祭に叙階して25周年を迎え、年も60歳で還暦になっています。昨年本を出しました。タイトルは「私をこえてあなたのうちに」という本でした。このタイトルはアウグスティヌスの「告白録」に書かれている言葉です。告白録の最後には結論として「私をこえて、ここであなたを見つけるでしょう」と書かれています。

神様はいつも働いています。ヨハネ5・17に「わたしの父は、今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」とあります。
イエス様は何の仕事をなさっているのでしょうか? それは、コリント2・5-18に、「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。」とあります。イエス様の仕事というのは、人類と神様を和解させること。その和解させるその任務を私たちにも下さったので、私たちもいつも働くということです。
最近、日韓関係が悪化していますが、カトリック教会だけでも和解の任務を果たさなければならないと思います。そういう面で司教様には深く感謝いたします。

人生の中で大切なのは、私たちが何をしたかではなく、それを愛を持ってしたかどうか、ということです。愛を持ってしなかったことは、全て徒労に過ぎません。しかし、愛を持ってしたことは、少なくともその愛は永遠に残ります。例えば何年か前に東京で、韓国の留学生が線路に落ちた酔客を助けようとして命を落としたことがあります。その学生の行為は永遠にその場所に残ると思います。

ある哲学者は「人間が人間に与える一番大きなプレゼントは、対価を求めない純粋な奉仕、その思いである」と言っています。
母親は、何の対価を求めずに自分の子供に奉仕します。
イエス様も同じです。私たちの罪のために、この世のすべての罪を愛を持って贖ってくださいました。そこに愛がなければ何の意味もないただの徒労に過ぎません。
芥川賞をもらった又吉さんの「火花」という小説には、このような言葉があります。「そういう君だけが作れる笑いがある」。私たち信者にも、「私たちだけが行うことができる愛がある」と思います。
日野原重明さんという皆さんもご存知のお医者さんがいます。100歳を超えても現役で頑張っておられました。彼は1970年に「よど号ハイジャック事件」に巻き込まれました。彼はその事件があってから、自分に言います。「私の命は残っている時間の中にある」ということでした。その大切な時間を、「子供のころは自分のために使うのですが、大人にあっては他人のために使わなければなりません。」と彼は語っていました。他人のために使う時間が多ければ多いほど、天国は近づいてくるということです。

人生は何よりも愛を学ぶ学校でもあります。
この世は、「愛」の小学校だと思います。この世に私たちが送られてきたのは、この「愛」を学ぶためです。修道院のような所は「愛」の中学校か高校ではないかと思います。「愛」の大学とはどこでしょうか?それは、私たちに本当の愛は何かということを教えてくれるところだと思います。これは、マタイ25章に出ています。「牢にいるときに訪ねてくれた」。多分、「愛」の大学は刑務所じゃないかというような気がします。「病気のときに見舞いに来てくれました」、病院も「愛」の大学という気がします。
この世には愛の大学はあちこちにたくさんあるのではと思います。ここを卒業したら天国に直接行けるのではないでしょうか。

私たちのふるい命は、この地上でなくなります。しかし新しい命、それはキリストとともに神の中に託されます。』



2019年8月4日日曜日

年間第18主日

この日の第一朗読「コヘレトの言葉(1・2,2・21-23)」では、現実世界の空しさが語られます。
たしかに、私たちの生きている現実は、理不尽なことがたくさんあります。
でもそう感じてしまうのは、神に心が向き合っていないということなのかもしれません。


この日の湯澤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音はルカだけが書き残している部分です。ある意味でルカのセンスというか、財産的なものに厳しい見方をするルカ、福音を書いた人の性格がしないでもないです。ある人がやって来て、財産を分けてくれるように兄弟に言ってくださいと頼んだのです。この当時の宗教的指導者は、こういう問題を取り上げて調定をしたり裁いたりしていましたが、キリストはそれをきっかけに別な話を始めたのだと思います。一般的にすべての人に向かって、どんな貪欲にも注意を払いなさいと。ですから最初の人は貪欲な人かなと思うのですが、そうではないと思います。おそらく遺産相続の時に不平等を感じて、何とかして欲しいと言ったんでしょう。こういう理不尽なことは良くあることです。普通であれば正しいことをしていれば、良い報いがある。昔から良いことをしていれば天国にいけると。悪いことをしていれば地獄にいくと。普通はそう考えますね。実際はそうでないことの方が多いですね。

 今日の第一朗読は、旧約聖書のコヘレトの言葉、昔は伝道の書と言われていました。「知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これは空しく大いに不幸なことだ。」せっかく努力したのにそれを自分のものに出来ない、努力が無駄になる。全然努力しない人が良い思いをする。それはおかしいことではないかということですね。普通だったら、がんばったら良いことがおこる。そうとは限らないのが人間の世界ですね。
  分かりやすい例ですが旧約聖書に、カインとアベルの話があります。カインとアベルの兄弟がいて、二人が神様に捧げ物をします。アベルは牧畜をする人だったので、一番良い羊を神様に捧げます。カインは農民だったので農作物を捧げました。両方とも素晴らしいものを捧げたのですが、神様はアベルの捧げ物を受けて、カインの物は受け入れなかった。カインは怒ったのです。
 こういうことは良くあります。同じ人間に生まれながら、非常に頭の良い人とか、イケメンの人とかいますね。そうじゃない人はあまり良いことがないですね。頭の悪い人はどれだけ努力しても勉強は出来ないし、イケメンでない人はどんなにもてようと思ってもモテないですね。なんで神様はこんな理不尽なことを…。私の中学の同級生にすごく頭の良い人がいました。高校も男子校でいっしょでした。いつも遊んでいるのですが、成績はトップでした。なぜ勉強をしないのにそんなに出来るのか聞いたことがありました。一回授業をきけば全部分かるよと言われました。そんな馬鹿なと思いました。でもその後、東大の医学部に入りました。こっちはきゅうきゅうとして試験勉強し、やっと大学に入れたのに。頭の良い人は勉強しないのに良い大学に入り、良い職業を得て良い生活をするのですが、そうでない人はどんなに努力しても駄目。カインとアベルみたいなものですね。
 
 どうやら人間の社会は、良いことをすれば良い報いがあるだけではないらしい。コヘレトは考えたのですね。反知恵文学と言います。頑張りましょう。神様は必ず報いをくださいますから。これを知恵文学といいます。知恵の書や格言のこと。コヘレトなどの反知恵文学は、どんなに努力しても良い報いがあるとは限らない。だったらどうしようかという問いかけですね。カインとアベルの物語に戻りますと、神様は答えを出すのです。もし悪いことしていなかったら神様の方をずっと見ていれば良い。もしそのときに嫉妬などして神様から離れると罪を犯すかもしれない。実際にカインは弟を殺してしまったわけですね。
カインとアベルの話は簡単にお話しがなされていますが、コヘレトもそうですね、神様の摂理、神様の意思は分からないものです。だから悪いことをしても栄える人はいますし、良いことをしても不幸になる人はいる。でも、神様の意思、思いは分からない、結果では分からない。最終的には神様の意思、心に従って生きようではないかとコヘレトは結論を出します。そのように考えると今日の第二朗読も似たようなことが書いてありますね。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイの教会への手紙3章1、2節)キリストの話もそういうふうにしてみると、なんとなく分かるような気がします。

  確かに私たちはこの世の中で生きなければならない。その中で何と理不尽なことがある。
努力しても報われないことがあるし、変だなということがたくさんあるかもしれない。
 でも大切なことは、そういう中で神様は私にどういうことを望んでおられるのか、探すこと。それに応えて生きること。私たちは日常生活でどうしても表面的な人間的なものに心が囚われてしまって、一番大事なことを忘れてしまっているかもしれない。キリストは言うわけですね。弟子たちに求めたものは何か。神様の意思を知ってそれに応えること。そのように考えると今日のこの話も何となく分かってくるのでは。私たちが最終的に大切にしなければならないことも分かってくるのではないかと思います。』