2019年10月27日日曜日

年間第30主日

へりくだる者は高められる (ルカ18・14より)

今日の福音(ルカ18・9-14)は、ファリサイ派と徴税人の二人の祈りを対比させ、祈りの姿勢について教えられています。

この日のミサは、勝谷司教様と佐藤神父様の共同司式でした。


佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音ではファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りが描かれています。 ファリサイという言葉は分離するという意味の言葉に由来します。 では何から分離するのか。 イエスが現れる 200年くらい前にユダヤはセレウコス朝シリアに支配されました。 この国はユダヤを支配してヘレニズム化政策、つまりギリシャ化の政策を進めました。 ギリシャ化というのは、エルサレムの神殿からいろいろなものを略奪して、異教の神々の偶像にいけにえをささげさせたり、律法を忘れさせ、掟をすべて変えてしまうことをしました。 ヘレニズム化を歓迎したのは上級祭司や土地を持っている人など実権を握る者たちでした。 逆に警戒したのが、下級祭司や農民たちでした。 上級祭司や権力を持つ者はセレウコス側についた方が人々を支配しやすかったので歓迎したのです。 下級祭司や農民は、唯一の神こそが自分たちを守るものであり、ギリシャ化には反対し、律法を厳しく守っていました。 のちに上級祭司はサドカイ派となっていき、下級祭司はファリサイ派となっていきます。 ですからファリサイ派は、初めは弱い者とともに手をたずさえて、自分たちの宗教を守っていこうとする人たちだったのです。
「分離する」というのは、ヘレニズム化とは明確に分離するという意味です。 それは自分たちの律法をしっかり守り、セレウコス朝と対抗しなければならないということから、結 束を守るために必要だったと言えます。 その後マカバイ戦争が起こり、神殿を取り戻したということが聖書のマカバイ記に書かれています。 イエスの時代にもファリサイ派は続いていて、律法を厳格に守るということが続いていました。

さて、イエスの時代にはユダヤはセレウコス朝からローマ帝国に代わって支配されていましたが、宗教に関してはある程度ユダヤ人の自由に任されていました。 ローマ帝国は、税金徴収という仕事のためにユダヤ人の中から徴税人を任命していました。 その仕事でローマから給料をもらっていたと思いますが、それに加えてユダヤ人に手数料を上乗せして徴収することもできたようです。 ユダヤ人でありながらローマ帝国の手伝いをし、さらに上乗せしてユダヤ人から税金以上の金を取る裏切り者と思われていたのです。
この二人、ファリサイ派の人と徴税人の祈りが、神に受け入れられるものかどうかをイエスはたとえで示しているわけです。 ファリサイ派の人の祈りは、「わたしはこのような者でありません」、「わたしはこのような者です」という2つの祈りが入っています。 わたしはこのような者ではありませんというのは、 奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者、また、この徴税人のような者でもないことに感謝します。 わたしはこのような者ですというのは、 週に二度断食し、全収入の十分の一をささげています。 果たして、これは祈りといえるのでしょうか。 この祈りには神の恵みを求めることを感じさせるところが全くありません。 すべて自分の力で達成することができたと言っているだけです。 この祈りを神が聞いて「偉いねえ」とほめてもらえるとでも思っているのでしょうか。
神に心を向けて折っているのではなく、単に自分の行わなかったこと、行うことができたことを言っているだけです。 自分で自分はこんなに出来て偉いのだと思っているだけで、こんな報告は神にとってどうでもいいことです。 言ってみれば当然のことをしただけです。 むしろ、「わたしは当然のことをしただけです、わたしを憐れんでください」というなら神様もこの人を正しいとされたかもしれません。
ファリサイ派の人が本当にしなければならないことは、迫害されていた時代の精神に戻り、律法を守らない人には自ら近づいて行って律法を教え守るよう導くべきです。 そうでない人には近づかずむしろ排除しようとしているように感じます。 遠く離れて立って祈っている徴税人には、ユダヤ人に不正を働かず正しく徴収するよう近づいて行って働きかけるべきでしょう。 ここに出てくるファリサイ派の人は自分が律法を守ってさえいればそれでいいという考えです。 確かに週に二度断食するとか、全収入の十分の一をささげることはいいことには違いありません。 しかし隣人を愛するという心が欠けていましたし、神のあわれみを求める心に欠けていました。
さて、徴税人はどうかというと、ただ自分の罪を悔いて「神様、罪人のわたしを憐れんでください」 と言うだけです。 遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言ったのです。 この徴税人は周りからさげすまれて孤独になったときに、ふと立ち止まって、過去を振り返って、われに返ったのかもしれません。 いろいろな不正によって富を得ていたことによって、苦しんでいる人がいることに気づいたのかもしれません。 これからこの徴税人は人々に取りすぎた分を返すかもしれませんし、不正をしないようになるかもしれません。 神に心を向けて憐れみを求めるという祈りは、そういう行動をとることができることにつながるのです。

わたしたちもどう祈ればいいか分からなかったときには、他人と比較して優越感をもってする祈りをしていたかもしれません。 少なからず、ここに登場するファリサイ派の人のような面があったかもしれません。 しかし、皆さんもこの徴税人のように神に心を向けて、自分の行いを振り返って、素直に神に憐れみを求める祈りもしているでしょう。 他人との比較をしているだけでは、神とのかかわりを妨げてしまうだけでなく、人との関係も断つこ とになります。 周りの人がすべて競争相手という世の中にあって、イエスが教える祈りは大切なものであると思います。
わたしたちも「神様、罪びとのわたしを憐れんでください」という祈りから始めていきましょう。』

2019年10月20日日曜日

年間第29主日

今日の主日ミサは、フランシスコ会のルカ神父様による司式でした。
北一条教会では2回目の司式となり、自己紹介を交えたお説教でした。


ルカ神父様は、28歳の頃イタリアから来日され、主に道東方面の教会で司牧されていました。山登りが大好きで、最近では体力維持のため藻岩山に通っているそうです。

この日のルカ神父様のお説教の大要をご紹介します。


『札幌は2回目の勤務になります。1回目は1999年から2002年の3年間、片田舎の道東地区から都会である札幌です。札幌に行きなさいと言われたときは、崖から飛び降りるような気持ちだったのです。無事に3年間終わって、また釧路に戻りました。それから9年、また2011年に札幌に来たのです。自分が決めるとか、そこへ行きたいとか、そういう気持ちであれば悩むのはわたしだけですが、そうならないようにと、それは神様のみ旨だと言えば安心できるのです。どんなことが起きても神様のせいです。自分が決めていれば自分のせいです。心の平和を得たいなら、自分の意思ではなくて、神様のみ旨であればと、何回も経験したのです。
  札幌は好きです。山が近いから好きです。山が好きなのです。毎週月曜日に藻岩山に登ります。それが唯一の運動です。慈恵会病院の登山口が一番登りやすい。山頂まで1時間15分程です。森の中に入ると街の音が聞こえなくなり、本当に静かです。この夏は。1回だけでしたが、ウグイスの鳴き声を聞きました。初めて聞きました。降りるのは5分。ロープウェイです。膝に負担がかかるから。
 どうして登るのか。今日の第一朗読で、モーセも丘の頂に登りました。祈るためです。私も登りながらロザリオを唱えます。それと、たくさんの人に会えるのです。朝、早くに登っている人たちは、私が登る頃に降りてきて出会います。ですから立ち話を良くするのです。友達がたくさん出来ました。「お国はどちらですか?」と必ず聞かれます。私は「神の国」から来ていますと言うのです。とにかく福音宣教になるのです。教会の中にいれば誰も来ないです。そこは1時間ちょっとですが、たくさんの人と出会うのです。時々、登るのに2時間になる場合もあるのです。素晴らしい福音宣教の場になるのです。たいてい自然が好きな人は心がきれいです。暗い顔をしていないです。明るい顔です。自然に近づけば近づくほど、神様に近づくのです。神様の業です。
  札幌と石狩の境に大きな病院があります。そこの病院に2ヶ月前に亡くなった小樽教会のSさんがいました。45年ほど前に釧路にもご夫婦で2、3年いました。古い信者さんでご主人は先に天に召されました。熱心な信者で、良く病院にご聖体をもっていきました。前もって連絡するのではないのですが、病室に行くといつもロザリオを手にしていました。そして笑顔でした。4人部屋ですが、入口に立つと「おー神父様」と待ってましたと喜ぶのです。彼女は94歳でした。96歳で亡くなりました。最後まで笑顔を絶やさなかった。祈り、ロザリオで時間をいっぱい生きるために。時間を過ごすためでなく、時間を満たすため。いつも相手は神様です。(4人部屋で)ぼけてる人が多いのですが、相手がいないのです。祈らないのです。挨拶もしない。感情だけ。彼女はめがねをかけないで字の小さい本を読んでいました。今は天国です。
  いろいろ話しましたが、何か糧になれば良いと思います。』

2019年10月13日日曜日

年間第28主日

今日の福音(ルカ17・11-19)は「イエスこそ、メシア ”キリスト”である」という信仰を私たちに改めて教えてくれています。

主日ミサは、湯澤神父様が司式されました。


湯澤神父様の霊名「聖ミカエル」の記念日から2週間も経ってしまいましたが、この日のミサの「派遣の祝福」前に、教会からのお祝いをお贈りしました。


湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『この日の福音(ルカ17・11-19)は、「イエスはエルサレムへ上る途中」という設定で始ります。これは、十字架へ向かって歩んでいく途中ということを示しており、キリストの死と復活に向けて方向付けられている中での一つの出来事になります。

「重い皮膚病」とは、主にハンセン病を指すわけですが、これは今年、国が政策の誤りを謝罪したことにもなっています。
イスラエル人たちと、私たち日本人は、元々この病気に対する見方が全く異なっていたわけです。同じ人類なのでこの病気はどこにでもあったはずなのですが、日本人はこれを遺伝する病気と捉えたわけです。そのために以後、非常に大きな不幸を生んでいくことになっていきました。1950年代の初めには、アメリカから治療薬が届きこの病気は”治る病気”になり、伝染することもなくなりました。
今から2,30年前に、これらの施設の一つに子供たちを連れて訪問したことが何年か続いたことがありました。そこにいた人たちの言っていた言葉は、「私たちは自由になり、海外旅行でもどこでも行けるようになりましたが、唯一行けないところは自分の家族のところです」というものでした。相変わらず家に帰ると、あそこの家族はこの病気を出した、ということで差別や偏見の目で見られるということになったそうです。このような悲しい話を子供たちの前でもしてくれました。

一方、この病気について、イスラエル人たちは遺伝とは考えませんでした。カビと同じように空気感染する病気だと考えたようです。ですから今日の福音の箇所でも「重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、 遠くの方に立ち止まったまま」と書かれているように、家の中では2~3m 人と離れていなければならないし、屋外だと風があるので20~30m 離れるというのが約束になっていたようで、また鈴のような物を身に着けて周りに分かるようにしていたようです。ベンハーという映画でもそのようなシーンがありました。
このように聖書の時代には、このような人たちは隔離されずに日常生活をおくっていたわけです。しかし、ただ単なる病気ではなく、宗教的にも汚れたもの、救われないものとして扱われました。旧約聖書の律法を見るとわかりますが、汚れた者として、”交わり”から排除されたわけです。もし仮に病気が治ったとしたら、司祭の前で治ったことを宣言してもらわないといけないし、いけにえを捧げなければならないというのが、旧約時代の規則になっていました。
そういうわけで、重い皮膚病の人たちは、イエスから20~30m 離れたところから大声で「憐れんでください」と叫んだという状況だったということです。

マルコによる福音の奇跡物語に最初に登場するのが、重い皮膚病に対するキリストの癒しになります。この場面では、キリストは皮膚病の人の所まで”行って”、触れ清めています。もちろん触れることで自分も汚れるわけですが、あえてイエスは汚れた人たちの所に出向いて行って、触れて、そして癒したのでした。ここが、当時の他の宗教家と違うところになります。普通の宗教家、洗礼者ヨハネもそうですが、清さを保つために汚れから避けるように人々から離れているわけですが、キリストは逆に出向いていったわけです。

今日のお話では、そこまでしてはいないのですが、イエスは「(律法に従って)司祭たちのところへ行って、(治った)体を見せなさい」と言われました。そして、彼らは祭司のところへ行く途中で癒されたのですが、その中の一人だけしか、イエスのところへ戻って来ませんでした。このことに対して、イエスは「ほかの9人はどこにいるのか」と言われましたが、これは決して、他の9人の”恩知らず”を非難したわけではなかったのです。
癒された残りの9人も、重い病気が治ったことに対して、神に賛美を捧げることは人間として自然なことです。ですから、この9人も当然、宗教は違っても神を賛美しただろうと考えられます。
しかし、ただ一人戻って来たこのサマリア人が、彼らと違うところはどこかというと、”キリストのところに戻って来た”という点になります。これは、この民が”十字架に向かっている”ということと無関係ではありません。十字架に架かってキリストはメシアとして殺されていくわけです。そして、救いの業を完成させていきます。そのことを念頭に置くと、癒されたことに対して、神に感謝して、いけにえを捧げたりすることは、自然なことかもしれませんが、ただ一つだけ違う点は、その救いが”キリストを通して為される”ということに気付いたかどうかです。
この癒しが、”キリストを通して癒されていった”ということに気付いたのが、このサマリア人一人だけだった、ということです。
どのような人でもこのような癒しを受けると、神に感謝することはごく自然のことだろうと思いますが、本来の救いが”キリストを通して為される”ということに気付く人たちは、そうはいないということです。逆に言うと、キリストこそ私たちの救い主であって、救いを実現される方だと気づくことは、今日の現代社会にあってもキリスト教徒が少ないように、気付く人も少ないわけです。それはとても幸いなことだろうと思います。

そして、他の人に信仰がなかったわけでもないし、それでも救われるわけなのですが、しかし、この救いがキリストを通して実現するという「その信仰こそ、あなたを救う」と言ったこのキリストの言葉は重要なことです。
そして、それはルカが描いているように、彼らの描くメシア像ではなく十字架をとおして示される新しいメシア像です。この”キリストの十字架を通したメシア”=キリストという言葉は大きく意味が変わっていきます。そして、あたかもイエス・キリストといわれるように、”キリスト”はイエスにだけ使われるような言葉となっていくわけです。

この新しい意味での救いの実現は、キリストを通して行われ、そのキリストに対する信仰こそ私たちを救うものである。十字架の上では、もっとはっきり「今日あなたは、わたしとともに楽園にいる」と盗賊に言われたのと同じように。
私たちが、どこに信仰を持って立っているかということが問われます。それを今日の物語は私たちに教えてくれているのではないかと思います。
そのような意味で私たちは、この信仰を強めていかなければならないと思います。
先週の福音は、使徒たちが「信仰を増してください」という言葉で始まりました。
その信仰は、「イエスこそキリストである」という信仰です。
私たちの信仰がどういう信仰であるか再確認していきたいと思います。』

2019年10月7日月曜日

年間第27主日

この日の福音(ルカ17・5-10)でイエスは、信仰を増したいという使徒たちに対し「からし種」一粒ほどの信仰があれば十分だと答えます。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『先週は金持ちとラザロのたとえ話で、その後これが続くわけで、少し唐突な感じがしないわけでもないです。「聖書と典礼」の脚注に『「1日に七回ゆるしなさい」という言葉に続く箇所。ここでもイエスは弟子たちのあるべき姿を教える。』と書いてありますが、ちょっともうひとつ抜けていますが。
 つまづきにならないようにということ。キリストの弟子たちのグループの時代から、教会が始まって今日に至るまで、教会の中の信者がいかに、信者にとってつまづきということが、日常的ということが分かります。そういうつまずきを与えることによって、信徒は教会から消えていく。それについて語っているのです。罪とは何か悪いことをしたわけではなくて、神との関わりを断ち切って、兄弟の交わりを断ち切って、共同体から抜けて行く人たちです。その原因はこのルカ福音書では、同じ信仰の仲間だというわけです。そういうつまずきにならないように。そういう人たちが戻ってくるならば、何回でもいいから迎え入れるようにというのです。そして戻ってくるように働きかけるように言うのです。

 その後に続くのが今日のこの箇所です。使徒たちはその教会の現況にあって、信仰が欲しいと言うわけです。信仰を増してください。そうするとキリストは、ほんのちょっとの信仰があればそれで十分だと言うのです。ひとつのたとえです。からし種と木が海に移る。別に信仰によって木が移るかどうかマジックの問題ではない。からし種という小さな信仰と大きな業と比喩的に極端に比較しているだけ。信仰があれば木が移る、そんな問題ではない。ほんのちょっとの信仰があれば、そういう共同体の中の困難を乗り越えることが出来るということ。そんな中にあって、脚注にあるように弟子のあり方を説明する。これがその次の箇所になっています。

 ごく身近な例をキリストはあげます。ある使用人がいます。普通の豊かな人。ラザロの話に続くのですが。使用人は畑で働く、あるいは羊を飼う。その仕事が終わって帰って来た時に、そこの主人はよくやったねと、食事の給仕をして、ご馳走するかというとそうではない。まず、使用人ですから、私が食事をするから世話をしなさいと言われます。それが終わったら食事をしても良いですよ。普通の情景がここで描かれます。
 その使用人が主人の前で誇るだろうか。感謝してもらうことがあるだろうか。果たすべき仕事を果たしただけにすぎない。別に謙遜を教えているわけではない。道徳の問題ではない。信徒の信仰のあり方のことで、個人的な道徳を語っているわけではない。
 信徒はどうなのかということ。ここだけですと分かりません。分かりやすく話をすると、
30年前くらいヨハネ・パウロ二世が「信徒について」という使徒的書簡を出しました。
その中では、最初に信徒について、次にその2年後に司祭について。その2年後に奉献者についてと3つの使徒的書簡を出しました。信徒についてはキリストに忠実な人 「CHRISTIFIDELES LAICI」という言葉で始まりますが、日本語の訳のタイトルは「信徒の召命と使命」です。
  余談ですが、昨日、北26条教会の運営委員会がありました。六甲学院の吉村信夫教諭を講師に今年2回信徒養成講座がありましたが、その吉村さんを迎えて、この度12日(土)に北26条教会で研修会を行うことになりました。そのタイトルが「固有の召命」
となっています。そこで、何でこのタイトルになったのか質問がありました。そうですね、普通、召命というと司祭とか修道者の召命になるので良く祈ってます。自分に関係ないですね。しかし、それは特殊な例です。司祭とか修道者の召命は本当に一部の特殊な例であるのですね。でも、召命は本来は信徒の召命です。ヨハネ・パウロ二世が出した書簡も信徒の召命がタイトルなのです。そこで、モデルになっている聖書のお話は、マタイ福音書のぶどう畑で働く労働者のたとえなのです。賃金を払う方ではなくて前半のほうですね。
朝6時に主人は広場に行って労働者を集めるのですね。1日1デナリオンでと。労働者たちは主人に呼ばれてぶどう畑で働くために呼ばれたのです。9時にも12時にも、午後3時にも5時にも行って。5時にはなにぶらぶらしているのとその話が続いていきます。信徒はそのように神によって呼ばれて、ぶどう畑で働く使命を受けている。これが召命です。
 
 ですから洗礼を受けた時点で、神から召命を受けて使命をうけるのです。それが畑で働き羊を飼う、その主人によって畑か羊に送られていく。そして使命を果たし帰って来たときに、俺はやったぞと誇れるのか。ただ、言われたことをやっただけだ。それを誇って何が素晴らしいことをやったのだと主人に、そういうもんじゃない。畑で働くか、羊を飼うか、そういうふうにひとり一人の信徒が呼ばれる。洗礼の時に呼ばれる。どの信徒も呼ばれて、その使命を果たして帰ってくる。そのときに、私は使命を果たしただけ、これが信徒のあり方、キリストの教えなんです。謙遜や道徳の教えではない。信仰そのもののあり方が、ここでは問われている。昨日の運営委員会で、そのように信徒はまったく考えていない。講師がどのようにお話するか分かりませんが。しかし、良い機会だと思っているのです。

  この召命というのは本来は信徒なのです。洗礼で使命を受ける。そして派遣される。
北26条教会ではこの前、高校生が3人堅信を受けたのですが、受ける人が自覚しなければならないことです。子供のときに洗礼を受けているが、召命を受けていることも分からない、使命を受けていることも分からない。その勉強をしたわけです。リーダーの方々もいっしょに勉強したわけ。非難をしているわけでないのですが、感覚的に分かっていない。ほかの人、大人の信徒の人も分かっていない。皆さん一緒に堅信を受ける人と同じことを学んでいきましたが、ここではそういうことが言われているんです。共同体の中にあって、いろんな問題があります。その時、信仰さえあれば、そういった信徒たちに対して、信仰のあり方、ひとり一人が神から呼ばれている。そしてひとり一人がが使命を果たしている。果たしたときに、それは言われたことをしただけであって、それ自身、当然誇るべきことではない。キリストはそう言うわけです。

 私たちひとり一人、そこまで到達していないかもしれない。今日そのことを分かって自覚して、それぞれ信徒として神から呼ばれたことの使命を果たして、その場は皆さんの日常生活、特別なこのような教会の場ではありません。日常生活の中で呼ばれている信徒として、その使命を果たしていく。このキリストのあり方、キリストが教えている信徒のあり方、信徒のあり方がわたしたちが出来るようにしていきたいと思います。』

2019年10月3日木曜日

守護の天使(記念日)10月2日(水)

カトリック北一条教会の聖堂名でもある「守護の天使」の記念日のこの日、18時半から森田神父様とレイ神父様の司式によりミサが行われました。


森田神父様のお説教の大要をご紹介します。

『ひとり一人に守護の天使が付けられているというカトリックの教えですが、同時に聖書にも第一朗読、福音書にもこのように書かれて、これも聖書の教えであることがいわれています。また、天使はもともと姿はないですね。羽のついたあの姿は、神々しさとか清らかさを表していますが、実態としては肉体のない霊、貞淑なる霊、人間より優れた霊ですが、日本でも守護霊という言い方がありますが、ちょっと似ているかもしれません。ひとり一人に思ってくれる天使。良い霊、神様からの霊がいらっしゃる。私たちはこのことを感謝したいと思います。
 神様は天使に命じて、ひとり一人を守らせますので、天使が守ってくださっている意味は、同時に神が守ってくださっているということ。そして、毎日の生活の中でいろんな不安や心配があるときに、その場その場で守護の天使に祈る。そういうことをやることも良いと思います。私たちも具体的に毎日いろんな場所で、心配とかあるわけですから。守護の天使そして保護の聖人に祈ることは、とても良いことだと思います。
 また、同時に彼らの天使は天で神様の御前にいらっしゃる。ですから、私たちのことも全部天使が報告してくださるみたいな感じでいます。隠れて私たちが知られずに苦しんでいることや何かがあっても、天使は知っていて神様に報告している。私がどういう苦しみを受けているか、悩みがあったり。報告するときならず、いろんな誘惑やいろんな罠にあたって、守護の天使がいつも戦っている。私たち人間も当然戦いますが、悪の誘惑や攻撃に対して、同じほどの動力をもつ天使がいつも戦って人間を守っている。
 ですから、私たちはその守護を与えられていることを今日、改めて思いながら神様に感謝し、守護の天使に祈り、あるいはより頼むようにしていきたいと思います。』