2020年1月29日水曜日

年間第3主日

「悔い改めよ。天の国は近づいた」
すべての人に対してキリストは召命を呼びかけられました。

この日の司式は湯澤神父様でした。


お説教の大要をご紹介します。

『今日のマタイ福音書は、イエスの宣教活動の始まりの時です。今日の朗読箇所に選ばれた後半の半分は省略しても(読まなくても)良いという印がついていますので、省略しようと思ったのですが、省略するとあまり意味が分からなくなる。
 イエスの宣教の最初のきっかけは「悔い改めよ。天の国は近づいた」という呼びかけです。マルコによる福音書ですとこの後に、事実の宣言と同時に「福音を信ずるように」という言葉が続きますが、(両者は)同じです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」というこの言葉は、洗礼者ヨハネが言っていた言葉と同じです。それではこの意味合いが同じかと言うと、少し違っていると思います。天の国は近づいたという「国」βασιλεία(バシレイア)という言葉は支配という意味合いで、テリトリー (territory)という感覚はないのです。ここからここまでという、国境線があってその国境線が近づいて来たということではなくて、それぞれの人たち、あるいはその世界に対する神の支配が強まってきたというふうに、理解したほうが良いです。ひとり一人の心の中に神が支配するようになってきた。そういう時代が来たわけだから、神の方に心を向けなさいという呼びかけなのです。
 それに付随して4人の人たちを呼び寄せたという出来事。元々のマルコの福音書も宣教活動の最初にこの4人の弟子たちを呼ぶのです。マルコの福音書の前半の対象はすべてのに向けられた話しです。後半のエリコ、カイザリアからエルサレムに向かう旅は、弟子たちへ向けられた説教、言葉です。一般的にすべての人に向けられた言葉、一番最初のところはこのことです。つまり、弟子たちばかりではなくすべての人に対してキリストは呼びかけた。その中から、4人の人を選んだのです。往々にしてこの4人の人を選ぶ、呼んだことを、司祭とか修道者の召命に限定して理解する傾向がありますが、そうではないのです。すべての人に対しての召命、呼びかけです。「すべての人に対する召命」と前提にしないと司祭とか修道者の召命はあり得ない。すべての人がキリストからこのように弟子になるように呼びかけられている。これが基礎になって初めてほかのすべての召命が意味をもってくることになるのです。
 まず、キリストの召命、あるいは神の召命、呼びかけ、それに対する応えていく召命というのは、まずキリストを信ずる者の召命です。せまく理解する必要は全然ないのです。それは教会の歴史がそれを狭めてしまった。召命の祈りというと、聖職者や修道者の召命の祈りしかしない。間違いです。召命はすべてのキリスト者に向けられている。すべてのキリスト者が呼びかけに応えて共同体をつくるように呼ばれた、集まって来たということです。この呼ばれて応えた人の中でキリストの活動はそれを土台として始まります。ですから宣教にしても何にしても、そういう背景がないとキリストの個人的なプレーで終わってしまうのです。そうではない。常にこの共同体、呼ばれた信徒、あるいは弟子たちの集まりがあって、その中でキリストの活動があるわけです。そのことを踏まえたときに、私たちは召命という問題を自分の人たちに制限することは必要ないし、自分たちのこととしてまず考えないといけないのです。私たちはひとり一人、このペトロと同じように呼びかけられている、私について来なさい。人を漁どる漁師にしよう。それに応えて集まってきたのがキリスト者、全部のキリスト教だった。そういうふうにしないと、そのほかの召命は意味がない。

 そういう意味で私たちは召命を自分ものとして取り戻さなければならない。司教様はいつも言っている「信徒中心の教会」ですが、召命は信徒のもの。司祭とか修道者のものではない。まず自分たちが信徒中心の教会をつくるとしたら、この召命を自分のものとして取り戻さなければならない。私たちはそのように呼ばれたのです。それに応えたのです。
応えた以上は、応え続ける状態にあるということ。つまり責任があるのです。レスポンシブル(responsible)を分解すると応えられるresponseと出来るableという合成語ですから、責任というのは応えられる。キリストの呼びかけに応えられるようになっている人たちがキリスト教です。キリスト教徒の責任はそこにあるのです。

  そして何のために呼ばれたかというと、人を漁る漁師。キリストの福音を伝えるために呼ばれている。ひとり一人が福音を伝えるために呼ばれている。そういう意味で私たちは
何百年の間、召命を司祭とか修道者に制限して自分たちのものではないと。それは信徒のものを取り上げた司祭、修道者が悪いのでしょうが。だから、自分のものとして取り戻さなければならない。信徒はひとり一人、それに応えられる責任、能力を取り戻さなければならない。どう応えられるかというと、人を漁る宣教、権利。それを取り戻す。大変のようですが自分たちの権利です。キリスト教徒の権利として、もう一度この召命、そして使命を(英語では両方ミッションmissionと言う。)取り戻していかなければならない。
 マタイやマルコの福音書では、キリストの宣教を最初に置いたのです。非常に意味のあることです。特殊な人のためではないのです。そういう意味で私たちは、召命とその使命
を取り戻して、それに生きるようにしていかなければならないし、その自覚を持つ必要があると思います。』

2020年1月22日水曜日

年間第2主日

この日は、先週フィリピン・エクスポージャーから帰国された勝谷司教司式の主日ミサでした。


お説教では、キリストを証するために、私たちに出来ることがあるはずです。というメッセージをいただきました。

お説教の大要をご紹介します。

『先週の木曜日、高校生を連れてフィリピン・エクスポージャーから帰ってまいりました。
今年も感動的な出来事があって、皆、涙を持って別れを惜しんで帰国しました。
帰路、私は高校生とは別な便を使ったのですが、大変な思いをしました。というのもご存知の方もおられるとおり、マニラのすぐ南にある火山が爆発して今大変な被害をもたらしています。
ちょうど私が出発する前の日に噴火があり、その当日はほぼマニラ空港が閉鎖されている状況でした。私が乗る便は、午後最初の12:45分 ダバオ発マニラ行きの便だったわけですが、午前中の便は全てキャンセル、他の航空会社の便は終日全便キャンセルでした。
私はその日、マニラを経由して日本に帰る予定だったのですが、それに乗れなければ乗継便がないという状況でした。恐らくキャンセルになるだろうということを見越して、ネットで八方手を尽くし、ようやく香港経由の帰りの便の”空き”が見つかり、あとはボタンを押せば購入完了というところまで漕ぎ着けました。
ところが、なかなかマニラ行きの便のキャンセルが点かず、定刻発の表示のままなのです。キャンセル扱いにならないと、購入済みの航空券は全て棄てることになってしまうので、直前まで待っていました。そして、いつまでもキャンセルにならなかったので、とうとうチェックインしましたが、その後、延々と何の情報もないまま4時間待たされました。よくフィリピンの航空会社がやるのは、散々待たせた挙句にキャンセルということがあるので、どきどきしながら待っていました。
最終的には4時間遅れで飛んだのですが、それ以降の便はキャンセルになっていました。その日、ダバオからマニラに飛べた便はわずか2便のみで、それに運よく乗ることができたわけです。到着したマニラ空港でも人々がごった返している状況でしたが、その日のうちに何とか成田空港まで帰ることができました。しかし、成田に着いたのは真夜中で着いてからホテルを探さなければならない、また、次の日の成田から千歳までの便も満席で乗れるかどうか分からないという状況であり、不安でいっぱいでした。
一番大変だったのは、先が見えない、この後どうなるか分からない、そして何の情報もない、ということでした。そのようなことが如何にストレスと不安をもたらすということをつくづく感じさせられました。
結果的には、一日遅れにはなりましたが、比較的順調に帰ってくることができたわけです。ただ、司教館に帰って来た翌日、一日遅く帰ってきたということに対して皆の反応が薄く、「何かあったのですか?」という言葉に二重のショックを受けました(笑)。
フィリピンでは噴火によって大変な騒ぎになっているのですが、日本ではほとんど報道されておらず、皆さんの中にも知らない人がいるのではないかと思います。
このように、マスコミがどのようなニュースを流すのかということによって、私たちは近くの国で起こっている大災害についても全く知らないでいることがあるのだということを感じました。
これ以前にも、1998年に私は一年間ヨーロッパにいたのですが、その3年前に起こっていた阪神淡路大震災の話をしても知らない人がほとんどでした。あのような大災害のことをヨーロッパの人が知らないということに大変驚きました。

このように私たちが受け取る情報というものは、マスコミがどのように扱うかによって、大きく左右されてしまうということです。ただ、今私たちはマスコミに頼らずともネットをとおして様々な情報にアクセスし知ることが出来るような環境にあります。しかし、まだ多くのマスコミが恣意的な情報を流すならば、私たちは操作されてしまうという危険性や、あるいは何も知らずに置かれるのだという危険性も今回の出来事をとおして感じています。

では、私たちはどんな情報を外に向かって流しているのか、そのことも考えてみなければならないということも感じています。
今日の福音書を見ると、ヨハネはこの当時マスメディアというものが無かったので、個人の証でしか伝達する術はなかったのですが、ヨハネが指し示したのは、言うまでもなくイエス様ご自身です。ヨハネはこの証を自分に与えられた啓示をとおして行ったわけです。しかし、ヨハネが期待していたメシア像はこの世の悪を駆逐する正義の神の登場、すなわち理不尽に国を支配しているローマ帝国を追い払い、そしてまた人々を苦しめている悪徳商人や為政者、彼らに裁きが下される、そのようなことを期待していたはずです。
しかし、どうも自分の予想していたメシアと違うと感じた時に、ヨハネは獄中から弟子を派遣し、こう問わせました。「来るべき方はあなたですか?他の方を待つべきですか?」ここにヨハネの戸惑いを見て取れるわけです。その時イエス様がおっしゃられたことは、「目が見えない人の目は開き、足の不自由な人は歩けるようになる。そして死者は生き返り、貧しい人に福音が告げ知らされる」。
イエス様にとって自分がメシアであるという証は、このような奇跡的な行いを意味するのではなく、社会から疎外され追いやられている人たちに福音が告げ知らされている、その人たちに神の愛が告げ知らされ、その人たちがまた人間社会へと復帰し、その中で人間らしい生き方を取り戻していく、それこそがイエスがメシアであることを指し示す”しるし”であるということです。
そして今、ヨハネのように私たちは、このキリストを指し示すように、その試練を託されています。では私たちはどのようにこのキリストを指し示すのか? 聖書から読み取れることは「2人3人、わたしの名によって集まるところには、わたしはいる」、そして互いに愛し合う時そこに神の存在が証されていく。
私たちは一人の努力によってではなく、共同体の中に、共同体をとおして、存在するイエスを証しなければならない、そのように召されていると考えなければならないでしょう。そして、共同体がなすべき証は何かというと、自分たちが内向きになって、ただ自分たちの閉ざされた環境の中で自分たちの救いだけに関心を向けるような共同体でないことは確かです。
むしろ社会に向かって、何を証するのか、それは言うまでもなくイエス様が行った活動です。社会から疎外されいる人たちに寄り添って彼らの声を代弁していくものとなる、
それを通して私たちはイエスを証することになるわけです。
それでは、札幌教区はどうなのかということですが、ベトナムの技能実習生の支援など最近いろいろな形で慈善活動が行われマスコミでも取り上げられています。
カトリックの名前は出てきませんが、私たちはそうのような人たちを支援する活動をとおして、そのような人たちの存在を社会に指し示して、そして人々の良心に訴えかけていく、これも大切な役割だと思います。
私たちは、この共同体として何ができるのか、内向きに教会行事の話だけではなく、今、身の周りの日本の社会をよく見た時に、何か自分たちに出来ること、関わることが出来ることが必ずあるはずです。そういうところに目を向け、心のアンテナを拡げながら、そこにキリストを指し示す証の活動を、私たちはしていくように召されているということを、改めて考えていただきたいと思います。』

2020年1月13日月曜日

1月12日(日)主の洗礼

神の子であるキリストは、なぜわざわざ洗礼を受ける必要があったのでしょうか?


この日の森田神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の洗礼をもって公生活が始まります。イスラエルの人々にメシアが来たことが初めて知らされて、人々はメシアの到来を聖霊と洗礼者ヨハネの証によって知るようになります。ある人々は今日のところを疑問に思って「何故、わざわざイエス様は洗礼を受けられたのだろうか?」。洗礼者ヨハネが行っていたのが悔い改めの洗礼ですね。「イエス様は悔い改める必要も清められる必要もないのに、パフォーマンスだったのでしょうか?」というような意味ありの質問でした。昔からこのような質問があって、最近では言われませんが、伝統的に聖人たちやむかしの聖なる学者たちはこう考えていました。「イエス様は洗礼の水を清めるために洗礼を受けられた。」と言うことです。イエス様が清められるのではなくて、将来洗礼に使われるであろうすべての水を清めるつもりで洗礼を受けられたという解釈があって、けっこう教会の典礼の中では繰り返し言わているのです。聞いたことがあるかどうか分かりませんが、その答えを聞いて質問する人は納得していました。
  洗礼者ヨハネは自分こそ洗礼を受けるべきだと、これは本当に正しいことだったのですが、イエス様の答えは「正しいことをすべて行うのは我々に相応しいことです。」と、ちょっと不思議な答えでした。洗礼者ヨハネの考えこそ正しいのではないかということにイエス様は「正しいことすべてを行うのは相応しいことです。」とおっしゃいました。
 神様のおっしゃる正しさと私たちが言う正しさとはだいぶ違います。私たちの世界では正しさや 正義は人によって違うのです。正しさを主張しぶつかったり戦争したりします。対立した方からの正しさというものがあります。そして、日本人が主張する正しさと韓国人が主張する正しさは違って争う。トランプ大統領の言う正しさだけあって、アフリカの人が支援することもあるのです。私たちの世界では正しさというものが違って、それぞれに正しいと思っているのですが、それが争いを引き起こすことがおうおうにあります。
  イエス様がおっしゃる正しさは、洗礼を受ける必要がなかったのに、ある意味で自分自身は全人類の代表の方ですね。ここに罪をすべて押し込めて、十字架に磔にして人類の罪の赦しをもたらす。こういうおつもりがありました。ですから、こういう広い意義も含めた正しさであって、よくよく考えたら本当に素晴らしいことだと思います。正しさ、正義のみを見ていると、罪ある人間の罪を罰するのも正しさのひとつとなっています。
罪を罰し、良いことを褒める。報いを与える。これが一般的に言う正しさであり、法律の正しさであり、私たちみんなそれを正しいと思うのです。         
 しかし、神様の正しさは愛に満ちた正しさ。そして人間の犯したすべての罪を、裁くべきところですが、だからといってすべてチャラのしてしまうということもしない。正義が保たれなければ秩序が壊れていきます。そこで、御ひとり子を人としてお生まれさして、全人類の代表です。神の子であり、真のまったき人である。私たちと変わらない人となる。
そして彼がすべての罪を背負って十字架に架かってくださった。それによって罪の償いという人類の果たすべきことが、イエス様において果たされる。正義が満たされ、それによって神様は人類を自分の子、神の子として愛することができる。親となることができた。
  罰すべき正義の中に自らの自己犠牲というものが入って人類を愛した。これは神の正しさであって、私たちの考える超える正しさであって、私たちはこういう神様の正しさを学びながら、あるいは自分自身の身に置き換えながら、この世の中で神様の正しさというものを実現しなければ、今後それぞれの人が自分がもっとも正しい、これで良いだろう。善意で主張することによって争いが起こるのを止められなくなってしまう。
  もう一方、神様からの視点にたって、それぞれの正しさを満たすために、誰かが間に入り和解の使者、仲介をする使者、自己犠牲をする使者、主イエスに倣う使者によって和解がもたらされる。これが聖書の思想なのです。イエス様がご自分の身体によって敵対する者を和解させられた。そこをおっしゃっているわけです。

 そう言いますと今日の洗礼は、これから生け贄に捧げようとしている自分の身体をまず清める。そういう意味合いも入っているかもしれません。そしてイエス様は私たちが正しいと思うところをはるかに超えて、普通ならばメッセージを神の教えを天から響かせれば良かったのです。あるいは必要に応じて現れて神の教えを説けば良い。それでも十分だったと分かりませんが。しかし、イエス様は女性からお生まれになったのです。赤ちゃんの時から人であられた。そして、公生活の前、隠れた謎の30年間。漁師となり,漁師に育てられたり、いろいろな苦しい体験をしながら、そこから苦しみながらいろいろなことを悟っていく。成長していく、成熟していく。そういう私たちがたどる全く同じ人生を30年辿られていったのですね。神の子だからすべてを免除されて、すべてを始めから悟っていたわけでなくて、同じようにすべてにおいて私たちと同じであった。罪以外は。聖書が述べています.

  そのようにして私たちは、イエス様が私たちと辿った人生とまったく同じ経験をしてこられた。その中で苦しみを共にしてこらえながら神の国を実現されていったと、思うときに、凄い親しさを感じるわけです。私たちの人生もすべてが尊い。成人となった大人が尊いのみならず、イエス様が赤ちゃんとなり、幼児となり、そのすべての時代が尊く意味がある。祝福されたものになっています。イエス様の秘密の30年間の中に、本当に人間のすべてを祝福しよう。そういう意味があるのではないかと思います。
 そして、死刑囚になったのです。冤罪です。冤罪で死刑になっていった。冤罪となった人たちとまったく同じ立場になり、そして国家により死刑に宣告されてしまった。つまり、行政(司法)によって有罪にくだされた人になってしまった。十字架の上では「御父よ、何故私をお見捨てになったのですか。」と失望の叫びです。見捨てられたようなところまで享有してくださった。ですから自分は見捨てられたと思う人たちと同じ立場になられた。
そこまで降りていかれたと思います。
 お生まれになった時から貧しいところに生まれ、ヘロデ王から命を狙われて難民になっていったのです。そのように単に人間になったのみならず、そのもっとも社会の隅々、片隅のところにまで光が届く。冤罪の人にも、絶望する人にもイエス様の光が届いていく。
そういう意味があったのではないかと思うのです。
 そう考えた時に、イエス様のおっしゃる正しさというのは、本当に愛に満ちた正しさであって、私たちひとり一人が考えたり、主張したりする正しさを超えて、正しさの極致、
誠実と誠実が最高に至る姿勢という生き方をつらぬかれました。ですからイエス様の言葉というものは様々な思いやりと正義と愛に満たされた言葉が語られます。語る口調は素晴らしい口調。イエス様のまなざしも、すべてそういった思いに満たされたまなざしになっていく!その一挙手一投足、しぐさ、そういうものがすべて満たされた人になっていったと思われます。神様はそういうイエス様を見て、今まで旧約聖書でだれにもおっしゃったことのない天からの声を語られます。「これは私の愛する子。私の心に適うもの。」本当にそのような方だったのだと強く思います。

  今日は正しいことをすべて行う、正しいことの意味。洗礼者ヨハネの正しさを超えて、私たちが一般に考える正しさを超えて、愛のある正しさ。敵対する者を和解させる正しさ。罰せられるべき者が救われる者になれる行動する正しさ。そういうものであることを学びます。私たちも神様の正しさ、人となられた神様の正しさ。すべての人の隅々にまでいきわたる、常にご自身の人生をそれに捧げられた。そういう正しさから学んで、私たちも社会で、本当に正しさというものを追い求めたいと思います。』

2020年1月5日日曜日

1月5日(日)主の公現

今日のルカ神父様のお説教は、とても「ほっこり」する内容でした。


お説教の大要をご紹介します。

『北一条教会は、建物も教会らしく、また馬小屋も素晴らしいです。とてもうらやましい(笑)

今日の「主の公現」の祭日は、全ての人、全人類のために救い主である神が公に現れたことをお祝いする日です。

福音の「種」は、いろいろなところにあります。その中のひとつ、工藤直子さんという人が作った詩の一節を紹介します。
「ひなたぼっこ」  こねずみ しゅん という詩です。

「でっかい うちゅうの なかから
ちっぽけな こねずみ いっぴき
みつけだして
おでこから しっぽのさきまで
あたためて くれるのね
  ・・・・・・
おひさま
ぼく
どきどきするほど うれしい」

この作者の方は、キリスト教の信者かどうかはわかりませんが、この詩からは、神様の温かい愛、神様の愛は一人一人のひとに向けられている、ということが伝わってきます。

神様は、ちっぽけな僕を全宇宙のなかから見つけてくださる。ちっぽけな僕のことも忘れないでいてくださる。

今日の福音で、占星術の学者たちが見た「星」。それはただの夜空に輝く星の光ではなく、心を照らす信仰へと導く光でした。
ある信者さんから聞いたお話をご紹介します。
その信者さんのご家族は、おじいちゃん以外、みな信者でした。おじいちゃん以外の家族は食事の後、みなで夕べの祈りをするのが日課になっていました。ある日のこと、4歳の孫がいつものようにみなで夕べの祈りを捧げようとしていたところ、ひとりで新聞を読んでいたおじいちゃんのそばに来て、「じぃじ、お祈り!」と言ってきたそうです。
おじいちゃんは、その孫の一言をきっかけに、ある日のこと、近くの教会に立ち寄って洗礼志願者の勉強会に参加することにしたそうです。

今日の第2朗読「使徒パウロのエフェソの教会への手紙」では、「あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった・・・」とあります。
パウロがキリストの恵みを与えられたのは、「パウロ自身のため」ではなく、パウロをとおして「皆のために」ということです。

この一年、まだキリストを知らない人たちのために、私たちも神の温かさを伝えていくことができるように願って、歩んでいきましょう。』

2020年1月2日木曜日

1月1日(水)神の母聖マリア「世界平和の日」

明けましておめでとうございます。
新しい年が神の豊かな恵みに満ちた年でありますように。
午前10時から湯澤神父様の司式により元旦ミサが行われました。


また、ミサの中で一足先に新成人の祝福がありました。教会からお祝いをお贈りしました。おめでとうございます。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『8日たってとありますが、イエス様の御降誕から8日目のことです。この福音は、クリスマスの早朝のミサで読まれる箇所です。早朝のミサは行っているところが少なく、聴くことがないかもしれません。
 今日の福音で大事なところは「飼い葉桶に寝かせてある」ということがキーワードになっています。マリアとヨセフがベトレヘムに着いて、子供を生んで飼い葉桶に寝かせました。天使たちが羊飼いに現れて、その赤ちゃんがイスラエルの救いの徴、メシアの徴となったことを伝えています。そういうことから重要な言葉になっているのです。

  この話しにはひとつの背景があって、イザヤの預言です。イザヤは当時の人々の信仰を嘆くのです。動物だって自分の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルの人たちは自分の飼い葉桶を忘れてしまっている。しかし、ルカは今はそこを探し当てる時代になっている。それが喜びとなっているんだと書いているのです。
   
 救い主の到来の喜び。念頭に相応しい箇所であります。新しい年に向かう。キリストに出会うことができる。それは、象徴的なものは十字架、復活。でも福音書こそイエスに出会うことができる。パウロが言っている福音そのもの。
  私たちはこれを聴き、これを受け入れるとき、神にキリストに会うことができる。そういう素晴らしい時代が到来している。
  そのことは私たちの双肩にかかっている。そういう意味で新しい年を身を粉にして、方向性を見失わないように歩んでいきたいものです。』