今年のカルチャーナイトは、YouTubeによるオンライン開催となりました。
カトリック北一条教会も参加します!
開催期日は、7月17日(金)17:00 ~ 19日(日)24:00 まで
ぜひご覧ください。
YouTubeを開いて、「カルチャーナイト」で検索
「カルチャーナイト公式チャンネル」を開いて、「カトリック北一条教会」をクリックします。
動画は、2本公開しています。
リンクはこちら
2020年6月29日月曜日
2020年6月28日日曜日
年間第13主日
先週に引き続き松村神父様の司式で主日ミサ(C地区対象の分散ミサ)が行われました。
また、福音朗読は先週と同じく助祭候補者の桶田さんによりました。
しばらく休刊していました「かてどらるの鐘」が、広報部の皆さまのご尽力により3ヶ月ぶりに”復活”しました。教会ホールに置いてありますのでお引き取りにいらして下さい。巻頭言は松村神父様の「赴任の挨拶として」を掲載しています。
この日の松村神父様のメッセージをご紹介します。
『今日はキリストの弟子としての派遣について考えてみましょう。
朝家を出る時、親は「行ってらっしゃい」と声をかけ、子どもは「行ってきます」と応えます。当然学校に子どもは行くものと理解し、信じているからあえてそれ以上は聞きません。しかし学校から帰って来て再度出かける時には親は「行ってらっしゃい」と声をかける前に“何処に”“誰と”“何を”という疑問が沸き出ます。子どもは面倒なので直ぐに「行ってきます」と言って友達との遊びに出ていきたいのです。でも事故にあったら?何かあったら?と、親は不明瞭な外出にはすぐには賛同できません。責任の所在の可否の明確さが大事だからです。
ミサの最後に派遣の祝福があります。司祭は皆さんに「福音宣教に行ってらっしゃい」と声を掛けます。それはミサを通してキリストの弟子としての絶対的な信頼を皆さんに持ち、神の恵みが常にあると信じているから、行く先が“何処でも”“誰でも”“どのように”でも送り出します。何故なら責任の所在は神様にあるので、私たち司祭は自信をもって派遣します。もちろん派遣先は子どもの遊びと違って楽しいことばかりではありません。かえって大変な場所や状況の中の方が多いことでしょう。しかし神に希望をおく人には、必ず闇の中でさえ光が届くようにするのが派遣の本質でしょう。
聖書にも当時の初代教会には“預言者”のような人も“正しい人”も、“小さな人”もそれぞれがいたと書かれています。人によってその目的は違うし、対応も違うし、成果も違います。ですから皆が同じではないということです。でも結果がどうであれ、神様に聞き従い、教会共同体の一員としての体の一部ならば、一人一人の戦いには光が与えられ、尊い働きとなるのです。派遣とはどうやら戦場に、それぞれの力量と扱える範囲での武器を与えられ送り出す行為なのかもしれません。その武器は既に与えられている個性やタレントに備えられています。
このようなばらばらのキリストの軍隊ですが、心は一つ。派遣する方との一体の中で歩みます。隣と比べる人は愚かです。皆さんが競争するように派遣されているのではありません。幼子から高齢の方まで、派遣されているのですから小さな武器でも、その聖なる武器をしっかりと握りしめて小さな社会(家庭)・大きな社会(地球)に「行ってらっしゃい」。そしてまた戻ってきたらしっかりと休んで次に備えましょう。』
また、福音朗読は先週と同じく助祭候補者の桶田さんによりました。
しばらく休刊していました「かてどらるの鐘」が、広報部の皆さまのご尽力により3ヶ月ぶりに”復活”しました。教会ホールに置いてありますのでお引き取りにいらして下さい。巻頭言は松村神父様の「赴任の挨拶として」を掲載しています。
この日の松村神父様のメッセージをご紹介します。
『今日はキリストの弟子としての派遣について考えてみましょう。
朝家を出る時、親は「行ってらっしゃい」と声をかけ、子どもは「行ってきます」と応えます。当然学校に子どもは行くものと理解し、信じているからあえてそれ以上は聞きません。しかし学校から帰って来て再度出かける時には親は「行ってらっしゃい」と声をかける前に“何処に”“誰と”“何を”という疑問が沸き出ます。子どもは面倒なので直ぐに「行ってきます」と言って友達との遊びに出ていきたいのです。でも事故にあったら?何かあったら?と、親は不明瞭な外出にはすぐには賛同できません。責任の所在の可否の明確さが大事だからです。
ミサの最後に派遣の祝福があります。司祭は皆さんに「福音宣教に行ってらっしゃい」と声を掛けます。それはミサを通してキリストの弟子としての絶対的な信頼を皆さんに持ち、神の恵みが常にあると信じているから、行く先が“何処でも”“誰でも”“どのように”でも送り出します。何故なら責任の所在は神様にあるので、私たち司祭は自信をもって派遣します。もちろん派遣先は子どもの遊びと違って楽しいことばかりではありません。かえって大変な場所や状況の中の方が多いことでしょう。しかし神に希望をおく人には、必ず闇の中でさえ光が届くようにするのが派遣の本質でしょう。
聖書にも当時の初代教会には“預言者”のような人も“正しい人”も、“小さな人”もそれぞれがいたと書かれています。人によってその目的は違うし、対応も違うし、成果も違います。ですから皆が同じではないということです。でも結果がどうであれ、神様に聞き従い、教会共同体の一員としての体の一部ならば、一人一人の戦いには光が与えられ、尊い働きとなるのです。派遣とはどうやら戦場に、それぞれの力量と扱える範囲での武器を与えられ送り出す行為なのかもしれません。その武器は既に与えられている個性やタレントに備えられています。
このようなばらばらのキリストの軍隊ですが、心は一つ。派遣する方との一体の中で歩みます。隣と比べる人は愚かです。皆さんが競争するように派遣されているのではありません。幼子から高齢の方まで、派遣されているのですから小さな武器でも、その聖なる武器をしっかりと握りしめて小さな社会(家庭)・大きな社会(地球)に「行ってらっしゃい」。そしてまた戻ってきたらしっかりと休んで次に備えましょう。』
2020年6月21日日曜日
年間第12主日
分散形式による第2回目の主日ミサが松村神父様の司式で行われました。
湯澤神父様からのメッセージも併せてご紹介します。
この日のミサは、B地区所属の方が対象でした。約50名の参加でした。
福音朗読を読まれたのは、6月16日に「朗読奉仕者」に選任されたばかりの桶田達也さん(神学生:終身助祭候補者)でした。
この後の松村神父様のお説教で、桶田さんへの励ましの一言がありました。
松村神父様のお説教をご紹介します。
『今、桶田さんが突然、福音書を読みました。先週の火曜日、16日、司教と7人の司祭を囲んで、桶田さんは「朗読奉仕者」として選任されました。桶田さんはこれから3ヶ月経つと「祭壇奉仕者」、半年後に「終身助祭」、その道を歩んでいます。正式に選任されたということは、どこに行っても堂々と福音を語ることになっていきますので、皆さんの支えと協力、お祈りをお願いします。桶田さん、頑張ってください。
今日はマタイの福音書が語られます。マタイの福音書の10章の最初は何だったか。イエス様の12人の弟子の派遣です。まずひとり一人名前を連ねて派遣し、派遣をされたところに行くと大変だよと語るのです。いわゆる迫害が語られます。今日の聖書の箇所はその後なんです。その迫害の中でもしっかりと芯をもって生きなさい。その芯とは何かと言うと、神様です。これが今日の確信的な出来事です。
この流れを考えると、あるひとつを思いだします。今年はコロナウイルスであまり出来なかったのですが、卒業式という出来事。皆さんも体験や経験があります。生徒がひとり一人名前を呼ばれ、校長先生から賞状をいただいて修了の証を示される。そして、さあこの学校を羽ばたいて社会に出て行きなさい、あるいは次の進学に向かいなさいと派遣されます。その後、校長による訓話があります。この社会は大変な社会なんだ。その中でもこの学校で学んだことは、きっと役にたつよと話されます。どこの学校もこんな話しかしないですね。
これは聖書の話しも同じです。ここで学んだことは何だったのか。誰に聞き従ったら良いのか。これは私たちの心の中でしっかりと押さえておかないとぶれてしまいますよ、ということはあり得るのです。その時、私は子供のころを思いだしました。友達と悪さをしていたら、ある一人の友達がこんな悪いことをしたらいけないな。先生にばれるよ。そう言うのです。でも、もう一人の友達が、ばれるばれないの問題ではない。良くないことだと、しっかりと発信するのです。私たちは、ばれるばれないではなくて、しっかりと学んだこと、与えられたもの、そして善とか倫理、共通善、または愛するということに基づいて、裏であっても表であっても変わることなく、歩み続けることの確信を私たちは持たなければいけない。
今日のイエス様の語る言葉ですが、マタイ福音書だけに特徴的に出てくるのは「恐れてはならない。」という言葉と、「わたしが暗闇で」と言う言葉。それは、ルカ福音書にも同じ聖書の箇所があるのですが、そちらでは省かれています。つまり、恐れるというのが、何を恐れるのか。先生の目を恐れるのか、仲間外れを恐れるのか。いや、違う、恐れるのは良くないこと、さっき言った愛であり、隣人愛、共通善、倫理観。こういう目に見えないことであるけれど、私たちが生きていく上で、非常に大事にしているもの。みんなを幸せにするものを恐れなければいけない。これがマタイが言いたかったひとつの骨なのです。
もう一つは「わたしが暗闇で」ということ。この「わたし」という言葉。実はマタイだけに書かれています。それは誰が言ったのか。一般的な暗闇ではなく、イエス様が言った暗闇。具体的にどこからその良さが発信されているのか。そのスタートは、骨はイエス様にある。神様への信仰、神様が与えてくださった目に見えるシンボル、しるしとして、秘跡、イエス・キリスト、そして教会。(教会は)これは秘跡です。
このふたつの秘跡に基づいて、神様から与えられたその骨をしっかりと生きる。神様への信仰だけでは足りずに、イエスの言葉に耳を傾け、イエスが作った教会に私たちはしっかりと心を置きながら、つまり教会共同体です。集う共同体としても、一個人の信仰としても、そしてイエスの言葉としても、私たちはそっから出たものである倫理観、隣人愛、そして共通善というものを社会の中で、ぶれずに伝えていくことが出来ればと希望を持っている。出来ないことのほうが多いと思います。私たちはついつい流されてしまうし、誰かの強い声に負けてしまうことも多々ある。だから、迫害は必ずあるのです。その中で私たちは少しでも、一歩でもその良さに気づいて、自分だけでも良くなるんだという強い子供になることが出来ればと思います。
私たちは洗礼によってある意味、卒業式を迎えているのです。今日も、マタイ福音書
10章の段階で弟子たちは卒業しています。卒業の後は実践です。私たちも洗礼を受けた者として、コロナの中でなかなか集まれませんが、一人ひとりすでに卒業した者として、誇りと自信を持って、与えられたイエスのメッセージにしっかりと心をとりながら、その骨を生きていくことができるなら幸いと思います。 それぞれ離れていたとしても、私たちは繋がっているものは一緒なんです。だから遠く離れていても、違う場所にいても、人々が家にいても、コロナで寂しい思いをしていたとしても、私たちはいろいろなことが出来ます。そして、憂いることなく歩んで行くことが
出来る。そういう力を頂いている。だから、私たちはもっともっと誇りに思いながら、私たちに与えられた愛を証していくことが出来ればと思います。外に出て行って、まだ隣人愛を行えない現状が多い中で、身近な存在に対して、家族、兄弟に対して、または知人に対して、日々出会う近所の人に、小さなことから、私たちの小さな愛かもしれないが、それを実践出来るならば幸いに思います。
今日の福音はそういう意味でも、私たち一人ひとりに神様の骨が与えられている。これから皆さんとともに確信を持ってしっかりと生きていくことが出来るように、いっしょにお祈りしあっていきたいと思います。』
分散ミサに参加できない方へ向けて、湯澤神父様からメッセージをいただいています。ご紹介します。
『2020年6月21日 年間第12主日(マタイ、10章26~33節)
✚ Pax et Bonum
兄弟姉妹の皆様
今日の福音の場面は、『マタイ福音書』の第二の説教集、福音宣教に派遣される弟子たちへのイエス様の言葉です。イエス様は、使徒たちに語り掛けています。「人々を恐れてはならない」。何か唐突な感じがします。そこで、フランシスコ会訳の古い翻訳では、「だから」という言葉を補っていました。この前の個所では、イエス様は、宣教する際に、様々な困難や迫害があることを予告します。マタイは、彼の時代の宣教の困難も書き加えている可能性もあります。この個所は、前の個所を踏まえての言葉ですから、実際に「だから」がなくとも、前に続く言葉として捉えるとわかりやすいでしょう。
イエス様は、様々な困難や迫害が当然あるので、そうしたものを恐れてはならない、と言っています。それでは何を恐れるべきでしょうか。畏れるべきは、あなた方を派遣した父なる神なのだ、というのです。あなた方は、宣教の使命を帯びて、御父から派遣されている。畏れるべきことは、尊重すべきことは、御父の派遣の呼びかけなのです。私たちは、御父の派遣に誠実に応えているだろうか、そう振り返るべきだと述べています。
私たちは、自らを振り返って見ましょう。私たちはそれぞれ、堅信の秘跡を通して、福音を告げる使命も帯びています。それは、御父が御子を福音宣教へと派遣し、御子が聖霊を与えることを通して、弟子たちに託された使命です。そこで求められているのは、その召命、その派遣に対する忠実さです。
しかし、私たちの現実を見る時、私たちは、あまり誠実ではないかもしれません。宣教するほどの能力もなく、知識もない。機会もない。まず、勇気も気力もない。考えれば考えるほどあらゆるものに欠けています。とても福音を告げるなどと、気後れしてしまうのが現実です。それだけではなく、こうした宣教は、宣教師たちや神父さんたち、修道者たちがすることで、一般の信徒のすることではないという雰囲気を教会は作ってきました。第二バチカン公会議では、信徒にも宣教の使命があると示しました。そこで、間違ったことを教えないために、要理担当者を養成するということが興りました。しかし、誰の信仰であれ、神様を信じる信仰に間違いはありません。それを伝えるのです。
ではどうしたらよいのでしょうか。一つのヒントがあります。それは、アッシジの聖フランシスコの言葉です。要約すると、第一に、「口論などせずに、すべての人に従い、キリスト者であることを表すこと」、つまり、自分の生活している場で、キリスト者として生活することです。第二に、「主の御心に適うなら、福音を告げて、キリスト者になるよう勧めること」です。つまり、必要な場合、信じている信仰を伝えることです。
イエス様の言葉を、宣教する使命を帯びている私たち一人ひとりを鼓舞する言葉と理解し、もう一度最初から見直し、味わってみてはいかがでしょうか。 湯澤民夫』
湯澤神父様からのメッセージも併せてご紹介します。
この日のミサは、B地区所属の方が対象でした。約50名の参加でした。
福音朗読を読まれたのは、6月16日に「朗読奉仕者」に選任されたばかりの桶田達也さん(神学生:終身助祭候補者)でした。
この後の松村神父様のお説教で、桶田さんへの励ましの一言がありました。
松村神父様のお説教をご紹介します。
『今、桶田さんが突然、福音書を読みました。先週の火曜日、16日、司教と7人の司祭を囲んで、桶田さんは「朗読奉仕者」として選任されました。桶田さんはこれから3ヶ月経つと「祭壇奉仕者」、半年後に「終身助祭」、その道を歩んでいます。正式に選任されたということは、どこに行っても堂々と福音を語ることになっていきますので、皆さんの支えと協力、お祈りをお願いします。桶田さん、頑張ってください。
今日はマタイの福音書が語られます。マタイの福音書の10章の最初は何だったか。イエス様の12人の弟子の派遣です。まずひとり一人名前を連ねて派遣し、派遣をされたところに行くと大変だよと語るのです。いわゆる迫害が語られます。今日の聖書の箇所はその後なんです。その迫害の中でもしっかりと芯をもって生きなさい。その芯とは何かと言うと、神様です。これが今日の確信的な出来事です。
この流れを考えると、あるひとつを思いだします。今年はコロナウイルスであまり出来なかったのですが、卒業式という出来事。皆さんも体験や経験があります。生徒がひとり一人名前を呼ばれ、校長先生から賞状をいただいて修了の証を示される。そして、さあこの学校を羽ばたいて社会に出て行きなさい、あるいは次の進学に向かいなさいと派遣されます。その後、校長による訓話があります。この社会は大変な社会なんだ。その中でもこの学校で学んだことは、きっと役にたつよと話されます。どこの学校もこんな話しかしないですね。
これは聖書の話しも同じです。ここで学んだことは何だったのか。誰に聞き従ったら良いのか。これは私たちの心の中でしっかりと押さえておかないとぶれてしまいますよ、ということはあり得るのです。その時、私は子供のころを思いだしました。友達と悪さをしていたら、ある一人の友達がこんな悪いことをしたらいけないな。先生にばれるよ。そう言うのです。でも、もう一人の友達が、ばれるばれないの問題ではない。良くないことだと、しっかりと発信するのです。私たちは、ばれるばれないではなくて、しっかりと学んだこと、与えられたもの、そして善とか倫理、共通善、または愛するということに基づいて、裏であっても表であっても変わることなく、歩み続けることの確信を私たちは持たなければいけない。
今日のイエス様の語る言葉ですが、マタイ福音書だけに特徴的に出てくるのは「恐れてはならない。」という言葉と、「わたしが暗闇で」と言う言葉。それは、ルカ福音書にも同じ聖書の箇所があるのですが、そちらでは省かれています。つまり、恐れるというのが、何を恐れるのか。先生の目を恐れるのか、仲間外れを恐れるのか。いや、違う、恐れるのは良くないこと、さっき言った愛であり、隣人愛、共通善、倫理観。こういう目に見えないことであるけれど、私たちが生きていく上で、非常に大事にしているもの。みんなを幸せにするものを恐れなければいけない。これがマタイが言いたかったひとつの骨なのです。
もう一つは「わたしが暗闇で」ということ。この「わたし」という言葉。実はマタイだけに書かれています。それは誰が言ったのか。一般的な暗闇ではなく、イエス様が言った暗闇。具体的にどこからその良さが発信されているのか。そのスタートは、骨はイエス様にある。神様への信仰、神様が与えてくださった目に見えるシンボル、しるしとして、秘跡、イエス・キリスト、そして教会。(教会は)これは秘跡です。
このふたつの秘跡に基づいて、神様から与えられたその骨をしっかりと生きる。神様への信仰だけでは足りずに、イエスの言葉に耳を傾け、イエスが作った教会に私たちはしっかりと心を置きながら、つまり教会共同体です。集う共同体としても、一個人の信仰としても、そしてイエスの言葉としても、私たちはそっから出たものである倫理観、隣人愛、そして共通善というものを社会の中で、ぶれずに伝えていくことが出来ればと希望を持っている。出来ないことのほうが多いと思います。私たちはついつい流されてしまうし、誰かの強い声に負けてしまうことも多々ある。だから、迫害は必ずあるのです。その中で私たちは少しでも、一歩でもその良さに気づいて、自分だけでも良くなるんだという強い子供になることが出来ればと思います。
私たちは洗礼によってある意味、卒業式を迎えているのです。今日も、マタイ福音書
10章の段階で弟子たちは卒業しています。卒業の後は実践です。私たちも洗礼を受けた者として、コロナの中でなかなか集まれませんが、一人ひとりすでに卒業した者として、誇りと自信を持って、与えられたイエスのメッセージにしっかりと心をとりながら、その骨を生きていくことができるなら幸いと思います。 それぞれ離れていたとしても、私たちは繋がっているものは一緒なんです。だから遠く離れていても、違う場所にいても、人々が家にいても、コロナで寂しい思いをしていたとしても、私たちはいろいろなことが出来ます。そして、憂いることなく歩んで行くことが
出来る。そういう力を頂いている。だから、私たちはもっともっと誇りに思いながら、私たちに与えられた愛を証していくことが出来ればと思います。外に出て行って、まだ隣人愛を行えない現状が多い中で、身近な存在に対して、家族、兄弟に対して、または知人に対して、日々出会う近所の人に、小さなことから、私たちの小さな愛かもしれないが、それを実践出来るならば幸いに思います。
今日の福音はそういう意味でも、私たち一人ひとりに神様の骨が与えられている。これから皆さんとともに確信を持ってしっかりと生きていくことが出来るように、いっしょにお祈りしあっていきたいと思います。』
分散ミサに参加できない方へ向けて、湯澤神父様からメッセージをいただいています。ご紹介します。
『2020年6月21日 年間第12主日(マタイ、10章26~33節)
✚ Pax et Bonum
兄弟姉妹の皆様
今日の福音の場面は、『マタイ福音書』の第二の説教集、福音宣教に派遣される弟子たちへのイエス様の言葉です。イエス様は、使徒たちに語り掛けています。「人々を恐れてはならない」。何か唐突な感じがします。そこで、フランシスコ会訳の古い翻訳では、「だから」という言葉を補っていました。この前の個所では、イエス様は、宣教する際に、様々な困難や迫害があることを予告します。マタイは、彼の時代の宣教の困難も書き加えている可能性もあります。この個所は、前の個所を踏まえての言葉ですから、実際に「だから」がなくとも、前に続く言葉として捉えるとわかりやすいでしょう。
イエス様は、様々な困難や迫害が当然あるので、そうしたものを恐れてはならない、と言っています。それでは何を恐れるべきでしょうか。畏れるべきは、あなた方を派遣した父なる神なのだ、というのです。あなた方は、宣教の使命を帯びて、御父から派遣されている。畏れるべきことは、尊重すべきことは、御父の派遣の呼びかけなのです。私たちは、御父の派遣に誠実に応えているだろうか、そう振り返るべきだと述べています。
私たちは、自らを振り返って見ましょう。私たちはそれぞれ、堅信の秘跡を通して、福音を告げる使命も帯びています。それは、御父が御子を福音宣教へと派遣し、御子が聖霊を与えることを通して、弟子たちに託された使命です。そこで求められているのは、その召命、その派遣に対する忠実さです。
しかし、私たちの現実を見る時、私たちは、あまり誠実ではないかもしれません。宣教するほどの能力もなく、知識もない。機会もない。まず、勇気も気力もない。考えれば考えるほどあらゆるものに欠けています。とても福音を告げるなどと、気後れしてしまうのが現実です。それだけではなく、こうした宣教は、宣教師たちや神父さんたち、修道者たちがすることで、一般の信徒のすることではないという雰囲気を教会は作ってきました。第二バチカン公会議では、信徒にも宣教の使命があると示しました。そこで、間違ったことを教えないために、要理担当者を養成するということが興りました。しかし、誰の信仰であれ、神様を信じる信仰に間違いはありません。それを伝えるのです。
ではどうしたらよいのでしょうか。一つのヒントがあります。それは、アッシジの聖フランシスコの言葉です。要約すると、第一に、「口論などせずに、すべての人に従い、キリスト者であることを表すこと」、つまり、自分の生活している場で、キリスト者として生活することです。第二に、「主の御心に適うなら、福音を告げて、キリスト者になるよう勧めること」です。つまり、必要な場合、信じている信仰を伝えることです。
イエス様の言葉を、宣教する使命を帯びている私たち一人ひとりを鼓舞する言葉と理解し、もう一度最初から見直し、味わってみてはいかがでしょうか。 湯澤民夫』
2020年6月14日日曜日
キリストの聖体(祭)
今日から人数制限(50名)を設けての公開ミサが始まりました。
主日ミサの公開は約3ヶ月ぶりになります。
とは言っても、感染が終息していない状況ですので、参加に当たりましては引き続き予防対策の遵守をお願い致します。
【ミサ参加に当たってのお願い】
この日のミサは、森田神父様の司式により行われました。
森田神父様のお説教
『ヨハネ6章ではイエスがご自分の体を食物として私たちに与える箇所が読まれています。イエスが救い主として神のみ言葉を語ってくださるだけでもありがたいのに、また私たちと同じように人となり、辛苦を共にしてくださるだけでもありがたいのに、その上、ご自分の体までも与えようとしてくださいます。
「私は天から降ったパンである」とはいろいろな解釈があり、ユダヤ人たちは「みことばを食べる」という考え方を知っていました。だからイエスが「パン」と言ったり、これを「食べる」というとき、ユダヤ人たちはイエスのみ言葉を聞いて行うことのことだろうか、と考えたでしょう。
しかしイエス様が言いたいことをはっきりさせるために「からだ」ではなく「肉」という言葉を使ったとき、イエスがご自分の肉を食べさせることを言っているのだと解釈せざるをえませんでした。「どうしてこの人は自分の肉を食べさせることができよう」。「実にひどい話だ」(60節)。
たしかに、実にひどい話という感情も理解できます。私たちもご聖体のことを知らなければ、イエスの言葉を聞いてびっくりしたことでしょう。
しかしミサで聖体をいただいているカトリック信者は、最後の晩餐でイエスがパンを取り、これを聖変化させてご自分の肉として食するようにお与えになったと知ります。生々しい肉片をいただくのではなく、パンの形態でいただきます。それは単なる肉ではなく、ご霊魂も神性も、つまりイエスの全体が実存しているもので、私たちの想像も知性も超える恵みです。
「ひどい話」は実は驚くほどの神の恵みでした。信じがたい信仰は、信じがたいほどの様々な恵みを私たちにくださった神の愛の大きさの信じがたさを表わしています。
神が人となられることも、その神が人々の罪を背負って人々に呪われながら死んでいくことも、神の子の肉を人々が食べることも、どれも信じがたく、私たちが想像もできなかったし、これを言葉にすれば神への冒涜になるようなことです。
そのような事柄を神が自ら計画し、私たちに与えてくださいました。あまりにも大きなことをなさったので、私たちは理解できずにきょとんとします。ある人々は信じがたいと言い、ある人々は「実にひどい話だ」と言います。
それほどの恵みを神からいただいたことを、改めて思い巡らしたいと思います。
冷え切った世の中に暮らしながら私たちの心も冷えてしまい、愛することも赦すことも信じることも難しくなっていきます。しかしそんな社会にもイエスは見える形でご自身を私たちに与え、食べさせ、私たちと共にいてくださいます。私たちは愛する力をえます。赦したり信じたりする力をえます。このようにして世の中にぬくもりが残り続けます。
「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」』
主日ミサの公開は約3ヶ月ぶりになります。
とは言っても、感染が終息していない状況ですので、参加に当たりましては引き続き予防対策の遵守をお願い致します。
【ミサ参加に当たってのお願い】
- 聖堂内は、50名の入堂制限を設けています。誠に恐れ入りますが当面の間、他教会の方、対象地区以外の方の参加はご遠慮いただいております。
- 体調のすぐれない方は、参加をお控えください。
- 司祭も信徒も全員マスクを着用していただきます。
- ホールでは手指の殺菌を行ってください。
- 参加者には、名前と電話番号を記入した用紙を提出いただきます。
- ミサ中は、司祭、先唱者、答唱者、朗読者以外の方は、声を出さない(心の中で唱える)ようにお願いしています。
- 奉納は行いません。
- 聖体拝領時は2m以上の間隔を空けて並んでもらいます。
- 聖体は「アーメン」と心の中で唱えて拝領して下さい。
この日のミサは、森田神父様の司式により行われました。
森田神父様のお説教
『ヨハネ6章ではイエスがご自分の体を食物として私たちに与える箇所が読まれています。イエスが救い主として神のみ言葉を語ってくださるだけでもありがたいのに、また私たちと同じように人となり、辛苦を共にしてくださるだけでもありがたいのに、その上、ご自分の体までも与えようとしてくださいます。
「私は天から降ったパンである」とはいろいろな解釈があり、ユダヤ人たちは「みことばを食べる」という考え方を知っていました。だからイエスが「パン」と言ったり、これを「食べる」というとき、ユダヤ人たちはイエスのみ言葉を聞いて行うことのことだろうか、と考えたでしょう。
しかしイエス様が言いたいことをはっきりさせるために「からだ」ではなく「肉」という言葉を使ったとき、イエスがご自分の肉を食べさせることを言っているのだと解釈せざるをえませんでした。「どうしてこの人は自分の肉を食べさせることができよう」。「実にひどい話だ」(60節)。
たしかに、実にひどい話という感情も理解できます。私たちもご聖体のことを知らなければ、イエスの言葉を聞いてびっくりしたことでしょう。
しかしミサで聖体をいただいているカトリック信者は、最後の晩餐でイエスがパンを取り、これを聖変化させてご自分の肉として食するようにお与えになったと知ります。生々しい肉片をいただくのではなく、パンの形態でいただきます。それは単なる肉ではなく、ご霊魂も神性も、つまりイエスの全体が実存しているもので、私たちの想像も知性も超える恵みです。
「ひどい話」は実は驚くほどの神の恵みでした。信じがたい信仰は、信じがたいほどの様々な恵みを私たちにくださった神の愛の大きさの信じがたさを表わしています。
神が人となられることも、その神が人々の罪を背負って人々に呪われながら死んでいくことも、神の子の肉を人々が食べることも、どれも信じがたく、私たちが想像もできなかったし、これを言葉にすれば神への冒涜になるようなことです。
そのような事柄を神が自ら計画し、私たちに与えてくださいました。あまりにも大きなことをなさったので、私たちは理解できずにきょとんとします。ある人々は信じがたいと言い、ある人々は「実にひどい話だ」と言います。
それほどの恵みを神からいただいたことを、改めて思い巡らしたいと思います。
冷え切った世の中に暮らしながら私たちの心も冷えてしまい、愛することも赦すことも信じることも難しくなっていきます。しかしそんな社会にもイエスは見える形でご自身を私たちに与え、食べさせ、私たちと共にいてくださいます。私たちは愛する力をえます。赦したり信じたりする力をえます。このようにして世の中にぬくもりが残り続けます。
「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」』
2020年6月6日土曜日
6月7日(日)三位一体の主日(祭)
「三位一体の主日」を迎えるにあたり、場崎神父様から、メッセージをいただきました。
聖書朗読と併せご紹介します。
【場崎神父様 メッセージ】
三位一体の主日(祭日)(2020年6月7日)
場﨑 洋 神父
新型コロナウイルス感染防止のために私たちは社会的距離をとりながら日々自粛生活を余儀なくされて過ごしています。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(ヨハネ16・16)。わたしたちは新しい生活習慣を迎えながら試練の時を生きています。人類の歴史が産業革命より大きく変革し、科学と技術の発展と共に二つの大戦を引き起こしてしまいました。そして今、コロナ危機を迎えて、新しい世界の到来を垣間見ながら生きています。その到来はまさに今このときですが、私たちは人類の歴史の連動性のなかを歩んでいます。身体の変化があっても「私」という意識は絶えず私の内にあります。でも「私」は絶え間なく変化し続けています。10年前の「私」と、今の「私」には絶えず連続性があります。さかのぼれば子供の頃のあの時の「私」からつながりがあるという意味で同一性は維持されています。どんな人でも、誰からも影響を受けないで決して変わらないという人はいないでしょう。それではわたしたちは今ここに生きていることになるのです。
世界環境は知らぬまま人類に搾取されるあまり、大きなしっぺ返しを受けています。これを心のイノベーション(新しい創造)によって乗り越えていくことは容易なことではありません。今、起こっているコロナのパンデミックの中に生きて、時間の経過と共に経済の危機、日常の危機は大きくなっていっていることを身に染みて感じています。私たちの生き方を見つめ直し、生活スタイルから変えていかなくてはなりません。そうしないと次から次へと難民化したウイルスが私たちに「引っ越し」してくる可能性があります。生態系の搾取から宿主する場所を失った難民ウイルスが人間社会と共に生きたいと世界をさまよい続けているのです。私たちはそれに備えないといけないのです。
新型コロナウイルスの感染拡大で何か気がついたことがあるでしょうか?
過去の疫病もそうでしたが、社会そのものが大きく変えられていきました。中世ヨーロッパにおいてペストが蔓延したときは、権威ある皇帝も王も教会もまったく無力状態となりました。
ですから当時「死を覚えよ」「死の舞」「死の勝利」という言葉が流行しました。
ひとつの疫病で善人も悪人も、権力者も、金持ちも、貧乏人も死んでいったのです。
すると新型コロナは生き残っている人類が共に手を携えて真の平和のために立ち上がらなければならないことを教えています。聖霊の到来はこの試練のなかで生まれつつあります。ミサがなくても、人と出会えないことがあっても、生きづらさがあっても、わたしたちは自分たちだけの救いではなく、すべての人々の救いのために祈りと犠牲を捧げて行動しなくてはなりません。それは私たちにとってイエス・キリストの死と復活を証ししていくことになります。日々、自分のいのちを取って、捧げて、感謝して、裂くことです。そして与えていくことです。神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるかたです(マタイ5・45)。人と人との関係性のなかで現存している聖なる霊に耳を傾けましょう。新しい見方によって訪れる真のイエスを迎え入れましょう。聖霊はすでに注がれています。ただ私たちが気づかない生活を送っているだけなのです。
「わたし(イエス)は戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って、その者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示3・20)。元の生活に戻るのではありません。新しい扉をひらくのです。あなたのもとに訪れる主はいつも新しいいのちを運んでくださっているからです。
【聖書朗読箇所】
聖なる父よ、
あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、
神のいのちの神秘を示してくださいました。
唯一の神を礼拝する私たちが、
三位の栄光をたたえることができますように。
集会祈願より
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第1朗読 出エジプト記 34章4b~6、8~9節
モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、
主が命じられたとおりシナイ山に登った。
手には二枚の石の板を携えていた。
主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。
主は彼の前を通り過ぎて宣言された。
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち(た者)。」
モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、
言った。
「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、
主よ、わたしたちの中にあって進んでください。
確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、
わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」
第2朗読 コリントの信徒への手紙2 13章11~13節
終わりに、兄弟たち、喜びなさい。
完全な者になりなさい。
励まし合いなさい。
思いを一つにしなさい。
平和を保ちなさい。
そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。
すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、
あなたがた一同と共にあるように。
福音朗読 ヨハネによる福音書 3章16~18節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。
信じない者は既に裁かれている。
神の独り子の名を信じていないからである。
聖書朗読と併せご紹介します。
【場崎神父様 メッセージ】
三位一体の主日(祭日)(2020年6月7日)
場﨑 洋 神父
新型コロナウイルス感染防止のために私たちは社会的距離をとりながら日々自粛生活を余儀なくされて過ごしています。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(ヨハネ16・16)。わたしたちは新しい生活習慣を迎えながら試練の時を生きています。人類の歴史が産業革命より大きく変革し、科学と技術の発展と共に二つの大戦を引き起こしてしまいました。そして今、コロナ危機を迎えて、新しい世界の到来を垣間見ながら生きています。その到来はまさに今このときですが、私たちは人類の歴史の連動性のなかを歩んでいます。身体の変化があっても「私」という意識は絶えず私の内にあります。でも「私」は絶え間なく変化し続けています。10年前の「私」と、今の「私」には絶えず連続性があります。さかのぼれば子供の頃のあの時の「私」からつながりがあるという意味で同一性は維持されています。どんな人でも、誰からも影響を受けないで決して変わらないという人はいないでしょう。それではわたしたちは今ここに生きていることになるのです。
世界環境は知らぬまま人類に搾取されるあまり、大きなしっぺ返しを受けています。これを心のイノベーション(新しい創造)によって乗り越えていくことは容易なことではありません。今、起こっているコロナのパンデミックの中に生きて、時間の経過と共に経済の危機、日常の危機は大きくなっていっていることを身に染みて感じています。私たちの生き方を見つめ直し、生活スタイルから変えていかなくてはなりません。そうしないと次から次へと難民化したウイルスが私たちに「引っ越し」してくる可能性があります。生態系の搾取から宿主する場所を失った難民ウイルスが人間社会と共に生きたいと世界をさまよい続けているのです。私たちはそれに備えないといけないのです。
新型コロナウイルスの感染拡大で何か気がついたことがあるでしょうか?
過去の疫病もそうでしたが、社会そのものが大きく変えられていきました。中世ヨーロッパにおいてペストが蔓延したときは、権威ある皇帝も王も教会もまったく無力状態となりました。
ですから当時「死を覚えよ」「死の舞」「死の勝利」という言葉が流行しました。
ひとつの疫病で善人も悪人も、権力者も、金持ちも、貧乏人も死んでいったのです。
すると新型コロナは生き残っている人類が共に手を携えて真の平和のために立ち上がらなければならないことを教えています。聖霊の到来はこの試練のなかで生まれつつあります。ミサがなくても、人と出会えないことがあっても、生きづらさがあっても、わたしたちは自分たちだけの救いではなく、すべての人々の救いのために祈りと犠牲を捧げて行動しなくてはなりません。それは私たちにとってイエス・キリストの死と復活を証ししていくことになります。日々、自分のいのちを取って、捧げて、感謝して、裂くことです。そして与えていくことです。神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるかたです(マタイ5・45)。人と人との関係性のなかで現存している聖なる霊に耳を傾けましょう。新しい見方によって訪れる真のイエスを迎え入れましょう。聖霊はすでに注がれています。ただ私たちが気づかない生活を送っているだけなのです。
「わたし(イエス)は戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って、その者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示3・20)。元の生活に戻るのではありません。新しい扉をひらくのです。あなたのもとに訪れる主はいつも新しいいのちを運んでくださっているからです。
【聖書朗読箇所】
聖なる父よ、
あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、
神のいのちの神秘を示してくださいました。
唯一の神を礼拝する私たちが、
三位の栄光をたたえることができますように。
集会祈願より
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第1朗読 出エジプト記 34章4b~6、8~9節
モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、
主が命じられたとおりシナイ山に登った。
手には二枚の石の板を携えていた。
主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。
主は彼の前を通り過ぎて宣言された。
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち(た者)。」
モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、
言った。
「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、
主よ、わたしたちの中にあって進んでください。
確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、
わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」
第2朗読 コリントの信徒への手紙2 13章11~13節
終わりに、兄弟たち、喜びなさい。
完全な者になりなさい。
励まし合いなさい。
思いを一つにしなさい。
平和を保ちなさい。
そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。
すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、
あなたがた一同と共にあるように。
福音朗読 ヨハネによる福音書 3章16~18節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。
信じない者は既に裁かれている。
神の独り子の名を信じていないからである。
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