2020年6月21日日曜日

年間第12主日

分散形式による第2回目の主日ミサが松村神父様の司式で行われました。
湯澤神父様からのメッセージも併せてご紹介します。

この日のミサは、B地区所属の方が対象でした。約50名の参加でした。

福音朗読を読まれたのは、6月16日に「朗読奉仕者」に選任されたばかりの桶田達也さん(神学生:終身助祭候補者)でした。
この後の松村神父様のお説教で、桶田さんへの励ましの一言がありました。


松村神父様のお説教をご紹介します。


『今、桶田さんが突然、福音書を読みました。先週の火曜日、16日、司教と7人の司祭を囲んで、桶田さんは「朗読奉仕者」として選任されました。桶田さんはこれから3ヶ月経つと「祭壇奉仕者」、半年後に「終身助祭」、その道を歩んでいます。正式に選任されたということは、どこに行っても堂々と福音を語ることになっていきますので、皆さんの支えと協力、お祈りをお願いします。桶田さん、頑張ってください。

 今日はマタイの福音書が語られます。マタイの福音書の10章の最初は何だったか。イエス様の12人の弟子の派遣です。まずひとり一人名前を連ねて派遣し、派遣をされたところに行くと大変だよと語るのです。いわゆる迫害が語られます。今日の聖書の箇所はその後なんです。その迫害の中でもしっかりと芯をもって生きなさい。その芯とは何かと言うと、神様です。これが今日の確信的な出来事です。

 この流れを考えると、あるひとつを思いだします。今年はコロナウイルスであまり出来なかったのですが、卒業式という出来事。皆さんも体験や経験があります。生徒がひとり一人名前を呼ばれ、校長先生から賞状をいただいて修了の証を示される。そして、さあこの学校を羽ばたいて社会に出て行きなさい、あるいは次の進学に向かいなさいと派遣されます。その後、校長による訓話があります。この社会は大変な社会なんだ。その中でもこの学校で学んだことは、きっと役にたつよと話されます。どこの学校もこんな話しかしないですね。
 これは聖書の話しも同じです。ここで学んだことは何だったのか。誰に聞き従ったら良いのか。これは私たちの心の中でしっかりと押さえておかないとぶれてしまいますよ、ということはあり得るのです。その時、私は子供のころを思いだしました。友達と悪さをしていたら、ある一人の友達がこんな悪いことをしたらいけないな。先生にばれるよ。そう言うのです。でも、もう一人の友達が、ばれるばれないの問題ではない。良くないことだと、しっかりと発信するのです。私たちは、ばれるばれないではなくて、しっかりと学んだこと、与えられたもの、そして善とか倫理、共通善、または愛するということに基づいて、裏であっても表であっても変わることなく、歩み続けることの確信を私たちは持たなければいけない。

   今日のイエス様の語る言葉ですが、マタイ福音書だけに特徴的に出てくるのは「恐れてはならない。」という言葉と、「わたしが暗闇で」と言う言葉。それは、ルカ福音書にも同じ聖書の箇所があるのですが、そちらでは省かれています。つまり、恐れるというのが、何を恐れるのか。先生の目を恐れるのか、仲間外れを恐れるのか。いや、違う、恐れるのは良くないこと、さっき言った愛であり、隣人愛、共通善、倫理観。こういう目に見えないことであるけれど、私たちが生きていく上で、非常に大事にしているもの。みんなを幸せにするものを恐れなければいけない。これがマタイが言いたかったひとつの骨なのです。
  もう一つは「わたしが暗闇で」ということ。この「わたし」という言葉。実はマタイだけに書かれています。それは誰が言ったのか。一般的な暗闇ではなく、イエス様が言った暗闇。具体的にどこからその良さが発信されているのか。そのスタートは、骨はイエス様にある。神様への信仰、神様が与えてくださった目に見えるシンボル、しるしとして、秘跡、イエス・キリスト、そして教会。(教会は)これは秘跡です。
 このふたつの秘跡に基づいて、神様から与えられたその骨をしっかりと生きる。神様への信仰だけでは足りずに、イエスの言葉に耳を傾け、イエスが作った教会に私たちはしっかりと心を置きながら、つまり教会共同体です。集う共同体としても、一個人の信仰としても、そしてイエスの言葉としても、私たちはそっから出たものである倫理観、隣人愛、そして共通善というものを社会の中で、ぶれずに伝えていくことが出来ればと希望を持っている。出来ないことのほうが多いと思います。私たちはついつい流されてしまうし、誰かの強い声に負けてしまうことも多々ある。だから、迫害は必ずあるのです。その中で私たちは少しでも、一歩でもその良さに気づいて、自分だけでも良くなるんだという強い子供になることが出来ればと思います。

 私たちは洗礼によってある意味、卒業式を迎えているのです。今日も、マタイ福音書
10章の段階で弟子たちは卒業しています。卒業の後は実践です。私たちも洗礼を受けた者として、コロナの中でなかなか集まれませんが、一人ひとりすでに卒業した者として、誇りと自信を持って、与えられたイエスのメッセージにしっかりと心をとりながら、その骨を生きていくことができるなら幸いと思います。  それぞれ離れていたとしても、私たちは繋がっているものは一緒なんです。だから遠く離れていても、違う場所にいても、人々が家にいても、コロナで寂しい思いをしていたとしても、私たちはいろいろなことが出来ます。そして、憂いることなく歩んで行くことが
出来る。そういう力を頂いている。だから、私たちはもっともっと誇りに思いながら、私たちに与えられた愛を証していくことが出来ればと思います。外に出て行って、まだ隣人愛を行えない現状が多い中で、身近な存在に対して、家族、兄弟に対して、または知人に対して、日々出会う近所の人に、小さなことから、私たちの小さな愛かもしれないが、それを実践出来るならば幸いに思います。
 今日の福音はそういう意味でも、私たち一人ひとりに神様の骨が与えられている。これから皆さんとともに確信を持ってしっかりと生きていくことが出来るように、いっしょにお祈りしあっていきたいと思います。』


分散ミサに参加できない方へ向けて、湯澤神父様からメッセージをいただいています。ご紹介します。

『2020年6月21日 年間第12主日(マタイ、10章26~33節)
✚ Pax et Bonum
兄弟姉妹の皆様
  今日の福音の場面は、『マタイ福音書』の第二の説教集、福音宣教に派遣される弟子たちへのイエス様の言葉です。イエス様は、使徒たちに語り掛けています。「人々を恐れてはならない」。何か唐突な感じがします。そこで、フランシスコ会訳の古い翻訳では、「だから」という言葉を補っていました。この前の個所では、イエス様は、宣教する際に、様々な困難や迫害があることを予告します。マタイは、彼の時代の宣教の困難も書き加えている可能性もあります。この個所は、前の個所を踏まえての言葉ですから、実際に「だから」がなくとも、前に続く言葉として捉えるとわかりやすいでしょう。

イエス様は、様々な困難や迫害が当然あるので、そうしたものを恐れてはならない、と言っています。それでは何を恐れるべきでしょうか。畏れるべきは、あなた方を派遣した父なる神なのだ、というのです。あなた方は、宣教の使命を帯びて、御父から派遣されている。畏れるべきことは、尊重すべきことは、御父の派遣の呼びかけなのです。私たちは、御父の派遣に誠実に応えているだろうか、そう振り返るべきだと述べています。

  私たちは、自らを振り返って見ましょう。私たちはそれぞれ、堅信の秘跡を通して、福音を告げる使命も帯びています。それは、御父が御子を福音宣教へと派遣し、御子が聖霊を与えることを通して、弟子たちに託された使命です。そこで求められているのは、その召命、その派遣に対する忠実さです。

しかし、私たちの現実を見る時、私たちは、あまり誠実ではないかもしれません。宣教するほどの能力もなく、知識もない。機会もない。まず、勇気も気力もない。考えれば考えるほどあらゆるものに欠けています。とても福音を告げるなどと、気後れしてしまうのが現実です。それだけではなく、こうした宣教は、宣教師たちや神父さんたち、修道者たちがすることで、一般の信徒のすることではないという雰囲気を教会は作ってきました。第二バチカン公会議では、信徒にも宣教の使命があると示しました。そこで、間違ったことを教えないために、要理担当者を養成するということが興りました。しかし、誰の信仰であれ、神様を信じる信仰に間違いはありません。それを伝えるのです。

  ではどうしたらよいのでしょうか。一つのヒントがあります。それは、アッシジの聖フランシスコの言葉です。要約すると、第一に、「口論などせずに、すべての人に従い、キリスト者であることを表すこと」、つまり、自分の生活している場で、キリスト者として生活することです。第二に、「主の御心に適うなら、福音を告げて、キリスト者になるよう勧めること」です。つまり、必要な場合、信じている信仰を伝えることです。
イエス様の言葉を、宣教する使命を帯びている私たち一人ひとりを鼓舞する言葉と理解し、もう一度最初から見直し、味わってみてはいかがでしょうか。     湯澤民夫』