2020年6月28日日曜日

年間第13主日

先週に引き続き松村神父様の司式で主日ミサ(C地区対象の分散ミサ)が行われました。
また、福音朗読は先週と同じく助祭候補者の桶田さんによりました。

しばらく休刊していました「かてどらるの鐘」が、広報部の皆さまのご尽力により3ヶ月ぶりに”復活”しました。教会ホールに置いてありますのでお引き取りにいらして下さい。巻頭言は松村神父様の「赴任の挨拶として」を掲載しています。


この日の松村神父様のメッセージをご紹介します。

『今日はキリストの弟子としての派遣について考えてみましょう。

朝家を出る時、親は「行ってらっしゃい」と声をかけ、子どもは「行ってきます」と応えます。当然学校に子どもは行くものと理解し、信じているからあえてそれ以上は聞きません。しかし学校から帰って来て再度出かける時には親は「行ってらっしゃい」と声をかける前に“何処に”“誰と”“何を”という疑問が沸き出ます。子どもは面倒なので直ぐに「行ってきます」と言って友達との遊びに出ていきたいのです。でも事故にあったら?何かあったら?と、親は不明瞭な外出にはすぐには賛同できません。責任の所在の可否の明確さが大事だからです。
ミサの最後に派遣の祝福があります。司祭は皆さんに「福音宣教に行ってらっしゃい」と声を掛けます。それはミサを通してキリストの弟子としての絶対的な信頼を皆さんに持ち、神の恵みが常にあると信じているから、行く先が“何処でも”“誰でも”“どのように”でも送り出します。何故なら責任の所在は神様にあるので、私たち司祭は自信をもって派遣します。もちろん派遣先は子どもの遊びと違って楽しいことばかりではありません。かえって大変な場所や状況の中の方が多いことでしょう。しかし神に希望をおく人には、必ず闇の中でさえ光が届くようにするのが派遣の本質でしょう。
聖書にも当時の初代教会には“預言者”のような人も“正しい人”も、“小さな人”もそれぞれがいたと書かれています。人によってその目的は違うし、対応も違うし、成果も違います。ですから皆が同じではないということです。でも結果がどうであれ、神様に聞き従い、教会共同体の一員としての体の一部ならば、一人一人の戦いには光が与えられ、尊い働きとなるのです。派遣とはどうやら戦場に、それぞれの力量と扱える範囲での武器を与えられ送り出す行為なのかもしれません。その武器は既に与えられている個性やタレントに備えられています。
このようなばらばらのキリストの軍隊ですが、心は一つ。派遣する方との一体の中で歩みます。隣と比べる人は愚かです。皆さんが競争するように派遣されているのではありません。幼子から高齢の方まで、派遣されているのですから小さな武器でも、その聖なる武器をしっかりと握りしめて小さな社会(家庭)・大きな社会(地球)に「行ってらっしゃい」。そしてまた戻ってきたらしっかりと休んで次に備えましょう。』