2021年8月28日土曜日

8月29日 年間第22主日

  ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ ウルバン神父】


第22 日曜日      “その心は私から遠く離れている”    ウルバン神父  

私も遠く離れているでしょうか。この言葉を言いながら、イエスは周りにいる人、今の私たちをも見ていた。どんな顔で見ていたでしょう。主の言葉は福音で、喜びの便りで、戒めの言葉ではありません。イエスの姿を見て、イエスの顔を見つめると、この言葉の中で悲しみ、心の温かさ、心の深い憧れを感じるでしょう。今静かになって神の霊に導かれて心を開きながら、想像の中で今日の福音の出来事を見ましょう。

子供の時、本家の叔父さんといとこ達とともに、よく畑へ行って芋を掘っていた。腹が減った時、皆は仕事を休んで土の上に座りながら食べた。一つの手に一切れのパン、もう一つの手でソーセージを持って、左また右の手にあるものをかじりながら、手を洗わないで食べた。本当に良い雰囲気でした。畑の土で手は汚れていたが、心は素直できれいでした。食べた後、土で汚れた手で神様に感謝した。

イエス様は弟子達に囲まれて木の陰に座って休んでいた。すぐに好奇心の人がのぞきに来て、「ナザレの預言者だ」と叫んで人を連れて来た。弟子達は長い旅と暑さで疲れて座っていた。ところが、じっと見ている人々の中にファリサイ派の人もいた。人をぐるぐる囲んで刺そうとするスズメ蜂のように、彼らの目は動いていた。弟子は袋からパンを出し食べ始めた。確かに手は汚れていたが、素直な清い心で食べていた。「なぜ、あなたの弟子たちは汚れた手で食べるのか」とスズメ蜂のようにイエスを刺した。哀れなファリサイ派の人。あなたの手は清いが、心は最も汚い。すべてを汚れた心で見ている。

イエスは立ち上がって、人々を見つめながら言った。「この民は口先で私を敬うが、その心は私から遠く離れている」。この言葉は自分の心の中に響いています。口先だけで敬うことがよくあるでしょう。祈りながら体は神の前にいるが、心はどこかで散歩している。私たちはみな物足りない僕です。祈りとミサが終わって、“努め”を果たした後、イエスは私とともにいるでしょう。主の霊、聖霊が私の生活の中に住まいはなければ、心の住まいは空であれば、暗闇の霊が来て汚れの種をまくのです。それで私は次第に暗闇に沈む。ペトロの目がイエスから離れて周りの大波を見た時に沈んだが、またイエスに手を伸ばして叫んだ。「助けて、私は沈む」。彼は波から助けられた。

子供の時、ごミサがラテン語であった時、多くの人はロザリオを祈りながらミサに参加しました。言葉も典礼も知らず静かに心の中で祈った時、手の中で常にロザリオを握っていた。今考えれば、その子供らしい人はいろんなことが通じなかったが、心はきっと神様から遠く離れてはいなかった。イエスは望む人の頭ではなく心の中に住んで、生活のすべての暗闇を希望と光に変えて生きる力となった。

主は今、私達にも手を開いて言います、「自分の弱さ、自分の小ささを見ないで、目を上げて私を見なさい。弱さがあっても、私の所へ来なさい。私は生きる水の泉で、来て、この泉から飲みなさい。飲めば、あなたは本当に生きる。私はいつもあなたと共にいて、あなたの中に住む」。私の答えは「主よ、私を待って、今来ています」と。



【聖書朗読箇所】


全能永遠の神よ、

あなたはひとり子イエスをとおして

み旨を明らかに示してくださいました。

わたしたちがきょうもあなたに立ち帰り、

みことばをいのちの糧とすることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 申命記 4章1~2、6~8節


 イスラエルよ。

 今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。

 

 そうすればあなたたちは命を得、

 あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、

 それを得ることができるであろう。

 

 あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、

 減らすこともしてはならない。

 

 わたしが命じるとおりにあなたたちの神、

 主の戒めを守りなさい。


 あなたたちはそれを忠実に守りなさい。

 

 そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、

 彼らがこれらすべての掟を聞くとき、

 「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」

 と言うであろう。

 

 いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、

 主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。

 

 またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、

 正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。



第2朗読 ヤコブの手紙 1章17~18、21b~22、27節


 良い贈り物、完全な賜物はみな、

 上から、光の源である御父から来るのです。

 

 御父には、移り変わりも、

 天体の動きにつれて生ずる陰もありません。

 

 御父は、御心のままに、

 真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。

 

 それは、わたしたちを、

 いわば造られたものの初穂となさるためです。


 心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。

 この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

 

 御言葉を行う人になりなさい。

 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。


 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、

 世の汚れに染まらないように自分を守ること、

 これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。



福音朗読 マルコによる福音書 7章1~8、14~15、21~23節


 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、

 エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。


 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、

 つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。


 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、

 昔の人の言い伝えを固く守って、

 念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、

 また、市場から帰ったときには、

 身を清めてからでないと食事をしない。


 そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、

 昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――


 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。


 「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、

 汚れた手で食事をするのですか。」


 イエスは言われた。


 「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを

 見事に預言したものだ。

 彼はこう書いている。

 『この民は口先ではわたしを敬うが、

 その心はわたしから遠く離れている。

 人間の戒めを教えとしておしえ、

 むなしくわたしをあがめている。』

 あなたたちは神の掟を捨てて、

 人間の言い伝えを固く守っている。」


 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。


 「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。

 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、

 人の中から出て来るものが、人を汚すのである。


 中から、つまり人間の心から、

 悪い思いが出て来るからである。

 みだらな行い、盗み、殺意、

 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、

 悪口、傲慢、無分別など、

 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」


2021年8月21日土曜日

8月22日 年間第21主日 福音への一言

 湯澤神父様の「福音への一言」を、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音への一言 湯澤神父】


2021年8月22日 年間第21主日(ヨハネ、6.60-69)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音を以て、天から下って、人を生かすパンについての一連の話が終わります。先週は被昇天の祭日で、一回分抜けてしまいましたから、もう一度『ヨハネ福音書』の六章を最初からゆっくり見直したらよいでしょう。これまでイエス様が話してきたことを、人々は信じられず、拒否しました。そこで、イエス様は、ついてきた弟子たちに尋ねます。「あなたたちも離れて行きたいか」。ペトロが代表して答えます。「あなたこそ永遠の命を持つ者、神の聖者」と。しかし、そう答える彼らの中にも信じられない人たちが出ることを、イエス様はご存じです。

  まず、イエス様の話は、一般に受け入れられません。イエス様について来た人たちは、物珍しさで付いて来たわけではありません。少なくとも神様が天からのパンで養ったモーセの出来事を知っている人たちです。

こうしてイエス様は弟子たちの信仰について尋ねます。それは、単に命のパンに限りません。イエス様全体のことを受け入れられるか否かでもあります。イエス様は、神であり、御言葉でした。御言葉は人となり、私たちの間に住まわれた。この事実は、人々にとって、特に正しい熱心なユダヤ教の信仰を持っている人達にとって受け入れることが難しい問題でした。完全なもの、神が不完全なもの、人間になり、私たちと同じ人間として、私たちの間で共に生きることは、考えられないことでした。これは、ヨハネの福音書を読む人たちにとって大きな障害でした。

  実際は、人間になったのではなく、人間のように見えただけではないか、そう思う人人もいました。なっただけで、人間に見えたに過ぎないのだ。こうしたことは、弟子たちの間でも問題になりました。ここでイエス様は、受け入れた弟子たちの間にも受け入れられない人たちがいる、と述べています。「あなた方の内には信じない者たちもいる」と。この言葉は、単にイスカリオテのユダにだけ向けられた言葉ではないでしょう。もしかしたら私たちに向けられた言葉かもしれません。私たちは、神様が人となる、神様がいつも食べるあのパンになる、その本当の意味、神様の行うことの真の意味を受け入れることが出来ないかもしれません。それは、十字架を前にして明らかになってくることです。人が元居たところに戻る時、人となった御言葉、パンとなったイエス様のことを真に知るでしょう。イエス様の十字架の言葉は、それを物語っています。「成し遂げられた」。ご自身の使命を完成させ、すべてを知らせたからでした。もし、毎朝パンを食べる人がいたら、そのパンを見てください。イエス様は、そのパンになられたのです。私たちを生かす命を与えるために。そして、御言葉が人となられたことを黙想してみましょう。 湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


喜びの源である神よ、
  あなたのことばは信じる者を照らす光です。
  きょうも、わたしたちに力強く語りかけてください。
  信じる心をたえず新たにし、
  主キリストに従うことができますように。
   B年用・試用 集会祈願より


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第1朗読 ヨシュア記 24章1~2a、15~17、18b節

 ヨシュアは、
 イスラエルの全部族をシケムに集め、
 イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。

 彼らが神の御前に進み出ると、ヨシュアは民全員に告げた。

 もし主に仕えたくないというならば、
 川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、
 あるいは今、
 あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、
 仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。

 ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」

 民は答えた。
 「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、
 するはずがありません。

 わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、
 奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、
 わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、
 わたしたちの行く先々で、
 またわたしたちが通って来たすべての民の中で、
 わたしたちを守ってくださった方です。

 わたしたちも主に仕えます。
 この方こそ、わたしたちの神です。」


第2朗読 エフェソの信徒への手紙 5章21~32節

 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
 
 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、
 夫は妻の頭だからです。
 
 また、教会がキリストに仕えるように、
 妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
 
 夫たちよ、キリストが教会を愛し、
 教会のために御自分をお与えになったように、
 妻を愛しなさい。
 
 キリストがそうなさったのは、
 言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、
 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、
 聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を
 御自分の前に立たせるためでした。
 
 そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。
 妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
 
 わが身を憎んだ者は一人もおらず、
 かえって、キリストが教会になさったように、
 わが身を養い、いたわるものです。
 
 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、
 二人は一体となる。」
 
 この神秘は偉大です。
 わたしは、キリストと教会について述べているのです。


福音朗読 ヨハネによる福音書 6章60~69節

 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。
 「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」

 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに
 気づいて言われた。

「 あなたがたはこのことにつまずくのか。
 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。

 命を与えるのは“霊”である。
 肉は何の役にも立たない。

 わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」

 イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、
 御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。

 そして、言われた。
 「こういうわけで、わたしはあなたがたに、
 『父からお許しがなければ、
 だれもわたしのもとに来ることはできない』
 と言ったのだ。」

 このために、弟子たちの多くが離れ去り、
 もはやイエスと共に歩まなくなった。

 そこで、イエスは十二人に、
 「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。

 シモン・ペトロが答えた。

 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。
 あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
 あなたこそ神の聖者であると、
 わたしたちは信じ、また知っています。」

2021年8月14日土曜日

8月15日 聖母の被昇天 福音メッセージ

この日のミサを司式された勝谷司教様のお説教と、松村神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。 


【勝谷司教 お説教】


何度か説教や文書でふれたことですが、コロナが流行し始めた頃、テレビ等の情報に影響され、常に怒りの感情に支配され、心が健康でなくなっていることを感じたことがありました。今も政府や行政の無策ぶりに怒りの感情が起こってはいます。しかしその怒りは、自分にとって正しいもの、正義の怒りであると全く疑いを持っていないところに問題があることもお話ししました。この怒りについて少し考えてみたいと思います。


 地方の教会を回っていると、私が「正義と平和協議会」を担当しているせいでしょうか、政治的な問題について質問されることがよくあります。その場合多くは、教会と政治の関わりについて批判的な意見を持っている人たちからのものでした。数年前、日本の安全保障に関わる法律が立て続けに成立していった頃は、日本社会だけではなく、地方の教会の中でも激しい意見が交わされました。地方の教会にはそのような問題に敏感な自衛隊の基地があるところが多いのもその理由の一つです。教会を訪問して気づいたのは、政治問題に関わることに批判的な人だけではなく、当然教会の社会教説や司教の声明等を錦の御旗にして正義を訴え、教会を仕切っている活動家肌の人たちがいることでした。それがまた、教会に分裂を招いていました。そこで、気づいたことがあります。このことについて論争するとき、双方がベースにある怒りに任せて議論していることです。つまり、感情的になって議論しているのです。

 怒りには2種類あります。福音の価値が損なわれているとき、すなわち人間が苦しめられているときに感じる怒り、神からくる聖なる怒りと、自分の欲求を満たすときにそれを邪魔するものに対して向けられる自己中心的な感りです。私たちはこれを混同してはなりません。

 政府の政策に反対の立場の人たちは、当然その怒りを聖なる怒りと感じ正義は我らにあると思っています。しかし、賛成の立場の人も、同様なのです。そこで、双方の意見がたたかわれるとき、あらわれてくるのは、ベースにある怒りの感情です。怒りそれ自体は、善悪はありません。しかし、怒りに対してどういう態度をとるかによって、正誤、善悪が生じて きます。
 たとえそれが聖なる怒りと思えるものであっても、怒りに任せて感情的になるとき、それは別物になります。怒りを伝えることと、怒りに任せて感情的になることは違います。感情的になるとき、議論は相手を屈服させること、自分に従わせることが中心となり、時には相手の人格さえ傷つける心無い中傷が表れてきます。これは、顔を合わせた議論をする時ではなく、ネットの世界で匿名でなされるとき特に顕著に表れてきます。私は、ネットの世界でこのような非建設的な中傷が繰り広げられることに心を痛めています。しかし、顔が見える議論でも、それは起こります。教会においては、特に田舎の小さな教会においては、どのような意見を持っていても、匿名ではいられません。政治問題について、賛成反対の意見を持つ場合、まるで宗教対立ででもあるかのような、感情的な対立にしばしばなってしまいます。そして、教会では少数派の立場の人は、教会に居づらくなるのです。ある教会では、政府の出す法案に反対の意見が多数を占める中で、ある信徒が私の耳元で、「実は私は賛成なんですが、そんなこと言えません。」と呟きました。このように阻害されている人がいる懸念を他の信者に伝えたところ、「そのような考えの人は教会に来なくてもよい」と、私と多くの信者の前で断言する人さえいました。正義を主張していながら、これは正義ではありません。聖なる怒りを表明していながら、従っているのは自己中心的な怒りです。しかし、私にとって救いだったのは、小教区訪問時では激しく意見が対立し、ちょっと感情的にもなり後味が悪い議論をした人が、その数週間後の地区大会で、積極的にスタッフとして働き、私を歓迎してくれたことでした。教会でタブーであった話題に正面から立ち向かって、乗り越えられない立場の違いを意識しながらも、主において一つである信仰の本質を保ち続けているこ とを感じうれしく思いました。

 今日の福音のマグニフィカト、これは、「人々を苦しめている現実、抑圧し、差別し、疎外して人権を侵害している社会を変革せよ」と言うメッセージと解釈することもできます。
 私たちが求める、救いは、個人的な救いではなく、このような抑圧や不正がなくなりすべての人が共に救われる世界の実現を意味します。そして、それは座して待って与えられるのではありません。キリストが始められ、命を捧げてくださった救いの技を、教会、すなわち私たちが引き継いで担っていくものです。このマグニフィカトのベースには当然、不正義に対する聖なる怒りがあります。しかし、その怒りは、イデオロギーに基づくものではなく、 抑圧され苦しめられている人々に対する深い共感と哀れみに基づくものです。

 わたしたちの活動を通して「正義と平和」を実現するベースにある感情は、そのような人々への強い共感に基づく「怒り」です。私たちは、イデオロギーに従って行動するのではなく、苦しむ人々への深い共感に基づいて連帯し、そこにある怒りを表明するのです。怒りにとらわれるのではなく、怒りをコントロールして、誰をも傷つけることなく正しく「怒り」 を表明し続けるのが私たちの使命です。


【福音メッセージ 松村神父】



8月15日のメッセージ

昔、TVの中の正義の使者であるヒーローやヒロインになりたいと、憧れを抱き真似をした人も少なくないのではないか。または、伝記小説などに登場する優秀な能力を持った人に憧れて、将来の夢にした人もいるかもしれない。私たちはこのように具体的な人物像を心に置き、日々の学びや生き方にスパイスを与えて、自分を奮い立たせてきたのではないか。私自身も小学生の頃には江戸川乱歩にはまって、明智小五郎のような推理探偵を目指し、とにかく頭の回転を速くしようとクイズやなぞなぞにはまった時もあり、または一方で祖父の死を目の前にして、人を助けてきた祖父に報いるために、人助けの仕事がしたいと誓った時もあった。しばらくすると祖父母の働きを眺めながら高齢者が快適に、幸せに暮らせるためにと当時の有名な建築家を真似ようと学んだ時期もあった。それぞれ時代時代に具体的な人を思い浮かべては、その人になろうとしていた。しかし、ある時それらの人に限界があったことを気づかされた。常にその先には、より有能な人、新しい仕組み、新しいユニバーサルデザインが現れ、夢を描いた人たちは廃れていったのであった。

 今日、聖母被昇天の祝いの日に、何を思うか。聖母マリアの天への昇天は聖書の中に書かれていない。初代教会後の信仰によって祝われるようになり、8世紀末に聖母被昇天として定められ、8月15日に祝われるようになった。しかし教義になったのはわずか70年ほど前である。そもそも東方教会ではマリアの亡くなった日として祝われたが、その後7世紀になってから西方教会にも受け継がれ被昇天の日となった。ただし、正直何が真実かは私たちにはわからない。それよりも日本にとってザビエルが上陸した日が8月15日。そのため日本の守護聖人が聖母マリアとされたことや、終戦記念日が8月15日で戦争の終わりにマリア様の祝日だったこと。これは偶然というよりも、日本に神様が働かれた(啓示)と考える方が私はしっくりくる。聖母マリアへの崇敬は、その先を見る神様の存在を表す象徴と捉えなければならないのだろう。だから決してマリア様を崇拝の対象としてはならないし、神様もそのために昇天したわけではないのだろう。

 教義では「聖母はキリストの救いを完全な仕方で受け、キリストによって成就した救いの範型(TYPE)となった。キリストのもたらした救いは人間の全身心の救済であるから、聖母マリアがキリストの救いの力を完全に受けて、神の栄光に輝いたと信ずるのは当然である。」とされる。だからと言って聖母マリアが特別な存在として信仰するのではなく、今日の祈願文や朗読箇所にもあるように、聖母の被昇天は、キリストによる救いにあずかる人たちの象徴として、信じるすべての私たちの救いへの希望を表現している唯一の人類と捉える必要があるのだろう。先の夢見るヒーローヒロインに憧れ崇拝するのではなく、その先にある正義や平和という願い、神のみ旨をしっかり見なければ、目の前の聖母マリアの存在がぐらついてしまう。被昇天という教えを通して、聖母マリアが昇天され完全に救われたこと、その聖母マリアが願ったことにしっかりと心を向けて、私たちも歩みたいと思う。

8月15日は日本にとって特別な日。神の啓示は、この日において命を優先とし、キリストのいのちにあずかるということを大切にして、具体的な平和を求める日として祈り働いていければと思う。

聖母マリア、そして聖フランシスコザビエルの願った私たちのこの国での幸せを祈りあっていきましょう。



【聖書朗読箇所】


全能永遠の神よ、

あなたは、御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、

からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました。

信じる民がいつも天の国を求め、

聖母とともに永遠の喜びに入ることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 ヨハネの黙示録 11章19a、12章1~6、10ab節

 天にある神の神殿が開かれて、 その神殿の中にある契約の箱が見え〔た〕。

 また、天に大きなしるしが現れた。 一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、 頭には十二の星の冠をかぶっていた。 女は身ごもっていたが、 子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。 また、もう一つのしるしが天に現れた。 見よ、火のように赤い大きな竜である。 これには七つの頭と十本の角があって、 その頭に七つの冠をかぶっていた。 竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。 そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、 産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。 女は男の子を産んだ。 この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。 子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。 女は荒れ野へ逃げ込んだ。 そこには、神の用意された場所があった。

わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。 「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。 神のメシアの権威が現れた。」


第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章20~27a節

(皆さん、)キリストは死者の中から復活し、 眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人によって来たのだから、 死者の復活も一人の人によって来るのです。 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、 キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。 最初にキリスト、 次いで、キリストが来られるときに、 キリストに属している人たち、 次いで、世の終わりが来ます。 そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、 父である神に国を引き渡されます。 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、 国を支配されることになっているからです。 最後の敵として、死が滅ぼされます。 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。


福音朗読 ルカによる福音書 1章39~56節

 そのころ、マリアは出かけて、 急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、 その胎内の子がおどった。 エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。 「あなたは女の中で祝福された方です。 胎内のお子さまも祝福されています。 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、 どういうわけでしょう。 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、 胎内の子は喜んでおどりました。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、 なんと幸いでしょう。」

 そこで、マリアは言った。

「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。

今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、 力ある方が、

わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、

その憐れみは代々に限りなく、

主を畏れる者に及びます。

主はその腕で力を振るい、

思い上がる者を打ち散らし、

権力ある者をその座から引き降ろし、

身分の低い者を高く上げ、

飢えた人を良い物で満たし、

富める者を空腹のまま追い返されます。

その僕イスラエルを受け入れて、

憐れみをお忘れになりません、

わたしたちの先祖におっしゃったとおり、

アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、 自分の家に帰った。 

2021年8月8日日曜日

8月8日 年間第19主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ ウルバン神父】

第19日曜日  “私は天から来たまことのパンである”。 ウルバン神父

ある日の朝のことでした。イエス様は、前の晩に五つのパンを食べて満腹した大群衆が近づいて来るのを見た。長い道で体は疲れたが、顔が暑さのため真っ赤になって心はすごい期待に燃えた。これから何が行われるでしょうか、今度は何をもらえるでしょうか。その時イエス様は囲まれて何とおっしゃったでしょう。「あなたたちはパンを食べて満腹したから来たのですか。私は新しいパンをあなたたちに与える。それを食べれば、いつまでも飢えることはない」。「そのパンを与えてください、そのパンを欲しい」と皆は叫んで、大きな目で次の出来事を待っていた。

イエス様は不思議そうな、寂しそうな顔で群衆を見まわしていた。人の人気と誉れを、人の飢えるお腹を望んでいたのではなく、素直な心、子供らしい信仰と信頼を心から待っていました。その時のイエス様の答えは、皆にショックとなった。冬の雪と霜が落ちて、すべての命を押さえるような答え。「私は天から降って来たパンである」。皆はびっくりして信じられないような顔をした。「このナザレの人は天から来たのか。とんでもないことだ。親でさえも知っているでしょう」。それで群衆から不平の声が出て、大きな騒ぎが始まりました。イエスはもう一度大声で叫んだ。「私は天から来たまことのパンである。私が与えるパンは私の肉です。これを食べれば、永遠に生きる」。その時、群衆と多くの親しい弟子もイエスを捨て、消えてしまった。イエスの周りには静かになった。

「天からのパンを食べれば、あなた達は生きる」とは本当です。私の一つの体験を聞いてください。留萌という町での出来事でした。そこには元気な、とってもめんこい女の子がいました。瀬ちゃんは、皆が可愛がってくれました。10才ぐらいになった時の出来事でした。子供は雪道で転んだ。ちょうどその時、馬そりを引っ張る馬がその道を通って、転んだ子供の背中を蹴っ飛ばした。その時から明るい生活がとっても暗くなりました。体はもう伸びなくて、背中は丸くなってしまった。大人に変に見られて、子供達に常に虐められて、身を隠すようになった。ところが、何年か後のある日に、おばさんが彼女を教会へ連れた時、初めてイエス様に出会った。イエスにそのままに愛されたことを知って恥ずかしさが消え、喜びが沸いてきた。私は留萌教会の神父になって、古い写真を見た時、すでに大人になって相変わらず小さい瀬ちゃんが、皆に可愛がれて心の故郷を見つけたことを感じた。

その時は大分前から札幌で入院していると言われた。病院で初めて会った時、私はとっても感動した。小さい痩せた体で彼女は床に座っていた。弱い風に飛ばされる羽のような姿が、顔が光に輝いていた。「神父様、お医者さん達は何回も私は死ぬと言いましたが、まだ生きているよ。イエス様は私が何かのために生きてほしいのかなぁ。私は幸せです、毎日イエス様をいただけるから」。私の肉を食べ、私の血を飲む人は生きる、永遠に生きることは彼女の心に刻まれていた。人々がイエスを触れようとしたように、病院の多くの患者さんが毎日彼女の病室に近づいて彼女を見ようとした。あの方の輝く姿に慰められ、強められて自分の病室に帰った。今天におられる聖なる姉妹、瀬ちゃん、私達のために祈ってください、私たちも天から降って来たパンに生きるように。



【聖書朗読箇所】


すべての人を養ってくださる神よ、

  わたしたちはきょうもキリストのもとに一つに集められました。

  いのちの恵みにともにあずかるわたしたちが、

  神の国をめざして歩む力で満たされますように。

   B年用・試用 集会祈願より


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第1朗読 列王記上 19章4~8節


 彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。


 彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、

 自分の命が絶えるのを願って言った。

 「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。

 わたしは先祖にまさる者ではありません。」

 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。


 御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」

 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と

 水の入った瓶があったので、

 エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、

 また横になった。


 主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、

 「起きて食べよ。

 この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。

 エリヤは起きて食べ、飲んだ。


 その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、

 ついに神の山ホレブに着いた。



第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章30~5章2節


 神の聖霊を悲しませてはいけません。

 

 あなたがたは、聖霊により、

 贖いの日に対して保 証されているのです。

 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、

 一切の悪意と一緒に捨てなさい。

 

 互いに親切にし、憐れみの心で接し、

 神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、

 赦し合いなさい。

 

 あなたがたは神に愛されている子供ですから、

 神に倣う者となりなさい。

 

 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、

 つまり、いけにえとして 

 わたしたちのために神に献げてくださったように、

 あなたがたも愛によって歩みなさい。



福音朗読 ヨハネによる福音書 6章41~51節


 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」

 と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。

 「これはヨセフの息子のイエスではないか。

 我々はその父も母も知っている。

 どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」


 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。

 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、

 だれもわたしのもとへ来ることはできない。

 わたしはその人を終わりの日に復活させる。


 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。

 父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。

 父を見た者は一人もいない。

 神のもとから来た者だけが父を見たのである。

 

 はっきり言っておく。

 信じる者は永遠の命を得ている。

 わたしは命のパンである。


 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。

 しかし、これは、天から降って来たパンであり、

 これを食べる者は死なない。

 

 わたしは、天から降って来た生きたパンである。

 このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。

 わたしが与えるパンとは、

 世を生かすためのわたしの肉のことである。」