2022年2月26日土曜日

2月27日 年間第8主日 福音メッセージ

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ 松村神父】

人間は「言いたくないけど言わざるを得ない」ということで、他人から悪いレッテルを張られる事は時々あります。まわりまわって自分の噂を聞いたときに、その噂で胸を痛めることもあります。でも言い訳をしても「時すでに遅し」なんてことは皆さんにもあるでしょう。でもそんな時に、すぐに切り替え「言わせておけ!」と開き直ることで何とか自分を立たせているというのが現実かもしれません。でも本心は神様にしかわからないものです。しかし、もしその場でゆっくりと分かち合うことができれば、どれだけ良好な関係性が築けるのでしょう。また話を受ける側もどれだけ正確に聞いているでしょうか。情報量が多く、また早く流れるこの時代に、表面だけを捉えた情報に惑わされていないでしょうか。ニュースの情報にはフェイクが時にはあり、また一部の情報を切り抜いて核心としてしまう出来事もあります。同じように人のうわさもすべて正しいわけではありません。常に本当は何か?本質は何か?と問い直さなければなりません。その根拠を調べるのに途方もない時間を費やします。ですから、私は「まだ確信にたどり着いていない」と思うことにしています。「見ないで信じるものは幸い」というのは神様の事だけなのでしょう。

さて、そのような中で今日のメッセージは、第一朗読から見たいと思います。

シラ書で語られる言葉は私たちの胸をえぐるような言葉でした。それは神の知恵である“人の話をしっかりと聞いてから判断する”ということでしょう。私たちはどうしても“持論”“思い込み”が先行してしまいます。だからこそ聞くことの大切さがここに語られています。聞かない理由は何でしょう。自分には非がない。自分は正しいと思いこんでいるからではないでしょうか。またつまらない話であるとか、自分に正義があるからとも思っていないでしょうか。でもその正義は自分の正義ですか?神の正義ですか?そう問われると、途端に自信が無くなってしまいます。でも、今日の福音書ではそれを回避する方法が描かれています。

 盲人と語られている人は、イエスにとってファリサイ派を指し、また信仰共同体の指導者を指す言葉として表されました。「だれでも、十分に修業を積めば、師のようになれる。」のです。でも人に仕えることは修行では学べません。センス(感覚)の問題です。努力の賜物ではありません。自分の胸に手を当てて「主よ哀れんでください」と罪びとのようでなければ、兄弟姉妹を慈しむ心は芽生えないでしょう。まず相手を中心に置くこと。自分を隅に追いやる事。この姿勢、このセンス(感覚)こそ、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石(マタイ 21:42)」にまで上げられるのです。そして私たちがどのように実践できるのかが問われています。「ふるいを揺さぶると滓が残るように、人間も話をすると欠点が現れてくるもの(シラ27:4)」だから、自分の“目の中の丸太”の存在という根本を見つめる必要があります。表面だけ取り繕っても、ボロは出ます。他人を裁かず、身を低くすること。良い実を実らせるよう、内面も外面も統一させていこうという努力。これが私たちのイエスの弟子として向かうあり方なのでしょう。昨今騒音が多い中、表面の事をうのみにすることなく、穏やかに耳を澄ませると普段聞こえない音が聞こえてきます。それは神様の言葉なのかもしれません。

 裁くことより、聖母マリアのように正しく聞いて思いめぐらし、聖ヨゼフのように陰ながら愛する者を支え仕える。これこそ私たち信仰者の感性なのでしょう。頑張りましょう!


【聖書朗読箇所】


恵み豊かな神よ、

  ひとり子イエスは、

  ことばと行いによってし、

  永遠のいのちの道を示してくださいました。

  ここに集められた一人ひとりに聖霊を注いでください、

  きょう語られるみことばが、

  わたしたちを導く光となりますように。

   集会祈願より



第1朗読 シラ書 27章4~7節


 ふるいを揺さぶると滓が残るように、

 人間も話をすると欠点が現れてくるものだ。


 陶工の器が、かまどの火で吟味されるように、

 人間は論議によって試される。


 樹木の手入れは、実を見れば明らかなように、

 心の思いは話を聞けば分かる。


 話を聞かないうちは、人を褒めてはいけない。

 言葉こそ人を判断する試金石であるからだ



第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章54~58節


 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、

 この死ぬべきものが死なないものを着るとき、

 次のように書かれている言葉が実現するのです。


 「死は勝利にのみ込まれた。

 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。

 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」


 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

 わたしたちの主イエス・キリストによって

 わたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。


 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、

 動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。


 主に結ばれているならば

 自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、

 あなたがたは知っているはずです。



福音朗読 ルカによる福音書 6章39~45節


 イエスはまた、たとえを話された。

 「盲人が盲人の道案内をすることができようか。

 二人とも穴に落ち込みはしないか。


 弟子は師にまさるものではない。

 しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。


 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、

 なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。


 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、

 『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、

 どうして言えるだろうか。


 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。

 そうすれば、はっきり見えるようになって、

 兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」


 「悪い実を結ぶ良い木はなく、

 また、良い実を結ぶ悪い木はない。


 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。

 茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。


 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、

 悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。

 人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」




2022年2月19日土曜日

2月20日 年間第7主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ ウルバン神父】

年間第7主日  2022年 2月20日   “あなたの敵を愛しなさい”     ウルバン神父

ある若者がイエスのところへ走り寄って来て平伏した。「ラビ、先生、命を得るためにどうすれば良いのでしょうか」と、心の底からイエスに呼び掛けた。その時、イエスはこの青年の深い望みを見て、どんなに喜んで、感動したでしょうか。イエスはしばらくの間彼を見つめて美しい眼差しで言った。「もし、命を得たいと望めば、自分のすべての財産を手放し、貧しい人に与えなさい。その後、私に付いて来なさい」。若者が頭を下げて悲しんで、足を引きずりながら帰えってしまった。イエスも悲しみのある顔で、見えなくなるまで若者を見送った。

私たちも皆弟子で、主に付いて行きたいでしょう。イエスは今も同じ顔の眼差しであなたを見つめています。「あなたは私の本当の弟子になりたいと望んだら、あなたの敵を愛しなさい。その後、私に付いて来なさい」と。この言葉を聞いたら、私の心も重たくなって、「できない、無理だ、」と思って、帰りたくなる。「敵を愛するか、それができる力はない」とあなたも思うでしょうか。もし私達も離れたら、イエスはどんなに悲しむだろうか。

私はそう思うが、幸いにイエスは「敵を好きになりなさい」と言われなかった。誰も自分の気持ちに命令できない。「明日から嫌いな人を好きになります」と本気に決めても、心はそれで変わるでしょうか。これは私たちの悩みです。上からの助けがなければ、心はなかなか変わらないのです。嫌いな人、敵を愛するとは何でしょうか。

イエスはゲッセマネの庭でユダが近づいて来るのを見た時、喜んだでしょうか。そうではない。「私を裏切る者が近づいた」と。ユダに抱かれながら接吻された時、首の周りに蛇が動いているように感じた。体が嫌がって震えたイエスは「友よ、接吻しながら、私を裏切るのか」といった。嫌がる敵に「友」と言われた。敵となっても、ユダを心から追い出しませんでした。鶏が泣いた後振り向いて、ペトロを見たと同じ目で今ユダを見ました。ペトロは泣いたが、ユダはイエスの心を退いた。「憎む者に親切にしなさい」と書いてある。嫌いであっても、親切に出会って、心をかける事、それは愛する事です。私の力は足りませんが、イエスの服に触れば、力が流れてきます。

もう50年前の事です。ある時一人の高校生が来ました。「神父様、洗礼を受けられない。もう教会へ来られない。“父母を敬うべし”との掟を守れない。夜の時、母の部屋への階段をいつも男達が上り下るのを聞いたら、私は泣いています。母を尊敬できない、」と。「尊敬できないが、それでも母はあなたを生んだ母です。あなたも失ったら、母は孤独に沈んでしまう。母はあなたより苦しんでいる。尊敬できなくても、大切にして、ね」、と答えた。もう教会へ来なかった。行く道は神様しか分かりません。あの子も、その母も、イエスに愛されたでしょう。手放すことはありません。

ある時、寒い冬の1月に私は大阪の釜ヶ崎に住んでいた。2万か3万人の無名の男の人の隠れ場で、多くの人は道端で寝ていて、冬には夜の道端で100か200人位が死ぬと言われた。真夜中に私達はリヤカーを引っ張りながら、外で横になっている人に熱いスープと毛布を配った。毛布一枚だけ残った時、二人の男が雪の中に寝ているのを見つけた。何をしたら良いか分からなかった。一人を起こして私が悲しそうに一枚の毛布を見せた時、何と言われたでしょうか。「あの人にやって、彼が寒がって震えている」。あの方はその夜凍れて死んだか分からないが、イエスだけ知っています。これは愛する事です。この言葉は一生心に響いています。「あの人にやって。彼が寒がっている」と。



【聖書朗読箇所】


限りない愛に満ちておられる神よ、

  主イエスは敵対する人、

  自分を裏切る人をも愛し、

  まことの愛に生きる者の姿を示してくださいました。

  ここに集うわたしたちが、

  キリストの心に少しでも近づくことができますように。

   集会祈願より



第1朗読 サムエル記上 26章2、7~9、12~13、22~23節


サウルは立ってイスラエルの精鋭三千を率い、

ジフの荒れ野に下って行き、ダビデをジフの荒れ野で捜した。


ダビデとアビシャイは夜になって兵士に近寄った。

サウルは幕営の中に横になって眠り込んでおり、

彼の槍はその枕もとの地面に突き刺してあった。

アブネルも兵士もその周りで眠っていた。


アビシャイはダビデに言った。

「神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。

さあ、わたしに槍の一突きで彼を刺し殺させてください。一度でしとめます。」


ダビデはアビシャイに言った。

「殺してはならない。

主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない。」


ダビデはサウルの枕もとから槍と水差しを取り、

彼らは立ち去った。

見ていた者も、気づいた者も、目を覚ました者もなかった。

主から送られた深い眠りが彼らを襲い、全員眠り込んでいた。

ダビデは向こう側に渡り、遠く離れた山の頂に立った。

サウルの陣営との隔たりは大きかった。


ダビデは答えた。

「王の槍はここにあります。

従者を一人よこし、これを運ばせてください。

主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。

今日、主はわたしの手にあなたを渡されましたが、

主が油を注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした。



第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章45~49節


「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、

最後のアダムは命を与える霊となったのです。


最初に霊の体があったのではありません。

自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。


最初の人は土ででき、地に属する者であり、

第二の人は天に属する者です。


土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、

天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。


わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、

天に属するその人の似姿にもなるのです。



福音朗読 ルカによる福音書 6章27~38節


「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。

敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。


悪口を言う者に祝福を祈り、

あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。


あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。

上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。

求める者には、だれにでも与えなさい。

あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。


人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

自分を愛してくれる人を愛したところで、

あなたがたにどんな恵みがあろうか。

罪人でも、愛してくれる人を愛している。


また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、

どんな恵みがあろうか。

罪人でも同じことをしている。


返してもらうことを当てにして貸したところで、

どんな恵みがあろうか。

罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、

罪人に貸すのである。


しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。

人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。

そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。

いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。

あなたがたの父が憐れみ深いように、

あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」


「人を裁くな。

そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。

人を罪人だと決めるな。

そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。

赦しなさい。

そうすれば、あなたがたも赦される。

与えなさい。

そうすれば、あなたがたにも与えられる。

押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、

ふところに入れてもらえる。

あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

2022年2月12日土曜日

2月13日 年間第6主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 湯澤神父】


2022年2月13日 年間第六主日(ルカ、6章17節、20~26節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音は、マタイの山上の垂訓に似ていますが、幾つか違うところがあります。マタイでは、イエス様は山に登って弟子たちに話しかけていますが、ルカでは、山から下りて平らなところで語っています。そして、幸いな人についてだけ語るマタイに対して、ルカは、幸いな人と不幸な人について対比して語っています。更に今日の第一朗読、『エレミヤ書』でも、神に信頼せず、人間に信頼し、はかない人間を頼みとする人と神に信頼する人が対比させられています。しかも報いを具体的に対比してくれると、わかりやすく感じます。そして、福音書のイエス様の言葉も分かりやすくしてくれています。

  更に、ルカは、「今」飢えている、「今」泣いている、というように現実的です。だから、貧しい人も、物がない貧しさを印象付けてくれます。これに対して、マタイを見ると「心の貧しい人」と言われています。それは、「霊において貧しい人」「神様しか頼るものが残されていない人」そんな意味合いがあります。おそらくルカも、そうしたことを踏まえているのではないかと思います。まさに今ここで、何もない、どうしようもない貧しさに直面している人。今ここで、飢えを満たすすべを全く持たない人。今ここで、もはやさめざめと泣く他ない人。イエス様は、そういう人に向かって幸いと言っているのではないかと思います。マタイのイエス様が言うように、神様に頼るしか何も残されていない貧しさに瀕している人。頼ることさえもはやあきらめざるを得ない貧しさ。神の国はそうした人のものだ、とイエス様はマタイでもルカでも語っています。

  伝聞ですが、ある人が、最近、病気の方を励まして、「祈るように」勧めたそうです。帰ってきた答えは、「もう祈れない」と言う言葉だったそうです。私たちは、最後は神様に助けを求めて祈れそうな気がします。がしかし、実際はそうではないようです。もはや祈ることもできなくなる時が来る。ただ押し寄せてくる現実を受け止める力もなくなり、ただただ受け入れる他ない。そんな時、もはや祈ることもできなくなる。

  これは、一種の極限状態かもしれません。私たちは、ここまで追い込まれることは、めったにないことでしょう。しかし、似たようなことがなくはありません。どこにも逃げ道がなく、迫ってくる現実に直面するような場合、もはやなし得ることがなし得ず、神様に頼るしか何も残されていない。自業自得の場合もあるでしょうし、理不尽にもそうした状況に追い込まれる場合もあるでしょう。そんな場合、イエス様は、言います。神の国はあなた方のものである。あなた方は、神様の愛、慈しみに包まれている。私は、あなた方と共にいる。寄り添っている。  

  この回心を呼びかけるイエス様のこれらの言葉に、自分の信仰を振り返っていけたら、と思います。                             湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


すべての人をいつくしんでくださる神よ、

  ひとり子イエスはみもとに集う人々に、

  いのちのことばを語ってくださいました。

  救いを求めて集まるわたしたちを顧み、

  まことの幸いを教えてください。

   集会祈願より



第1朗読 エレミヤ書 17章5~8節


主はこう言われる。

呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし

その心が主を離れ去っている人は。


彼は荒れ地の裸の木。

恵みの雨を見ることなく

人の住めない不毛の地

炎暑の荒れ野を住まいとする。


祝福されよ、主に信頼する人は。

主がその人のよりどころとなられる。


彼は水のほとりに植えられた木。

水路のほとりに根を張り

暑さが襲うのを見ることなく

その葉は青々としている。

干ばつの年にも憂いがなく

実を結ぶことをやめない。



第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章12、16~20節


キリストは死者の中から復活した、

と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、

死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。


死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。

そして、キリストが復活しなかったのなら、

あなたがたの信仰はむなしく、

あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。


そうだとすると、

キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。


この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、

わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、

眠りについた人たちの初穂となられました。



福音朗読 ルカによる福音書 6章17、20~26節


イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。

大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、

また、ティルスやシドンの海岸地方から〔来ていた。〕


さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。

「貧しい人々は、幸いである、

神の国はあなたがたのものである。


今飢えている人々は、幸いである、

あなたがたは満たされる。

今泣いている人々は、幸いである、

あなたがたは笑うようになる。


人々に憎まれるとき、

また、人の子のために追い出され、

ののしられ、汚名を着せられるとき、

あなたがたは幸いである。

その日には、喜び踊りなさい。

天には大きな報いがある。

この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。


しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、

あなたがたはもう慰めを受けている。


今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、

あなたがたは飢えるようになる。

今笑っている人々は、不幸である、

あなたがたは悲しみ泣くようになる。


すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。

この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」


2022年2月5日土曜日

2月6日 年間第5主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ レイ神父】

年間第五主日 2月6日

今日の主日の朗読は、神の愛の存在は人々の生活を変えるということを別の見方から話します。

何かをとらえようとするのにどれくらいの方法がありますか?ボールを捕る、バスに間に合う、何か怪しいことをしている人を捕える。読んでいるものの意味を掴む。また、配偶者や仕事で良い人を得るとも言います。

今日の福音では、ペテロは魚を大量に捕えます。夜通し苦労してもなにも捕れなかった後にです。イエスがもう一度試してみるよう言ったとき、ペテロは疑う気持ちがありましたがイエスの言葉を信じやってみることにしました。仲間のヤコブやヨハネも一緒に働かざるを得ませんでしたが、その結果は大漁でした。ペテロは驚きおののき、わが身の小ささに気づき、イエスが彼から離れてくれるよう頼むのです。それからイエスはさらにもっと大きなものをとるのです。ペテロはイエスがお答えになるのを聞きます。今から後、あなたは人間をとる漁師となる。ペテロ、ヤコブ、ヨハネはすべてを捨ててイエスに従います。

最近、ロマンティックなミュージカル「スター誕生」の再映画化の中でレディ・ガガとブラッドリー・クーパーは「シャロウ」という受賞曲を歌いました。「教えてくれないか この都会の暮らしに満足かい? それとも、もっと何か求めているのか 他に探しているものがあるんじゃないのか?・・・もう浅い関係には、浅い、浅い、浅い関係へとは・・私は思い切ってやるつもり、ここから飛び込む私を見てて欲しい どこまでも落ちていく 地表をすり抜けて私たちが傷つかない場所へ・・・ 私たちは浅いところから遠いところにいる、もう『浅い関係』へとは戻れない」。

カトリック信者として、浅瀬にいる自分を見て、深いところに飛び込むのをどれほど拒んだことでしょう。何度も言い訳して「するだけのことをした。もう限界だ、私はこの仕事にも挑戦にもふさわしくない」。 しかし神は招かれる前に人が完璧であり、道徳的であり、忠実であることを求めてはいないのです。そのままの私たちを呼ばれます。神は日常の生活の普通の時に来られ私たちの人生の旅を力づけます。福音に反する大きな挑戦や習わしの世に度々私たちを通して働きかけます。イエスからの「進みなさい、私について来なさい」というきっぱりした呼びかけを聞くのです。

イエズス会のジョン・R・ドナヒューが明らかに言っております。「イエスへの信仰を明言するには前もって神の素晴らしい、寛大な、そして圧倒的な愛の体験が必要です。」その時初めてこう言えます。「私はここにおります。送ってください」と。イエスに従う中で私は新らたに驚くものを見つけます。私自身についての新しい知識を得ます。イエスのために他の人々を得て彼に夢中になります。イエスのみ前では私は弱く師の弟子には相応しくないと認めます。イエスの働きを私の中を通して完成させるためイエスの捕らわれ人となります。そしてイエスは私に力を満たし派遣します。ペテロがこの捕らわれにより全く自分を変え新しい道へと現れたように、私たちもイエスに捕まえられて価値ある信者となるのを認めましょう。



【聖書朗読箇所】


あわれみ深い神よ、

  あなたは罪深いわたしたちにいつくしみの目を注ぎ、

  ひとり子イエスのもとに導いてくださいました。

  わたしたちがその恵みを思い起こし、

  喜びと感謝のうちにあなたをたたえることができますように。

   集会祈願より



第1朗読 イザヤ書 6章1~2a、3~8節


ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、

高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。

衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。

上の方にはセラフィムがいた。


彼らは互いに呼び交わし、唱えた。

「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。

主の栄光は、地をすべて覆う。」


この呼び交わす声によって、

神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。


わたしは言った。

「災いだ。わたしは滅ぼされる。

わたしは汚れた唇の者。

汚れた唇の民の中に住む者。

しかも、わたしの目は

王なる万軍の主を仰ぎ見た。」


するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。

その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。


彼はわたしの口に火を触れさせて言った。

「見よ、これがあなたの唇に触れたので

あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」


そのとき、わたしは主の御声を聞いた。

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」

わたしは言った。

「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」



第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章1~11節


兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、

ここでもう一度知らせます。

これは、あなたがたが受け入れ、

生活のよりどころとしている福音にほかなりません。


どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、

しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。

さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。


最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、

わたしも受けたものです。

すなわち、キリストが、

聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、

葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、

ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。

そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、

大部分は今なお生き残っています。

次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、

そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。


わたしは、神の教会を迫害したのですから、

使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、

使徒と呼ばれる値打ちのない者です。


神の恵みによって今日のわたしがあるのです。

そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、

わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。

しかし、働いたのは、実はわたしではなく、

わたしと共にある神の恵みなのです。


とにかく、わたしにしても彼らにしても、

このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。



福音朗読 ルカによる福音書 5章1~11節


イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、

神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。


イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。

漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。


そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、

岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。

そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。


話し終わったとき、シモンに、

「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。


シモンは、「先生、わたしたちは、

夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。

しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。


そして、漁師たちがそのとおりにすると、

おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。


そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、

来て手を貸してくれるように頼んだ。

彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、

舟は沈みそうになった。


これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、

「主よ、わたしから離れてください。

わたしは罪深い者なのです」と言った。


とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。

シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。

すると、イエスはシモンに言われた。

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。