2022年6月22日水曜日

6月26日 年間第13主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてお送りします。



【福音メッセージ】 


年間第13主日 2022年6月26日  

「固定された顔」 松村神父

 時々事故か何かで鞭打ちにあって首を固定されている人を見かけます。今だから告白すると、小さい頃はよくそのような人を見ると、後ろに回り込みいたずらをしたものです。本人にとっては、一方向にしか顔を向けられない辛さと、他の人と同じ方向を向けない悔しさなどあったことでしょう。そのリアクションは、子供からしたらまた楽しいいたずらでした。

 悪いことをしたなぁと、一瞬は思った記憶があります。さすがに今はしていませんが。今日の聖書冒頭のイエスの態度「決意を固められた」とは原文ギリシャ語を直訳すると「顔を固定させた」と訳するらしい。もともと顔は人の命!人格の表れと言われていました。しかし、その顔を自由がありながらも、あえて一方向に固定させなければならないのはどれだけの覚悟が必要だったのでしょうか。イエスの受難と死に向けさせたものの力は、何にも勝るものでしょう。それは多くの障害があっても揺らぐものではないことが、サマリアでの迫害から察しがつきます。人である弟子たちは、私たちと同様な態度を取ります。“腹を立てる”という行為です。しかし、覚悟をもって進むイエスにはサマリア人への裁きもできたはずですが、迫害するものへの仕打ちではなく、身内である弟子たちの戒めによって、愛を通してサマリア人を受け止めていったのではないかと感じます。そこでその身内の弟子に対して覚悟したイエスの教訓が今日語られます。3つの覚悟はとても厳しいものです。

 第一は、安住するところがないということです。神の国を目指すには休みなどありません。「それは愛することは休めますか?」という問いと同じかもしれません。安息日に命を救うことができないならばそれは神の望みではないからです。体は休ませなければならないということとの間で、私たちは悩むべき課題が与えられますが、それでも動く先に「顔を固定」させなければ、油断すれば休む私たちであることは、イエスはよくわかっているのです。

 第二は、肉親より福音宣教を重んじること。私たちは自分の社会的生活を中心において生活を組み立てています。教会で生活している人は修道者・聖職者だけで、多くの信徒は地域社会の中で生きているので、どうしても社会制度的な中で生きざるを得ません。家族や家庭はもっとも小さな社会制度です。そこに目が行くのは当然ですが、それをも巻き込み福音に「顔を固定」させなければならないというのが弟子に与えられた使命なのです。

 第三は、振り向く暇も作ってはいけないということ。これは究極的な使命かもしれませんが、徒競走の時、スタート合図が出てから「一旦タイム」と言えない事と同じです。走り始めたら完成するまでひたすら歩み続けることが必要なのです。これこそイエスとくびきをともにするということでもあります。イエスのくびきは軽く担いやすいと言われていますから、それを担うのですが、ゴールの見えない状態の中で、このくびきを背負い「顔を固定」されることへの困難さは、余程の愛の中にいることを実感できるか、福音の喜びに胸が躍らなければ実行へとつながっていきません。となると、改めて「愛」と「福音」をかみしめて喜びにしていく努力が求められているということです。まず、身近な喜びをしっかり噛みしめていこうではありませんか。そうすれば「顔が固定」されても平気になるのでしょう。



【聖書朗読箇所】


いつくしみ深い神よ、

あなたはキリストをとおして、

すべての人を救いへと招いておられます。

ここに集められたわたしたちを力強く導いてください。

いつもキリストに従って歩むことができますように

集会祈願より



第1朗読 列王記上 19章16b,19-21節


 (その日、主はエリヤに言われた。) 「ベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。  エリヤはそこをたち、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った。エリシャは、その十二番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言った。 エリヤは答えた。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。

 エリシャはエリヤを残して帰ると、 一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やして その肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。 それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。


第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 5章1,13-18節


 (皆さん、)自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。



福音朗読 ルカによる福音書 9章11b-17節


 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。

 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、 彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

2022年6月18日土曜日

6月19日 キリストの聖体

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。

 


【福音メッセージ】

キリストの聖体 2022年6月19日  

“あなた方が彼らに食べさせなさい” ウルバン神父


もう47年前の昔の事でした。その時20人位の12才から15才までの女の子達、ガールスカウトと共に韓国へ行きました。朝鮮戦争はもはや数年前に終わったのですが、森の中で隠れながら死を待っているライ病人は、まだあちこち見つけられた。フランシスカンの兄弟は、その病人の為に深い田舎で住まいを作って、一人の天使のシスターと共に世話をした。川の向こうから私達は暫くの間祈りながら、その村を眺めた。川を渡って、不安な気持ちで皆に捨てられた病人の村に近づいた時、ある藁小屋から人が出てきた。ある女の子がその姿を見て、ショックで倒れてしまった。

午後になって、別れの時が来ました。村の人は集まっていた。村の人たちを見た時、女の子達は自分の貧しさを感じた。何も助ける事も、上げる事も出来ない事を非常に悲しんでいた。突然、自分の前にいる人が病人だと忘れて、一人の子、また一人、後に皆は走り寄って来て、病人の両手を取って、泣きながらお別れをした。本当に何も出来なかったでしょうか。女の子達は気付かなかったが、最高の事をした。心から溢れる暖かさと愛を、村の人に与えたのです。餓えている心に食べ物を与えた。周りの人に無視され、捨てられたこの人達の心の乾きを、自分の涙で満たしたのです。感動的でした。その日その出来事を、今日まで忘れる事が出来ませんでした。

これからイエス様の所へ行きましょう。イエスは、ご自分の周りのおびただしい群衆を見ていた。もう三日間、付いてきました。食べ物はもうないし、疲れ果て、倒れるような羊のように見えた。イエスは彼らの餓えを深く感じた。体の餓えだけでしょうか。いえ。イエスは群衆を見回しながら、人の顔、人の目の中にもっと深い餓えを見ました。生活の厳しさと重荷に力が消え、心が餓えていた。その時、弟子たちに「あなた方が彼らに食べさせなさい」と言われた。それで、弟子たちは男の子を引っ張って来た。かわいそうな子。自分のパンを隠したのに、見つけられた。

ところが、イエスに優しく見つめられた時、一つ、また一つのパンを渡した。最後のパンを手に持っていた時、戸惑って、困った顔をした。「これは最後のパンだ。僕も食べたい」と。そのパンを手に持って、自分を囲んでジッと眺めた子供達の大きな目を見た時、心が打たれた。その時さっと手を伸ばして、最後のパンをイエスの手に入れた。イエスは微笑みながらその最後のパンを受け取って、この小さなパンで何千人を食べさせる事が出来た。男の子がそれを見て、最も喜んでいた。私達にも声が聞こえるでしょうか、「ご覧なさい、餓えている人が多い。あなたも食べさせなさい」と。

ある日、若い母親が薄暗い聖堂に入って来た、手にバスケットを持って。その中に泣いている子供がいた。母親はバスケットを聖櫃の前に置いて、暫く静かに祈っていた。そのうちに、泣き声が消えてしまった。祈った後、母親はまたバスケットを取って帰ったが、子供はもう静かに寝ていた。今日も御聖体ランプの光が輝いて、私達を呼んでいます。「私はいつもあなた達と共にいる。子よ、あなたの為に私の心の門は開いている。来て、昼でも、夜でも、私はあなたを待っている」と。


【聖書朗読箇所】

恵み豊かな父よ、

御子キリストは、その死を記念するとうとい秘跡を教会に残してくださいました。

主のからだを受け、救いの力にあずかるわたしたちが、主の死を告げ知らせることができますように。

集会祈願より


第1朗読 創世記 14章18-20節

いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。

彼はアブラムを祝福して言った。

「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。

敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように。」

アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。


第2朗読 コリントの信徒への手紙一 11章23-26節

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。

すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、

「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。


また、食事の後で、杯も同じようにして、

「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。


だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。


福音朗読 ルカによる福音書 9章11b-17節

イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。


日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。

「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。

わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」


しかし、イエスは言われた。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。

「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、

わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」


というのは、男が五千人ほどいたからである。

イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。


弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。


すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、

裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。


すべての人が食べて満腹した。

そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

2022年6月11日土曜日

6月12日 三位一体の主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ 湯澤神父】


2021年6月12日 三位一体の主日

兄弟姉妹の皆様

  「三つにて一つくしき神、教えのままに我は信ず」。覚えているでしょうか。『カトリック聖歌集』の232番の出だしです。まさに私たちは、三位一体の神は神秘ですからとにかく教えられたままに信じなさい、と教わりました。

  神秘、その通りでしょう。どう考えても三つは一つになりませんし、一つは三つになりません。しかし、この教えの背景となっているものを考えてみましょう。背景には、神父たちが学ぶスコラ哲学、スコラ神学にあります。そして、この基本は存在論という難しい議論です。古代のギリシア人たちが探究したのは、「あるとは何だろうか」ということでした。そして、あるということはどうしても「あるもの」の「ある」の研究になります。とすると、存在の根源である神様も、あるものということになります。つまり、父と子と聖というと、三つのあるものということになるのです。しかし、三つはどうしても一つになりません。とはいえ、三位一体の神様ですから、三つが一つ、一つが三つという話になり、それは神秘で、教えられたままに信じなさいということになります。

  では教会はこのようにだけ神様について考えているのでしょうか。実は、そうでもないのです。例えば、聖家族の原型は三位一体の交わりにあります。つまり、神様を交わりとして見る見方です。福音書を書いたヨハネは交わりとして神様を見ています。ヨハネが意識していた否かは明白ではありませんが、互いに愛し合う愛の原型が三位一体の神様にあるなら、その愛は一つになる愛です。イエス様は、「父が私を愛したように、私もあなた方を愛してきた。私の愛に留まりなさい」、また「互いにありし合うこと、これが私のおきてである」。「友のために命を捨てる、これに勝る大きな愛はない」とおっしゃっていいます。御子の御父への愛は、御父の御子への愛ですが、イエス様は、同時に弟子たちとの間に成り立つように願っています。この「愛・愛する」という言葉は、愛する者のために愛する者にとっての最も善いものを選び、与えようとする愛を意味しています。つまり、御父は御子に対して最高のものを願い、最高のものを与えようとします。同じようにそれに私たちをそれに加えようともしています。それは、御父と御子が一つになるような愛です。ですから、私たちも御子と御父と一つの成る愛の内に入れてもらえるのです。

  ヨハネは、その第一の手紙の中でこう述べています。御子を伝えるのは、あなた方も「私たちと交わりを持つようになるためです」。「私たちの交わりとは、私たちが父とその子イエス・キリストとに交わることです」。まさに私たちが生きている神様の交わり、御父と御子の交わりに私たちも加えていくことなのです。だから私たちは、神様を伝えるのです。神様まで含めた大きな愛の交わりこそ、三位一体の交わりの広がりです。神様を交わりとして見直すとき、三位の交わりに留まらない大きな交わりを想像することができます。こうして、神様のことを交わりとして見ることは大切なことではないでしょうか、そして、その神様を伝え、その交わりを広げることも。 湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

  あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、

  神のいのちの神秘を示してくださいました。

  唯一の神を礼拝する私たちが、

  三位の栄光をたたえることができますように。

   集会祈願より




第1朗読 箴言 8章22~31節


 (神の知恵は語る。)

「主は、その道の初めにわたしを造られた。

いにしえの御業になお、先立って。

永遠の昔、わたしは祝別されていた。

太初、大地に先立って。

わたしは生み出されていた

深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。

山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが

わたしは生み出されていた。

大地も野も、地上の最初の塵も

まだ造られていなかった。

わたしはそこにいた

主が天をその位置に備え

深淵の面に輪を描いて境界とされたとき

主が上から雲に力をもたせ

深淵の源に勢いを与えられたとき

この原始の海に境界を定め水が岸を越えないようにし

大地の基を定められたとき。

御もとにあって、わたしは巧みな者となり

日々、主を楽しませる者となって

絶えず主の御前で楽を奏し

主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し

人の子らと共に楽しむ。




第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~5節


 (皆さん、)わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、 神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。 わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。 わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。




福音朗読 ヨハネによる福音書 16章12~15節


 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)言っておきたいことは、まだたくさんあるが、 今、あなたがたには理解できない。 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。 その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 その方はわたしに栄光を与える。 わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。 だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」


2022年6月4日土曜日

6月5日 聖霊降臨の主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】

2022年、6月5日、ペンテコステ祭

 聖霊降臨で聖霊を受けた使徒たちがまず最初に行ったことは、イエスに続いて神の国を告げ知らせることでした。漁師や徴税人たちが演説や説教をする者たちとなり、聖霊の力で、使徒たちの言葉はただ一回の福音宣言で三千人の人々の信仰に火をつけたのです。聖霊の圧倒的な力は使徒たちにイエスからの約束を果たさせました。そして使徒言行録は、使徒たちが奇跡やさらにもっと力強い無欲の生活の新しい道を含めて、偉大な行いを使徒たちがやり続けたことを私たちに語り続けるのです。自分本位の罪の束縛はとかれ、聖霊は私たちが再び罪に縛られることはないと約束します。

 聖霊降臨がやがてやってくることを知っていたイエスは弟子たち(私たちにも)に聖霊は父と私たちを結びつけるために働きつづけるのだと教えます。イエスは人類を十字架上のご自身の中に受け入れ、完全に聖なる、完全な人間として天に昇り、神の存在、そのものに私たちが入ることを許されました。イエスは、聖霊は私たちの内におり、そしていつも共にいる-聖霊の存在は、私たちに心を騒がせる必要はないことを確信させる-と約束されます。

 神学的な言葉では私たちは制限されているものの、神の三位一体に与りイエスと聖霊を通し、父である神を知り愛するようになります。ペンタコステという言葉は、父と子と聖霊がどのようにして完全に調和して互いに在るかを表すのに用います。そして今はもう、聖霊が私たちの内に宿るのですから、私たちもまた神の内に住むようになって行くのです。イエスがトマスに語ったように、父の家に場所を用意しにイエスは行かれたのです。それは用意され待っており、聖霊の導きにより私たちはそこへ向かうのです。

 これが私たちへの遺産です。イエスがなされている仕事にイエスと共に参加するためです。聖霊は、私たちを教え、慰め、そして私たちが父と子と聖霊に招かれているという事を常に指し示しています。私たちはクリスチャンとして、私たちの遺産は富や物の蓄積ではない事を知っています。一番大切な遺産はイエスとの関係です。弟子たちに約束なされた聖霊を通してくる関係です。この約束は聖霊降臨で実現され、そして今日も続いているのです。



【聖書朗読箇所】


すべての人の父である神よ、

  きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、

  あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。

  聖霊を世界にあまねく注いでください。

  教会の誕生にあたって行われた宣教の働きが、

  今も信じる民を通して続けられ、

  豊かな実りをもたらしますように。

   集会祈願より




第1朗読 使徒言行録 2章1~11節


 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、 信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。 そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。 「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。 また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」




第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章8~17節


 (皆さん、)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。 キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。 しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。 この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 もし子供であれば、相続人でもあります。 神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。 キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。




福音朗読 ヨハネによる福音書 14章15~16、23b~26節


 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。) 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。 父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。 あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、 わたしをお遣わしになった父のものである。

 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、 あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。