松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてお送りします。
【福音メッセージ】
年間第13主日 2022年6月26日
「固定された顔」 松村神父
時々事故か何かで鞭打ちにあって首を固定されている人を見かけます。今だから告白すると、小さい頃はよくそのような人を見ると、後ろに回り込みいたずらをしたものです。本人にとっては、一方向にしか顔を向けられない辛さと、他の人と同じ方向を向けない悔しさなどあったことでしょう。そのリアクションは、子供からしたらまた楽しいいたずらでした。
悪いことをしたなぁと、一瞬は思った記憶があります。さすがに今はしていませんが。今日の聖書冒頭のイエスの態度「決意を固められた」とは原文ギリシャ語を直訳すると「顔を固定させた」と訳するらしい。もともと顔は人の命!人格の表れと言われていました。しかし、その顔を自由がありながらも、あえて一方向に固定させなければならないのはどれだけの覚悟が必要だったのでしょうか。イエスの受難と死に向けさせたものの力は、何にも勝るものでしょう。それは多くの障害があっても揺らぐものではないことが、サマリアでの迫害から察しがつきます。人である弟子たちは、私たちと同様な態度を取ります。“腹を立てる”という行為です。しかし、覚悟をもって進むイエスにはサマリア人への裁きもできたはずですが、迫害するものへの仕打ちではなく、身内である弟子たちの戒めによって、愛を通してサマリア人を受け止めていったのではないかと感じます。そこでその身内の弟子に対して覚悟したイエスの教訓が今日語られます。3つの覚悟はとても厳しいものです。
第一は、安住するところがないということです。神の国を目指すには休みなどありません。「それは愛することは休めますか?」という問いと同じかもしれません。安息日に命を救うことができないならばそれは神の望みではないからです。体は休ませなければならないということとの間で、私たちは悩むべき課題が与えられますが、それでも動く先に「顔を固定」させなければ、油断すれば休む私たちであることは、イエスはよくわかっているのです。
第二は、肉親より福音宣教を重んじること。私たちは自分の社会的生活を中心において生活を組み立てています。教会で生活している人は修道者・聖職者だけで、多くの信徒は地域社会の中で生きているので、どうしても社会制度的な中で生きざるを得ません。家族や家庭はもっとも小さな社会制度です。そこに目が行くのは当然ですが、それをも巻き込み福音に「顔を固定」させなければならないというのが弟子に与えられた使命なのです。
第三は、振り向く暇も作ってはいけないということ。これは究極的な使命かもしれませんが、徒競走の時、スタート合図が出てから「一旦タイム」と言えない事と同じです。走り始めたら完成するまでひたすら歩み続けることが必要なのです。これこそイエスとくびきをともにするということでもあります。イエスのくびきは軽く担いやすいと言われていますから、それを担うのですが、ゴールの見えない状態の中で、このくびきを背負い「顔を固定」されることへの困難さは、余程の愛の中にいることを実感できるか、福音の喜びに胸が躍らなければ実行へとつながっていきません。となると、改めて「愛」と「福音」をかみしめて喜びにしていく努力が求められているということです。まず、身近な喜びをしっかり噛みしめていこうではありませんか。そうすれば「顔が固定」されても平気になるのでしょう。
【聖書朗読箇所】
いつくしみ深い神よ、
あなたはキリストをとおして、
すべての人を救いへと招いておられます。
ここに集められたわたしたちを力強く導いてください。
いつもキリストに従って歩むことができますように
集会祈願より
第1朗読 列王記上 19章16b,19-21節
(その日、主はエリヤに言われた。) 「ベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。 エリヤはそこをたち、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った。エリシャは、その十二番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言った。 エリヤは答えた。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。
エリシャはエリヤを残して帰ると、 一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やして その肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。 それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。
第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 5章1,13-18節
(皆さん、)自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
福音朗読 ルカによる福音書 9章11b-17節
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、 彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。