2018年3月4日日曜日

四旬節第3主日

この日、主任司祭の後藤神父様は円山教会での黙想会と主日ミサで出かけられました。
代わりに、ケン神父様(ケネス・スレイマン神父)がお出でになり、主日ミサを司式されました。


終始和やかで楽しい雰囲気のミサでした。

派遣の祝福の後、神父様からのサプライズがありました。
お説教の最後に「神様は私達の健康を望みます。これを一つの宿題としましょう。病気の理由は水を飲まないことです。残りの四旬節の中で十分な水を飲みましょう」
とお話されておりましたが、神父様から抽選に当たった方々へミネラルウォーターのプレゼントがありました。

ケン神父様のお説教をご紹介しましょう。

『皆さん、おはようございます。四旬節第一日曜日のテーマは「断食」についてでした。第ニ日曜日は「祈り」についてでした。今日の第三日曜日は「施し」についてです。施しは愛ですね。今日の第ー朗読はモーゼの十戒を表します。1.2.3は神様への愛についてです。そして4-10までは隣人愛についてです。私達は十戒を守れば、神様と隣人の間に平和的な雰囲気が生まれるはずです。 第ニ朗読は聖パウ口による手紙ですが、その内容はイエス様の十字架上での犠牲についてのことです。当時の人々は、メシアのイメージは権力のある人間だと思われていました。そして、敵を倒すことのできる人だと思われていました。しかし、イエス様は、 私達、世の人々のために愛を通して自分の命を捧げました。彼は、 何も悪いことはしていませんが、当時の口ーマ帝国のリーダーと、 ユダヤ教のリーダー達の嫉妬を買い、死刑を言い渡されました。 イエス様の愛の模範は、私達の勝利です。そして、福音の中でイエス様は、神様の神殿の意味を新たに教えました。素晴らしい金で飾った建物ではなく、素晴らしい愛を持っている人間だと教えました。この福音は、救いの歴史の中での分岐点(ターニングポイント)です。私達の命の中での似ている体験は、53年前のバチカン公会議の変化のようです。皆さん覚えていますか?1965年、 突然ミサとお御堂が大きな変化をしましたね。神父はミサの祭壇の前に立って壁に向かって祈りましたが、バチカン公会議の後で、 祭壇を反対側において、神父は祈りながら信者達の顔を見ました。 それだけではなく、ラテン語をやめ、その国の母国語で祈りました。もちろん、ミサの祈りの仕方も変わり、私にとってー番衝撃的だったことは、「平和の挨拶」でした。なぜなら、英語でその平和の挨拶は「Kiss of Peace」と翻訳します。なので、ミサの中で神父様は「平和の挨拶を交わしましよう」と言い、大人達はお互いにキスをしました。若いケンちゃんにとっては衝撃的でした。特に私は侍者でしたので、隣の侍者に絶対キスはしないで、 握手をしました。またもうーつの衝撃は、その時のシスター達の服装は変化し、シスター達の髪と足が見えるようになりました。

この背景で、今日の福音のイエス様の神殿の掃除を考えましょう。 今日の福音はヨハネによる福音です。この出来事は、マタイ、マルコ、ルカの福音の中にも記録されていますが、彼らはイエス様の人生最後のところで出会ったと記されています。ヨハネだけイエス様の公的な生活を始めたときから出会っていたそうです。それは大切な役割があります。その意味は、イエス様を通して、歴史が新たに始まることを意味しています。この箇所で、イエス様が「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言った意味は、イエス様の御復活についてのヒントでした。それは、 イエス様がこの世に来た目的です。この箇所はヨハネの有名な印です。ソロモンの王様が、建てた神殿は神様の存在の印でした。 皆さんご存知のように、ソロモンの神殿の中心の場所の中で、モーゼから頂いた「契約の箱」を保管しています。もちろん契約の箱の中に「十戒」がありました。カトリック教会は、神様の新しい神殿です。教会はイエス様の身体の形です。伝統的な教会は十字架の形に建築されました。その目的は、イエス様の犠牲を忘れないようにする為です。ソロモンの神殿の中で神様に罪を償う為に、動物を買って捧げました。その背景でイエス様は、神様の小羊と言うニックネームが生まれました。そして、その理由でイエス様は後の将来の自分自身の犠牲を理解しながら、当時の神殿の動物達を開放しました。やはり彼は、捧げる小羊でしたね。ソロモンの神殿を完全に造ったときに、世界中に知らせを送りました。 なぜなら、ソロモンは全ての人間が神様の息子、娘である事を信じていました。そのために、神殿を建築するときにー部は、ユダヤ人のためだけではない部分を作りました。その場所から、祈ることができました。本当にイエス様は、ソロモンの夢をかなえました。イエス様は全ての人間のために命を捧げました。四旬節の中で、私達の為に何の課題があるでしょうか?やはり、聖パウ口と聖ペト口はこの課題を理解する為に有名な発表がありました。 聖パウ口は私達は神様の神殿ですと言いました。聖ペト口は私達は、神殿の生きている石だと言いました。そのために、今日の福音の大切な宿題がありますね。私達がもっと美しい神様の存在を表す為に、愛ではない言葉、行いをやめて、代わりにイエス様の模範に従って、お互いを尊重することです。私達神様の神殿があったら、建築は二つの部分です。身体と魂です。通常、四旬節の中で私達の身体のケアについて考えませんが、神様が私達の健康を望みます。これをーつの宿題としましょう。残りの四旬節の中で十分な水を飲みましょう。病気の理由は、水を飲まないことです。ありがとうございます。』

2018年3月2日金曜日

コンサートのお知らせ

2002年に札幌コンサートホール「キタラ」の第5代専属オルガニストを務めておられましたモニカ・メルツォーヴァさんのオルガン・コンサートが、カトリック北1条教会聖堂にて下記のとおり開催されます。ぜひお越しください!

◉ 第22回 カテドラルコンサート 4月21日(土)午後3時開演


◉ パイプオルガンによる子供音楽会 4月22日(日)午後2時30分開演(入場無料)



2018年2月25日日曜日

四旬節第2主日

この日の主日ミサの中では、入信を希望する9名の方々を対象に「洗礼入門式」が行われました。

9名の求道者の方々は、神父様の前で洗礼の意思を表明し、正式に洗礼志願者となりました。


復活徹夜祭に、皆さんが揃って洗礼の恵みに与れることができるよう祈り支えましょう。

このミサでは、3月21日(春分の日)に叙階式を控えている佐久間助祭と箕島神学生のお二人も奉仕をされました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先週は私たちの教会では黙想会がありました。私には頭から離れない山本神父様の言葉の一節があります。それは「灰の水曜日」のお話しでした。「あなたは塵であり、塵に還っていくのです。」こういう意識の中で額に灰をいただきましたが、山本神父様のお話ではそのときに、神父様が額に灰を置いたとき「あなたは塵であり、塵に還っていくのです。」と言いますから「ハイ、そのとおりです。」そう心の中で祈ってください、そのような話しをされました。灰の水曜日だったからのようですが、なかなかウイットに富んだ神父様のお話。心をときほごすひとときだったのかなと思いました。思いおこすと何となく幸せになったような気分です。

  山本神父様は祈りの大切さも話されていましたが、皆さんは四旬節の祈り、節制、犠牲の精神をもう一度心に留めながら、信者としての原点にかえって、慈しみ深い神様へのもとへたちかえる恵みを祈り続けておられると思います。四旬節の取組の決心は守られているでしょうか。えっ、取組の決心をしているのですか?しなければいけなかったのですかと言う人もいるかもしれません。そういうことを意識されておられない人もいるかもしれません。何度か話しを触れてきているのですが、かつて四旬節に入ると、信者さんはそれぞれ決心を作ってそれを守ろうという習慣がありました。様々な取組がそれぞれの人の心の中で考えらるのでしょうが、求道者の時代、信者になってから言われているひとつは、お酒が好きな人はお酒を控えること、たばこの好きな人はたばこを控える、中にはお茶を控えるとかコーヒーを控えるとか、犠牲や節制をそうしたものに代えて四旬節を過ごす伝統、習慣があったということです。
 山本神父様は祈りということも強調されましたから、そうした犠牲に代えて祈りをいろいろな人のためにという決心を心の中に持たれた方がいたかもしれません。でも、私たちはいつもそうですが、なかなか決心しても三日もたたないうちに、その約束が崩れてしまうのが私たちかもしれません。でも、今日からまた新しいスタートができますから、残された1ヶ月にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。四旬節すでに10日過ぎました。40日間、荒れ野で試みられたイエスを黙想しながら、私たちも四旬節の心構えをさらに学んで大切にしたいと思います。

  今日の福音は「主の変容」が語られてました。毎年、四旬節第2主日は、主の変容が朗読されることになっていますが、それぞれ福音記者によって、若干内容が異なった主の変容の出来事が語られています。変容の出来事はイエスの受難と結ばれて考えて、初代の教会から教会の中で必ず大切に朗読されるようになっているそうです。そして、変容のこの出来事を記念して信者を励ましていたといわれています。聖書ではイエスが受難を予告した直後の出来事として語られているのです。今日の福音を聴いただけでは、イエスの受難が弟子たちに告げられた場面が入っていませんので、この出来事だけで黙想することになりますが、聖書を読みながら今日の出来事を聴くと、事前にどんな出来事があって今日の変容の出来事に繋がっていくのか知ると、またちがった意味で黙想を深くすることが出来ると思います。
  弟子たちにとってイエスから告げられた受難のこと、死と復活のこと、まったく理解の出来ないそんなお話しであったと思います。ですから、ペトロはあわてて理解出来ない驚きの中でイエスをいさみはじめたということが聖書に書かれています。でも、イエスをいさめたペトロガまた逆にイエスから叱られるそんなかどでの今日の変容の出来事です。
  イエスが受難の出来事に向かっていく、そして十字架に架かって亡くなってしまうことも理解が出来ず、驚きのお話しだったでしょうし、また、この変容の出来事を直接体験した3人の弟子たちにとって、この出来事もまたどんな意味があるのかという、とても不思議な出来事として理解はきっと難しかっただろうと思います。

 ペトロはイエスの変容と旧約を代表する偉大なエリヤ、そしてモーセ、その3人が語りあっている。そんなシーンを直接目の当たりにして見ています。旧約を代表する預言者、律法を代表するモーセはイスラエルの民にとって、誰もが知っている偉大な旧約時代の預言者であるモーセでした。その人がイエスと話す、とても信じがたい出来事です。ペトロは感動し感極まって「仮小屋を3つ建てましょう。」と聖書は語ります。仮小屋は天にある神の住まいに対して、この地上における仮小屋を意味するかのようです。でも、ペトロがせっかく申し出たこの提案は、受け入れられることはありませんでした。イエスは後に弟子たちに対して、私に従おうとするならば、自分の十字架を背負って私に従いなさい、そういう話しを弟子たちにしています。
 父である神、全能の神はイエスに聞き従うことを弟子たちに求めていたということでしょう。私たちも洗礼の恵みをいただき、神の子となり、新しい命をもってイエスの弟子となり、従う者となっています。ですから、今日のお話しは私たちにとっても四旬節の大切な黙想のテーマが入っていると思います。私たちは弟子たちと同じように本当に真にイエスに従って歩む決心をしているでしょうか。イエスに信頼してイエスの教えを守り生きているのだろうか。そういう意味でも、四旬節、もう一度信者としての原点に立ち返る日々を過ごすことが大切のようです。

  四旬節は新しく生まれ代わろうとして学んでいる、求道者にとっても大切な季節です。これから入門式が始まりますが、洗礼の準備をしている皆さんと私たち教会共同体はどの程度出会って来ているでしょうか。今日初めてそのことを意識された方もいるかもしれません。現実的には日曜日には皆さんはミサに参加されている方々ですが、なかなか個別にお話しをしたりする機会は無かったかと思います。今日をスタートとしてこの洗礼志願者と少しでもともに歩む信仰も大切にして欲しいと思います。何よりもこの洗礼志願者を私たち教会共同体が大いに歓迎して受け入れ、ともに神の子として、イエスの弟子として歩み続ける、その大切さをもう一度学びとりたいと思います。それでは入門式を行います。』

2018年2月18日日曜日

四旬節第1主日 「黙想会:山本孝神父様をお迎えして」

四旬節第1主日を迎えた今日、フランシスコ会司祭 山本孝神父様をお迎えして主日ミサ・黙想会が行われました。


黙想会では、「祈り、笑い、幸せ」についてウィットに溢れるお話をいただきました。



◉祈ること
祈りはキリスト者の基本、土台にあるもの。祈りのない人は薄っぺら人。祈る人は視野が広がる。祈りによって、大事なことに気づく。青山俊董さん著「禅のまなざし」から虻のお話。

◉笑うこと
明日のことに思い煩うな。お笑いタレント「コロッケ」のお母さんの口癖「あおいくま」。焦るな。怒るな。威張るな。腐るな。負けるな。

◉幸せなこと
人に喜んでもらえること。幸せは伝染する。人は一人では幸せになれない。

黙想会・ゆるしの秘跡の後の茶話会で


この日の山本神父様のお説教をご紹介します。

『今年も四旬節に入りました。灰の水曜日の2月14日はパレソタインデーで、わたしの洗礼名(修道名)の記念日でした。わたしは1965年の復活祭に洗礼を受けました。洗礼名をいろいろ考え、洗礼を受けたいと思った日が2月14日だったので、その日の聖人の聖バレンチノの名前をもらいました。フランシスコ会に入会してからも洗礼名をそのまま修道名にもらいました。今年はわたしのお祝い日でしたが大斎・小斎の日でした。
バチカン放送によれば、教皇フラソシスコは、今年の灰の水曜日に、四旬節を『立ち止まり、 見つめ、帰る』機会にするように話されました。虚しく走り回ることをやめ、「立ち止まる」こと。家庭や、子どもたち、若者、お年寄り、病者、犯した過ちから立ち直ろうとする人たちの顔を「見つめ」ること。そして、いつくしみにあふれた御父の腕の中に「帰る」ことです。
わたしは今年の灰の式のとき、額と頭の区別がつかない〇〇さんが来ていたらどこに灰をつけようかとそんないらないことを心配していました。でも、その人がミサに来ていなかったので、すこし安心しました。そして、説教では、これからわたしは、「あなたはちりであるから、ちりに帰るのです」と言って灰をつけます。みなさんは心の中で「ハイその通りです」と思ってください。そうするとほんとうに「ハイの水曜日」になりますと言いました。
四旬節第1主日には毎年、荒れ野における40日間のイエスの試みが読まれます。この日に、教会は洗礼志願式を行うことを勧めています。ある方からここの北1条教会には多くの洗礼志願者がいると聞き、とても羨ましく思っています。四旬節は、復活祭の準備としての祈りと回心の季節ですが、復活徹夜祭に洗礼を受ける人々の直接の準備期間としても形造られてきました。洗礼志願者がこれから神の子として新しい生き方を目指すように、わたしたち信者も同伴者、先輩、仲間として一緒に神に向かって歩みましょう。わたしが洗礼を受けたのは53年前の復活徹夜祭でした。その頃は第2バチカン公会議の直後で、まだ洗礼は復活祭が最適との指針は出ていませんでした。それで、クリスマスや他の祝日にも洗礼式が行われていました。わたしが洗礼を受けたとき、8人が一緒でした。そして、その中のー人は、神学校も一緒に入り、司祭叙階もー緒だった、いまフィリピンにいる佐藤神父さんです。 先日、フランシスコ会のドイツ人の神父さんが89歳で亡くなりました。この神父さんは、晩年は老人施設(月形の藤の園)に入っていたので荷物は少なかったのですが、それでもまだ、 少しのダンボール箱が、修道院のわたしの隣の部屋に置かれています。神さまのところに帰るとき、何も持っては行かれません。
今日、この後で話そうと思っていますが、みなさん、祈りはとても大切です。祈る人には聖霊がとどまってくれます。祈りを大切にして<ださい。毎日、ー番よい時間を個人的祈りにあてるよう工夫してください。アビラの聖テレジアは「お祈りをしない人は、道を踏み外すのに悪魔の案内はいりません。このような人は、自分自身を闇の中へ放り込みます」と言っています。四旬節を、「悔い改めの季節」と考えるより、「今は救いの時、恵の時」と考えましょう。
四旬節は目覚めるとき、神に近づくとき、恵みの時です。』

2018年2月14日水曜日

灰の水曜日

教会は今日の「灰の水曜日」から四旬節に入ります。


この日の後藤神父様のお説教では、
『四旬節の起源は、洗礼準備の季節であったこと。そして、新たに加えられた精神として、信者一人一人が、「祈り、節制、慈善」を持って自分の信仰を見つめ、洗礼の恵みを初心にかえって思い起こし、新しい心で出発すること。』
というお話がありました。

「灰の式」では、司祭に祝福された灰を「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」と額に受けました。

2018年2月11日日曜日

年間第6主日 世界病者の日

今日は教皇ヨハネ・パウロ2世が定めた「世界病者の日」です。
福音では、イエスが重い皮膚病の人をいやす奇跡が朗読されました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の主日を持って、新しい季節に入ろうとしています。今週の「灰の水曜日」から四旬節です。
  今日の福音はイエスが宣教に出かける日々の中での病気の人を癒すみ言葉でしたが、皆さんはどのように受けとめ考えているでしょうか。病気は誰もが無関心ではいられない。風邪をひいたり、ちょっと体調が悪いと感じている方もいるでしょう。そういう意味では健康でいるとは簡単なことではないと思います。健康で有り続けることは私たちにとって夢でもあると思いますが、難しさを感じます。
 
 今日は「世界病者の日」です。いろいろ考えさせられる日になっています。世界病者の日は教皇ヨハネ・パウロ2世の時代、1993年に制定されました。病人のことを考え、祈りましょうというのが趣旨です。この日に教皇様は毎年メッセージを出しています。カトリック新聞に全文が載っています。(https://www.cbcj.catholic.jp/2018/02/06/15915/)この日は「ルルドの聖母の日」でもありますが、教皇様はマリアにふれながら私たちに呼びかけています。その一節を紹介します。
「7.いつくしみの母であるマリアに、わたしたちは心身に病を抱えたすべての人をゆだねます。マリアが希望のうちに彼らを支えてくださいますように。また、病気で苦しんでいる兄弟姉妹を受け入れることができるよう、マリアがわたしたちを助けてくださいますように。」
教皇様の意向に少しでも答えられるようこのミサの中で祈りましょう。 
 また、日本の司教団もこの日にあたり意向を示されています。「病者がふさわしい援助を受けられるように、また苦しんでいる人が自らの苦しみの意味を受け止めていくための必要な助けを得られるように、カトリック医療関係者だけでなく、広く社会一般に訴えていかなければなりません。」

 先週も、ペトロのしゅうとめが熱を出してという病気を抱えた話しがありました。病気は罪の結果なのだろうか。その不幸は神様の怒りなのだろうか。いくらそうではないと言われても、心の中は不安を抱きます。イエス様の時代はそのような考えが多かったといえます。病気は罪の結果である。広く一般に考えられたのでした。罪の悔い改めのため犠牲を捧げました。今日の福音は「私は宣教するために来た。」という先週のみ言葉に続くものです。病人に対するイエスの行為とその態度をどのように見ているでしょうか。先週のイエスの姿は特別な姿です。イエスがそばにいき手をとって起こされる。熱は去った。今日の福音では、イエスが深く憐れんで手を差し伸べてその人に触れ、と表現されます。病んでいる人、苦しんでいる人に近づき、イエスは手をとって支えます。イエス様の一言でその人は清くなった。
  イエスのところに来た人、近くにいる人を深く憐れんで、同情を注がれイエスは行動に移っていきます。愛の眼差しばかりではなく、時には厳しい場面も聖書では描かれますが、癒しを受けた人は周りの人に伝えていくことになりました。イエスの福音宣教の効果かもしれませんが、ペトロのしゅうとめの話しからも、その噂は広まっていったのでしょう。
 当時の人々は何百年も続く他国からの支配によって苦しい生活を余儀なくされていました。
そういう中で熱心な信仰を持つ人々は、メシアが私たちのもとにやってくるという期待を持っていました。イエスが奇跡を起こされた話しは、そういう人々の中で広まっていくのは当然のことと考えます。治せないはずの病気が治った。歩けない人が歩き出した。目の見えない人が見えるようになった。これらは神の栄光を表す業として行ったのですが、人々にはそれ以上の驚きでした。中には癒されて自分の心が百八十度変わって、信仰に目覚めた人も多かったかもしれません。しかし、目先の利益だけを求めて集まった人も少なくなかったでしょう。イエスはまた、癒された人をすぐ自分から離れるように促されました。これは不思議に思いますが、真の救い主メシアの誤解を招かないためでした。目先の利益を求める人を恐れたからもしれません。大きく広まるイエスの福音宣教の壁となったのかもしれません。イエスの福音宣教は神の愛を知らせ、一人ひとりの中にその愛を実現させるためでもありました。奇跡はその救い主としてのしるしでしかありませんでした。
  今日の福音に登場する重い皮膚病の人というのは、現在では差別用語で使われなくなった「○○病」を表す病気であったと言われています。つい先日、真夜中でしたがテレビで「ベンハー」の映画が放映されていました。何度もこれまで観ていますが、その度に感動を覚えています。今回も重い皮膚病の母親と妹が癒されるシーンを眺めていましたが、新しいことに気付かされるのですね。

  いずれにせよ、私たちは時に、自分のいたらなさ、弱さ、罪からこんな不幸を負うという思いがありますが、必ずしもそういうことではないと教会は言い続けています。不幸の中にあっても、神の祝福はその人から離れないことを、私たちはもっともっと信じなければいけない。病気の中にあっても神様は私たちを祝福してくださっている方。ですから、希望や信頼を見失うことなく、私たちは生きなければなりません。
  そういう想いで今日のみ言葉も、深く黙想することができるような気がします。私たちの信仰は目先の利益を求めるための信仰ではないということを、もう一度心に留めたいと思います。そして、病気や苦しみによって神の愛を見失うことのない信仰を、私たちはもう一度、願い強め成長させたいと想います。
 今日は「世界病者の日」であることも心に留めながら、病気の人に寄り添い、その救いのために支援のために、私たちの祈りと私たちの出来る支援を続ける決意をいたしましょう。』

主日ミサの後に、毎年この時期に行われる「雪割り」がありました。
男性信徒が中心となって、屋根に溜まった雪や氷を降ろしました。
今年は例年よりも雪が少ないとはいえ、湿気を含み重たくなった雪や氷を協力して片付けました。


心地よい汗を流した後は、女性陣が用意して下さった温かい豚汁に舌鼓をうちました。
皆様、大変お疲れ様でした。

2018年2月10日土曜日

札幌教区カトリックセンター竣工式(2月10日)

建設が進んでおりました札幌教区の新司教館(札幌教区カトリックセンター)が完成し、2月10日(土)10:30から勝谷司教の司式により竣工式が行われ、北海道内の各地の教会と修道会から100名以上の関係者が参列しました。



共同祈願が捧げれた後、勝谷司教によりセンター内が祝福されました。



また、札幌教区司教座空位の2009年から2013年まで教区管理者を務められ、私たちも大変お世話になりました菊地功大司教(東京教区)もご臨席され、祝辞を賜りました。

竣工式の後、祝賀会が行われました。


今後、このカトリックセンターを中心に、新たな福音宣教の歩みが始まろうとしています。

2018年2月4日日曜日

年間第5主日

来週は「灰の水曜日」を迎え四旬節に入ります。
今日の集会祈願では
「神様は悩み苦しむ世界に救い主を遣わしてくださいました。私たちが今日祝う教会の秘跡をとおして、全ての人をいやしてくださるキリストに出会うことができますように。」というお祈りがありました。

今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。


『来週は「灰の水曜日」を迎え四旬節に入ります。
今日の「聖書と典礼」の集会祈願には、「神は悩み苦しむ世界にイエス・キリストを遣わされた」という内容の祈りが入っています。
神は愛する我が子を悩み苦しむ世界に遣わされ、私たちは救い主イエス・キリストと出会い祈りを捧げます。
私たちはイエスの十字架によって救われ、その憐れみを受けていると、頭の中では理解している私たちですが、そのイエス・キリストをどこまで信じ、信仰を生きているでしょうか?祈りが終わってしまうと、イエスの十字架によって救われている私たちであることを忘れてしまっているような気がします。私たちが信仰を生きるということは簡単なことではないと感じます。

私たちは教会に集まり、ひとつになって教会で主の祭壇の前に一致して祈りますが、その祈りは自分のためだけではないと言うことは言うまでもありません。皆さんの祈りは家族や身近な人、また、社会に目を向けての様々な祈りがあります。私たちの教会ではミサの前に祈りを捧げていますが、その時は教会の意向を捧げ、隣人への祈りをしています。教会共同体の一人として考える時、静かに座っている隣の人のことを皆さんはどの程度意識されているでしょうか。私たちの共同体の一人であったとしても名前も顔も初めて見るような人が自分の隣に座っているのかもしれません。隣に座っている人の名前も知らず、言葉も交わすことなく、私たちの祈りが捧げられるとすると、少し寂しいことではないでしょうか。
時折、聖堂が私語で騒がしいという声が上がることがあります。「聖堂は祈りの場所ですから、私語のお話は慎みましょう」というのが一般的な考え方です。でも視点を変えて、祈りが大切であると考えるとき、悩み苦しむ人のために祈るとするならば、その人の痛み、苦しみに触れ、寄り添うということは、祈るうえでとても大切なことになってきます。しかし、そのことを知ろうとしなままにしていることが多いのではないでしょうか。
祈りの場である聖堂の中で話をすることは、あまりよくないことであるなら、どのような方法が考えられるでしょうか。お互いのことをよく知らない共同体のために、何か工夫が必要ですし、考えていかなければならないことです。
ミサが終わって、帰り際にでも言葉を交わし、少しでも教会で出会った人のことを知るならば、次の週のミサの祈りも変わってくるような気がします。
私たちが隣人のために祈るときには、少しでも相手に寄り添い、相手の痛みに触れながら、神様からの力がその人に与えられるように、もっと心を込めて祈ることができるのではないでしょうか。
神を知り、信じる人たちがこの教会に来ています。過ちに気づき赦しを願い、再び神の恵みを知り力強く生きるために、この教会に来て祈りを捧げる人も大勢いると思います。今抱えている苦しみと痛みが癒やされることも大切です。

人と人とのつながり、触れ合い、助け合いの心が変わってきて、このままではいけないと気づき始めている私たちでもあります。
もう一度、私たち一人一人が大切にしなければならないことを見つめ、私たちの生活や信仰に結びつけることが求められているのはないでしょうか。
今日も私たちは、御言葉をとおして黙想し、主イエスの姿に目を上げて、宣教するイエスに私たちもつながっていくことが出来るように祈りましょう。』

2018年1月28日日曜日

年間第4主日

今日の福音では、ガリラヤ湖畔の街カファルナウムでのイエスの最初の活動の様子が語られました。

今月の31日は後藤神父様の霊名 聖ヨハネ・ボスコ司祭の記念日です。
ミサの後、日頃の感謝を込めて霊名のお祝いが侍者の子ども達から手渡されました。


神父様から一言ご挨拶をいただきました。

この日の後藤神父様のお説教は、ただ今準備中です。



『おはようございます。厳しい寒さが続く札幌です。
 今日の聖書のお話し。皆さんはどのようにそのみ言葉を受けとめ、どのようなイメージが広がっているのでしょうか。今日の聖書の背景にはガリラヤ湖があります。ヘルモン山の雪融け水が、ヨルダン川を経てガリラヤ湖に注いでいます。私たちはガリラヤ湖を何となく地図の上で想像するのですが、一番北側にはカファルナムという町があったそうです。そのカファルナムの街道にイエス・キリストは今立っています。現在もその遺跡が保存されているそうです。かつて、当時のカファルナムの街には二千人の人が住んでいたという記録が残っているそうです、そして、その町にはペトロの家があり、イエスが宣教したシナゴーグ(会堂)の跡があるそうです。また、パンと魚の奇跡の教会が建てられて現在に至っています。会堂のある湖畔から湖を見渡す、花が咲き乱れる小道をガリラヤ湖から向かってくると小高い丘になります。その道を登っていくとイエスが山上の垂訓を語って弟子たちを祝福した、現在は美しい八角形の教会があります。山上の垂訓教会が見られるそうです。そういう背景がある中で、このみ言葉が語られていると私自身想像して、黙想しています。

 2千年前、いよいよイエスの公生活が始まり、12人の弟子たちを選んだイエスは福音宣教の旅を始めます。会堂に入ってイエスは、新天地が開かれるときが来たと、神について会衆に語ります。どんなことが話されたのか、今日のみ言葉では触れられていませんが、神についてイエスは語っている。律法学者のようではないという表現が聖書にありますから、口先だけで神の教えを述べている律法学者ではなく、権威ある教えをイエスは会堂で会衆に向かって話していたようです。
 イエスは神について語るだけではなく、病気の人の癒しも行っていたというのが今日のみ言葉でも語られています。口先だけでなく行動においてもイエスは新しい時代を告げ知らせ、行動する人でもあったようです。当時の社会は貧しい人が多いだけではなく、未発達の科学や医学の中で、原因不明の病気もたくさんあったでしょう。今の私たちには簡単に治せる病気も、当時の病気には治せない病気がたくさんあったと思います。病気に苦しむ人が大勢いた。会堂の中で、イエスの話しを聞いている一人が突然イエスに向かって叫びます。「我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」汚れた霊に取りつかれた人の叫びに周りの人々も驚きました。こういう言葉だけを聞くとびっくりするでしょう。神の聖者という言葉でさらに驚くでしょう。普段聞くことのない神の聖者。驚きながらその人に沈黙したと思います。霊に取りつかれたこの病人は、イエスを初めから正体は分かっている、神の聖者だと認めています。そこにも不思議を感じますがイエスのかけたひと声。「黙れ。この人から出て行け。」そのひと声で霊に取りつかれた人は変わって病気が回復します。その人の苦しみが開放される瞬間が始まりました。イエスの権威に溢れたひと声が、このカファルナムの町の状況を一変していく宣教が始まるようです。
 ナザレの小さな田舎で人知れず、ごく平凡に暮らしていたと思われるイエス。でも、イエスはヨハネが捕らえられた後に、カファルナムに移り住んだとも言われています。イエスが語り、教え始められると人々はその教えに圧倒されます。その教え、言葉、存在にも力強さが満ち溢れていたのでしょう。人々の心さえも揺さぶるイエスの教えであり、言葉でした。権威に満ち溢れ、慈愛に満ち溢れたイエスの言葉。人々の心を捉えていきます。イエスの宣教の姿がそこに重なっていきます。言うべき時ははっきりとイエスは話されています。時には厳しい言葉にもなったかのようです。伝えるべき内容が中味のない言葉では人の心の中には響かないと思います。触れあう心と心で生きることが出来ていないと感じることがあります。私たちは出会いをとおして、触れあう人と人との関係を大切にしています。本当に心と心の触れあいを感じる言葉や行動に接すると安心も感じます。時には、その言葉、行動によって希望も温もりも感じられます。イエスの権威や言葉はきっと人々に心の変化を促していったと思います。心と心の触れあい、それが信頼へと繋がっていったと思います。語る言葉にごまかしやいつわりがあっては相手にとっても空しいことばかりだと思います。私たちもそうしたとき心を使って大切にしていきたいと思います。

  今日のみ言葉の中に見えてくるイエスの姿から、信じることへのひたむきさ、出会う人への愛、無心な努力。そこにイエスの命をかけて捧げる仕える心もまた感じてきます。ひたすら真っ直ぐに突き進むように、燃えるような愛の心が私たちも必要かもしれません。神の国を告げ知らせ、神の国へとひとり一人を導こうとするイエスのひたむきな態度。私たちも心をそこに向けていくと思いますが、溢れる愛、命の確かさ、権威と光が人々を引きつけているということを、これからイエスの福音の姿をとおして、私たちはこの一年間、学んでいきます。み言葉をとおして接していきます。
 私たちの心を引きつけるマザー・テレサの祈りを紹介します。「主よ私をお使いください」
という祈りに、イエスの宣教の行動が重なって感じています。

                 「主よ、私をお使いください」
   主よ 今日1日 貧しい人や病んでいる人々を助けるために  
    私の手をお望みでしたら今日 私のこの手をお使い下さい
   主よ 今日1日 友を求める小さな人々を訪れるために
    私の足をお望みでしたら今日 私のこの足をお使い下さい
   主よ 今日1日 優しい言葉に飢えている人々と語り合うために
    私の声をお望みでしたら今日 私のこの声をお使い下さい
   主よ 今日1日 人というだけで どんな人々も 愛するために
    私の心をお望みでしたら今日 私のこの心をお使い下さい
 主よ私をお使いくださいというマザーテレサの祈り。マザー・テレサはこの祈りにあったように、自分の信仰を全身全霊をもって生涯、主のために自分のすべてを使い天に召された方です。

 神の世界のすべての人に伝える、これがイエスの使命でした。口も手も足も、すべてを使ってイエスは神の国の宣教に翻弄されていきます。私たちもイエスの手、足となって福音を伝えることは大切なことです。私たちに出来る福音宣教。愛のメッセージを伝えることは言葉だけでなく手も足も使うことが必要です。手も足も言葉も使いキリストの愛を伝えていく私たちの信仰生活になります。私たちはそのためにも、強い信仰に支えられなければならないはずです。今日も心の目を開けて心から祈り、そして新しい一週間に向かって歩んでいきましょう。』


2018年1月21日日曜日

年間第3主日

今日の福音は先週と同じように召命がテーマです。
私たちは神の呼びかけにどう応えようとしているでしょうか。



今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『昨日は「大寒」ということで、暦の上では一年で最も寒い季節を迎えていますが、冬至が過ぎて日中の時間は少しづつ長くなって来ており、春も少しづつ近づいて来ているようです。毎年、雪道で滑って転んで怪我をされる方がおりますが、そのようなことがないよう願っております。

さて、先週はヨハネの福音が朗読され、ヨハネがイエスを見て「見よ、神の子羊だ」と弟子たちに示しました。その出会いによってヨハネの弟子たちはイエスとともに過ごし始めるという召し出しの話でした。今日はヨハネの福音からマルコの福音に変わっていますが、内容としては同じ状況のなかでの召し出しの話が語られています。先週のお話では、シモンがイエスからケファという名前をいただいたということが触れられていました。新しい名前をもらうということは、イエスとともに新しい命を歩み始める、神の命をいただくということにも繋がっていきます。私たちも洗礼の時に、「洗礼名」という新しい名前をいただいて、新しく生まれ変わって信仰の道を歩み始めています。
年間の季節が始まり、聖書はヨハネの準備の時が終わって、新しい時代の転換が始まったということを語っています。「新しい時」を迎えたことを、今日のマルコの福音ではイエスの言葉として「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と記されています。新しい時を迎えて、ガリラヤの漁師たちはイエスの弟子となって、宣教の協力者になるのです。これは洗礼者ヨハネの逮捕のすぐ後のことだと聖書は記しています。
召命・召し出しということを私たちは心に留めて今日のみ言葉を味わい、私たちは神の呼びかけに対してどう応えようとしているのか、ということを黙想する一週間に繋げていきたいと考えています。

今日のメッセージは、「時は満ち、神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい」というイエスの福音生活の第一歩の言葉が述べられているように思います。
弟子たちへの招きは、もう皆が待ち望んできた救いの時は終わって、今、時は満ち、まさに決断の時に至った。それは救いを信じて歩み出す時である。そのことを強調しているのではないでしょうか。
神の国とは、パウロのことばを借りると「食べたり飲んだりすることではなく、聖霊によって与えられる正しさ、平和、喜び」ということを表すということが話されます。それは神の支配によって神の愛がゆきわたる国のことです。
福音を信じるとは、キリストによる救い、キリストの無限の愛にもとづく救いの計画の実現を信じることです。福音とは「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」ともいえます。
そして宣教は、まさにキリストによって実現される救いを信じ、キリストを受け入れ、キリストに生きよ、ということです。キリストそのものは宣教そのものでもあるといえると思います。キリストと出会い、キリストを知り深め、それを生きることは私たちの福音を生きるということにつながると思います。

イエスは神の国の実現のために、自分の協力者を求めます。イエスは最初に二人の漁師である兄弟を見て、自分に従うように招かれました。私たち一人一人も神が私たちを見出して招かれた一人一人ではないでしょうか。私たちはその招きに応えて、信仰の道を歩んでいるのではないでしょうか。私たちはその招きにどのように応えているでしょうか。応えようとしているでしょうか。
弟子たちの召命の姿を黙想しながら、私たち一人一人に呼びかけられたその招きを黙想しながら、具体的に生きることを私たちは見出していかなければなりません。
弟子たちの召命の姿には、キリストの宣教の呼びかけに応える弟子たちの決意や選択というものがはっきりと現れています。彼らは網を捨て、父ゼベダイと雇い人たちを船に残してキリストに従ったことは、主の呼びかけに必要ならば全てを捨てて従っていく、根本的な悔い改めの姿を表しています。弟子たちは招かれた時、その選びを受け入れキリストに従う者となりました。
私たち一人一人が従う道は様々であると思います。12人の弟子たちと同じように生きなさいということではないと思います。しかし私たちも心を新たにして、キリストに従うことができるように祈らなければなりません。

皆さんご存知のように、キリストからの召し出しを受けて、この春、神学校に入る青年が一人いるということを発表しております。そしてこの春、札幌教区に叙階の恵みを受ける二人の神学生がいることを皆さんは既に御存知だと思います。一人は箕島神学生が助祭叙階の恵みを受けます。そしてもう一人は、佐久間助祭が司祭の叙階の恵みを受けることになっています。私たちにとっては喜ばしい日が来るということだと思います。
召命による歩みは「悔い改めて福音を信じなさい」ということにも繫がるでしょう。しかし、悔い改めて福音を信じなさいということは、単に自分が何かを反省するということではないはずです。もっと大切なことは、神の国が近づいたという恵みに応える決心を持って歩むということです。
今月の18日から始まっているキリスト教一致週間は今日で4日目ですが、4日目の祈りの中に次のような祈りの言葉がありました。
神の右の手は、わたしたちが行きべき道を指しておられます。その道はあまりにも混乱し、迷いやすい道です。それでも、神の右の手は導いてくださいます。」
召命を生きるということにも繫がる言葉に私は感じました。

どんな試練の中にも神の力が働くことを信じること。そしてこの春、その召し出しに応えて、神学校へ向かう一人の青年がいるということ。既に神学を学んできた二人の神学生が叙階の恵みをいただくということ。彼らの上に神の恵みを祈るとともに、私達自身一人一人の上にも神の恵みに応えて生きる力と希望の召命の恵みを祈りたいと思います。』