2014年5月25日日曜日

復活節第6主日 大塚司教様が司式されました

 今日の主日ミサは京都司教区の大塚喜直司教様が司式されました。
大塚司教様は、列聖列福特別委員会委員長を務められており、高山右近の列聖列福に向けた活動を行われております。
 今回は北一条教会で行われた講演会「現代にひびく右近の霊性―揺るぎない信仰に根ざした生涯」のために北海道に来られました。



大塚司教様のお説教の一部をご紹介します。

『今日の福音では、最後の晩餐の席でイエス様が弟子たちに、「あなたたちをみなしごにはしない、聖霊をおくる。」と約束されます。そしてそれを実現してくださるのが、私たちに注がれている聖霊というものです。
 聖霊と聞くと、私たちは公教要理の父と子と聖霊の三位一体のようなことをイメージしてしまい、なかなか自分の信仰生活と結びつけて考えることが難しい面がありますが、それほど意識しなくても、私が神様のことを感じたい、神様が私を助けて下さっていると感じるとき、その時、聖霊が私の中で働いているという意味でいいと思うのです。
復活節は、復活されたイエス様が私たちとともに生きていることを実感する、それを喜ぶ季節です。
 私が今日お話する高山右近も、聖霊の働きによって信仰を選んでいけたのだと思います。
 今日私たちは、助け主、弁護者という聖霊の呼び方を聞いて、二つのことを心に刻みたいと思います。一つは、私が神様に助けられている、励ましてくださっている、辛いとき、寂しいとき、孤独なときに神様が私の傍にいてくださる、そのはたらきをしてくださるのが聖霊です。二つ目は、私が誰かのそばにいてその人を励ましてあげるということ、でもそれは私の力ではないのです。私が誰かの傍にいくとき、その人の傍に神様がおられることをその人に気付いてもらえるからです。
 教皇フランシスコが、就任されてから一年になりました。皆さんも教皇様がどんな人柄かをご存知だと思いますが、教皇様は弱い立場の人、貧しい人の傍に、寄り添わなければなりませんとおっしゃています。そしてご自分も、教皇としてのはたらき、振舞いの中で、誰かの傍に寄り添うということを象徴的になさっているように思います。聖週間の聖木曜日に行う洗足式を、教皇様は今年、ローマ郊外の障害者の施設に行かれ、16歳から86歳までの12人の足を洗い接吻なさいました。そして昨年、教皇になって初めての洗足式は、ローマの少年院に行って、囚人たちの足を洗われました。その中には3人の女性、3人のイスラム教徒もいました。順番を待っている青年たちは涙を流していました。教皇様の中に神様の愛を感じ、神様が私の足を洗っている、そのことを感じ涙が出てきたのだと思います。
 神様は私たちのことを励ましてくださっていると、いくら口で言っても、周りの人には響かないかもしれません。それよりもまず、私の傍に神様がいて、私は神様の力で生きているという体験や実感がなければならないと思います。
 3年前の東日本大震災が起こった直後に、仙台の女の子がベネディクト16世教皇に、「どうして私はこんな酷い目に会わなければならなのでしょう?」と質問しました。教皇様は彼女にこう答えました。「どうして?と言われても私にも答えはわからない。でも私は、あなたの傍に、被災した人たちの傍に、今、神様がいらっしゃるということをあなたに分かって欲しい。」
普通ならば、「そう思いなさい」と押し付けるような励ましに方になったかもしれません。でも教皇様は、「神様が傍にいることを、私は知っている。それをあなたに知って欲しい。」とおっしゃられました。これは慰めというよりも、教皇自身の信仰宣言のようなものだといえます。
 今日、イエス様は「いつまでもあなたがたとともにいる」という約束を一人一人に実現してくださっています。
 このことを私たちは、普段からもっと気付き、気付いた分だけ周りの人に、そのことを自分の体験として伝えていく、そのような意味で派遣されいるということを思いながら、今日のミサを与かりたいと思います。』


ミサの後、カテドラルホールで後藤神父様の歓迎会が行われました。


後藤神父様からのご挨拶(左隣は大塚司教様)


大塚司教様からもご挨拶をいただきました


2014年5月18日日曜日

復活節第5主日

今日の新聞では、あちこちの峠で積雪があったという報道があり、今朝のニュースでも、道東、オホーツク方面では雪が降るかもしれないというニュースが流れていました。
札幌では初夏の訪れを告げる風物詩「さっぽろライラックまつり」が16日から大通公園で始まりましたが、今日の最高気温は11℃と「リラ冷え」という言葉がぴったりの肌寒い一日になりました。体調管理にはくれぐれもお気をつけください。

今日の主日ミサは後藤神父様の司式で行われました。


ミサの後は教会総会が行われ、今年一年の取り組みについて話し合われました。


後藤神父様の今日のお説教の内容をお伝えします。

『皆さんは今日の御言葉をどのように聞いたでしょうか?
私たちが祈ったり、御言葉に耳を傾けるときは、きっと一人一人がそれぞれの願いや思いを持って神に向かっていると思います。皆が同じだとは思いません。
でも自分の思いが優先していたり、片側通行でのみ祈りをしていたら、果たして神様からの恵みの言葉が、心に届くのでしょうか?心に響いてくるのでしょうか?
神様の慈しみは、私たちの祈りをとおして、注がれていると思いますが、ただ自分の思いや願いを一方的に祈るのでは、その神様の慈しみは心に響かないのかもしれません。
祈りは一方通行ではなく、神様からの声も聞く、神様からの恵みを受ける気持ちで祈ることで、神様からの恵みも私たちの心に届いてくるような気がします。
近い将来何か大きな変化が起こると知っているなら、周りの人が動揺しないように心がけるのは当然のことだと思います。弟子たちに信頼され、何より大きな期待をされていることを知るイエスは、弟子たちの将来のことを心配していたことでしょう。イエス自身は、父なる神が示された自分の使命を全うすることにもう心は決まっていました。自分の道をひたすら歩み続けるイエスでしたが、弟子たちの将来を考えるなら、いろんな思いがそこに溢れてきたのかもしれません。この先、真理が否定されてしまう。そして自分は十字架の死を受け入れなければならない。そうなると自分がいなくなった後、弟子たちはどうなるだろうか?イエスは自分の使命、自分の道を見つめながら、また自分の去った後の弟子たちを見つめていました。ですから、今日語られている御言葉の状況を私たちはまず確認して黙想に入らなければならないでしょう。
今日の御言葉は、イエスと弟子たちの最後の晩餐の席で語られた内容であるということを、私たちはまず心に留めてこの御言葉を聞かなければならないと思います。
12人の弟子たちは食事をしながらイエスから話を聞いています。でも話を聞いていてもイエスが死ぬなどと考えることが出来ずにいた弟子たちでした。でもそのことを告げるイエスには、彼らのこれからの心の動揺が見えています。イエスの死に直面した弟子たちは、何に頼っていいのか、目の前が真っ暗になって、自分の立ち所を見失い、逃げ出してしまう弟子たちも現れます。
私たちは御言葉を聞くとき、御言葉に耳を傾けるとき大事なことは、いつもイエスの立場に自分を置いて、御言葉を聞くという姿勢が大事になるということを、今日私たちは学びたいと思います。自分の思い、都合だけで、耳を傾けるのではなくて、イエスが語るその時の状況も考えながら、イエスは私たちに何を語ろうとしているのか、そんなことも併せて耳を傾けることが出来ると、もっと心に響く恵みが私たちに届けられるような気がします。
自分の一方的な都合だけで御言葉聞いていたならどうでしょうか?自分はイエスを愛している信じていると言いながら、イエスが受けた傷に何の痛みも感じない、イエスの苦しみに心騒ぐことも全くない、そうだとしたら、イエスが言われた「私は道である。真理である。命である。」と私たちに告げたとしても、私たちはそれが一体何なのか理解できないのではないでしょうか。イエスの言葉と、私たちの信仰はどこでどのように結ばれているかを、私たちはもう一度考えてみなければなりません。
イエスの道、イエスの真理がもし歪められたとき、私たちの信仰はどうでしょうか?私たちの信仰は揺らぐでしょうか?自分の生きる基盤を失ってしまうのでしょうか?それとも私たちには現在の安定した生活があるから、心騒ぐことなど何もないと言ってしまうのでしょうか?
自分の立場か、イエスの立場に立つかどうかで大きく変わるのも信仰ではないでしょうか?
今日の第1と第2朗読の御言葉は、力強い弟子たちの行動が表されています。復活した主に出会って変えられた弟子たちは、本当に逞しい力強い働きをしています。イエスに出会い信じた人たちの働きはどんな困難も乗り越えられる姿を第1朗読は示しています。支えあい助け合う力強い一致がそこにはありました。
ペトロは言っています。「神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」
私たちはどのような霊的ないけにえを献げているでしょうか?毎日曜日に教会に入るとき、どのようないけにえを持ってきているでしょうか?霊的ないけにえを献げることによって、私たち一人一人の信仰の力が心に響いてくるようになりたいを願います。
私たちの信仰をミサをとおしてより良く具体的に生きる為に、こんな霊的な献げかたがあるかもしれません。日曜日のミサに来られたとき、ホスチアをチボリウムに入れるとき、私たちの過ごした1週間の体験したこと、その喜びや苦しみ、感謝の気持ちを献げものとして、霊的ないけにえとして奉納できたらすばらしいことだと思います。
私たちは、ミサに与かり御聖体をいただくだけではなく、霊的な献げものをとおして、イエスの体を分かち合っていただくことが大切だと思います。
私たちの霊的ないけにえを託した小さなパンは、いつも一つの器にまとめられて祭壇に奉納されています。そしてそれがミサの中で祝別され、私たち一人一人が分かち合うキリストの体となり、パンとなってまた分かち合われることになります。自分が献げた小さなパンは、尊い聖体として、自分に戻ることがあるかもしれませんが大抵は他の誰かのところに向かうのだと思います。ですから自分が献げた喜びや苦しみや悲しみや感謝の心が、キリスト体につながれて、私たち教会の共同体の一人一人にまた配られていく、託されていくのだと思います。まさに私たちの思い、実りや苦しみがまた教会共同体が皆で分かち合い受け止めることになっていくんだと思います。これからは、献げものがいつも選ばれた民、神のものとなった教会の信徒の一人一人が受け止めてくださっているということを心に留め、このミサを大切にしていきたいと願います。
イエスを放り投げて我が身が大事と逃げ出した弟子たちがかつておりました。でも私たちもその弟子たちと同じような弱さを持っています。私たちも困難に立たされたとき、その弟子たちと同じように逃げ出してしまうかもしれません。私たちは自分が考えている以上に強くはありません。弱いのが私たちです。でもイエスはその弱い私たちの全てを知っておられる方、全てを見ていてくださる方、弟子たちがそうであったように、私たちも復活の主に出会って、弱さを強さに変えてくださるように祈らなければならないように思います。』

2014年5月17日土曜日

「カリタス家庭支援センター」開設10周年の集い

平成26年5月17日(土)カトリック北一条教会で、
「カリタス家庭支援センター開設10周年の集い」が行われました。

10時からは、勝谷司教様の司式による10周年記念ミサが行われました。


ミサが終わった後、引き続き聖堂で、代表の堤邑江さんから活動報告がありました。



カリタス家庭支援センターは、平成16年5月10日に北一条教会の隣接するベネディクトハウス内に開設されました。
センターの理念は、
「キリストの愛の精神にもとづいて、支えあい、学びあい、共に今を生きる。」
基本方針は、
「一人ひとりが、かげがえのない人として大切にされ、その人らしく生きていくことが保障されるよう共に考え、解決をめざして支援します。」

代表の堤邑江さんが、「あえて専門分野を設けない、よろず相談所です」とおっしゃられていたように、人生を生きる中での、苦しみ、悩み、重荷を背負う人に、無料で相談にのってくれるところです。

センターの運営は、教区からの助成金、寄付、会員、賛助会員からの会費で賄われていますが、財政的にはとても苦労されているようです。
安定して運営していくためにも多くの支援を必要としています。
 
寄付、会員、賛助会員についての詳しい情報は下記をご覧ください。↓
https://sites.google.com/site/katedoraru99/o-zhirase/huiyuan%E3%83%BBzanzhuhuiyuannomuji-karitasujiatingzhiyuansenta-

2014年5月11日日曜日

復活節第4主日『よい牧者の主日』 - 後藤神父様の初ミサ - 

札幌の気温は、5月ではめずらしく24℃にもなりました。
朝晩の寒暖差がはげしくなっていますので、どうか体調管理にはくれぐれもお気をつけください。

今日は、「よい牧者の主日」とも言われます。そして「母の日」でもありました。
後藤義信神父様が着任後の初ミサを司式されました。

 

後藤神父様のお説教をご紹介します。

『この度の教区司祭の異動は例年になく大規模なものでした。私もその一人なのですが、皆さんと供に歩むこととなった後藤義信と申します。私は、先日列聖されたヨハネパウロ2世教皇が来日されたと同じ年の1981年4月29日に函館で司祭叙階を受けています。その前の年の助祭叙階はこの教会で受けています。
北一条教会は司教座聖堂でもあり特別な教会です。私たち司祭にとって、また神学生にとっても認定式、助祭叙階式、司祭叙階と非常に縁のある教会でもあります。また、聖香油のミサや教区の大きな行事、そして司祭の葬儀などもこの教会で常に行われていますので、札幌以外の司祭もこの教会にはお世話になり、共同司式のミサをあげてきています。
私がこの教会を訪れた際いつも最初に目にしていたのは信徒やボーイスカウトの皆さんが駐車場の整理などで一生懸命奉仕されている姿でした。この司教座聖堂の信徒の皆さんはご苦労が多いのだろうなと感じ心の中で感謝していました。この度あらためてこの教会の主任司祭として着任しましたのでどうぞよろしくお願いいたします。
先日、函館を出発する前に、北一条教会から葬儀の連絡があり、着任早々に皆さんのお手伝いをいただきながら葬儀を終えることができました。当初は今日の主日ミサで皆さんにお会いする心づもりでいましたが、そのような訳で着任早々たくさんの人たちとの出会いからスタートすることができました。もしかするとそれは一日も早く教会に溶け込むようにという神様の計らいであったと思います。
今日は、私にとって着任後の初ミサとなります。でも皆さん方にとっても今日は特別な日ではないでしょうか。
今日は世界召命祈願の日です。そして母の日でもあります。特別な日が2日重なっているように思えます。
復活節第4主日は「良い牧者の主日」とも呼ばれます。今日のみ言葉は羊と羊飼いの例え話になっています。かつてはこうしたテーマは教会として、司祭と信者の関係を羊と羊飼いの関係と関連付けて考えられてきましたが、現代の教会は信徒の自立を強く求められる時代となっています。ですから羊と羊飼いの関係もまた皆さんと一緒に教会として深く見つめていかなければならないと思っています。
また召命というテーマについては、これから特に大事なことになってくるテーマだと考えています。もちろんこれまでも大きなテーマではあったはずですが、私は皆さんと一緒にもっとこのテーマについて深く考えていきたいと思っています。なぜかというと、誰もが口にしている高齢化社会とか、司祭の減少といったことに私たちはついつい耳を傾けてただ心には留めてはいるのですが、では実際にはどう立ち向かっていくのかということについては、なかなか進んでいないのが現状ではないかと感じます。ただ留まっていたのでは、これから教会はどうなってしまうのか心配でなりません。教会の将来の光がだんだん小さくなっていくばかりのような気がします。召命があって初めて、教会が皆さんと一緒に栄えていくことができると思っています。ですから私たちの召命に対する真剣な取り組みが必要になってくると思います。
教会に子供や青年がいなくなったとよく言われますが、本当にいなくなったのでしょうか?確かに少なくなっていることは現実かもしれませんが、私は疑問に思っています。少ないとはいえ信者さんの子供さんは、教会の名簿の中には必ずいるはずです。ただ教会にみえていないという印象だけが強くなっていて、そのような言葉が氾濫してしまっているのではないかと感じます。このことについて私たちはもっと考えていかなければならないことがいくつかあると思います。子供たちや青年が本当に教会に受け入れられいているのか、成人した私たち大人が本当に子供を迎え入れているのかどうか、青年たちが活動しやすい環境になっているのか、そういうことをもう一度考えてみる必要があるのかもしれません。子供を育成し、青年を受け入れていく方法をみんなで考え築いていくならば、きっと教会はよい方向に変わっていくものと思います。
もう一つの特別な日それは、今日が「母の日」であるということです。教会の母がマリア様であるように、教会のお母様方、そして全ての女性は母につながる特性に恵まれている方々です。お母様方のはたらきはお父様方のはたらきと同じように教会にとって大きな支えであり柱となっているはずです。一つの柱が傾くと教会は傾いてしまいます。今日の母の日を記念し、お母様方のためにも祈りを捧げていこうと思います。』

2014年5月5日月曜日

復活節第3主日

 今日は少し肌寒く感じましたが、札幌は先週4月29日に桜開花が発表されました。これは例年より4日、昨年より14日も早く、4月下旬に気温の高い日が続いたための様です。
今年は復活祭が4月20日と例年より遅かったので復活節は桜の開花と共に歩みます。
今日の福音では、エマオに向かって旅する二人の弟子が、生きておられるイエス様に出会うのは、墓ではなく、イエス様が共に歩いて聖書の話をされ、共に食卓についてパンを裂かれた時でした。先月まで北一条教会の主任司祭で居られた祐川神父様は「クレオパではないもう一人の旅人を自分に置き換えてみなさい」と言われましたが、自分のスピリチュアル・エクスペリエンスについて、そしてコムニオについて考えさせて下さるミサでした。


今日の主日ミサを司式された勝谷司教様のお説教の概略です。

『黙想の一つに「ダイナミックメモリー」というやり方があります。ある視点で自分の過去を振り返り、その時の自分と神との関係について考えてみるためのものです。学生時代に友人とその黙想会に参加をしたことがあり、その友人が自分の人生の中で誰にも言えない、思い出したくないような屈辱的な出来事を振り返り、その時の神との出会いを分かち合ってくれたことがあります。人に話したこともない、触れたくない体験が、神との出会いによって全く別な意味に変わって使われます。祈りの中でその時を振り返り、その時、それは触れたくない思いではなく、人に分かち合いたい、皆に告げ知らせたい、恵みの体験になります。
それが先週の福音で、キリストが弟子たちに、ご自身の傷跡を見せて「あなた方に平和があるように!」と言われたこと、傷跡は弟子たちの取っては罪深さの象徴でしたが、そのキズが弟子たちにとって神の赦しと、恵みと、癒しと、救いの体験になったのです。

私たちにとっても、過去においてキリストとの出会いの体験が、実は意識しないでそのまま気づかずにいることが多いかも知れません。
砂上のあしあと、と言う詩があります。
「人生の終わりにあたり自分の人生を振り返ってみるとふた組の足跡がある。神が常に共にいて下さると約束して下さったのに、ところどころひと組みの足跡しか残っていないところがあった。それは自分が最も苦しい時の足跡だった。どうして主は共に約束して下さったのに、その時は自分から離れていたのですか?
神は言われた、ひと組の足跡は、私があなたを背負っていたのだよ。」
と、このように私たちの人生において、その苦しみや、悲しみの体験はたくさんあると思いますが、実はその時こそ主が私たちのそばにいるのです。それを私たちが実感するのは祈りと黙想です。
人生において神が私たちに関わって下さるのは色々な機会があります。ダイナミックメモリーでは自分の人生を変えた様々な節目、出来事をそういった観点で振返るものですが、そう考えてみるならば、人生において普通ならばこの道を選択するのに、何故か違う道を選ぶことがあったと思いますが、その道を選ばせて下さったのは神なのです。神が私たちの心に触れて下さるのは、私たちにとって大きな救いといえる気づきを与えて下さるだけでなく、未来に亘って私たちを導いて下さることに繋がっています。

きょうの福音の二人の弟子は、エルサレムを離れて故郷に帰ろうとする失意の姿としてえがかれていますが、象徴的にかかれているテーマは、人生の旅をしている二人に対して、私たちの人生において、どの様な形で神が関わって下さるのかです。その時々の多くの体験を思い起こしてみるならば、「あっ、あの時、主が祈りに関わって下さった」と確信する体験が沢山あります。それに気づいた時に主がいて下さる。
それは、人々に分かち合わずにはいられない、告げ知らせずにはいられない思いとして沸き起ってきます。

弟子たちが一目散にエルサレムに走って帰り、自分たちの体験した事を皆に皆に告げ知らせる、自分たちの人生において主が私たちの心に触れ、心を燃えたたせて下さったこと、それに気が付いたことが象徴的にかかれています。
「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」
ミサの時に唱えられることばです。
つまり、明らかにこの時すでに実践されていたミサ聖祭、パンを裂く儀式、すなわち秘跡によって自分の人生の意味、ただ漠然と日々の道を歩いていただけでは何も起こりえなかった、気づかなかった、その人生のうまみが秘跡に触れた時に明らかにされます。
二人の弟子たちはイエスに出会い触れて頂いた体験がなければ、唯の失意の宣教に失敗した人たちでしかない。彼らの持っていた知識は完璧で、福音の内容を完璧に理解している。しかし自分の人生を変える信仰を持つに至ってなかった。キリストについての完璧な知識を持っていながら、その知識が喜びの源になっていない。何故か、キリストにあっていないからです。これは私たちに対しても大切なメッセージで、私たちは本当にキリストに出会った時ならば、そのことを伝えたくなり、喜びが体の中に満ち溢れてきます。教会に集まって毎週ミサに参加する、そういった意味では完璧な知識を持っている。それがないのは、生活の中でキリストに思う、生かされていることを実感として感じることが出来ていないからです。私たちは失意の中でエマオに帰ろうとしている二人の弟子たちと同じです。
神が私たちの人生に触れて下さるその時、そのことをより深く実感し、味わう事のできる喜びを理解できるようにしていきましょう。』