2014年5月18日日曜日

復活節第5主日

今日の新聞では、あちこちの峠で積雪があったという報道があり、今朝のニュースでも、道東、オホーツク方面では雪が降るかもしれないというニュースが流れていました。
札幌では初夏の訪れを告げる風物詩「さっぽろライラックまつり」が16日から大通公園で始まりましたが、今日の最高気温は11℃と「リラ冷え」という言葉がぴったりの肌寒い一日になりました。体調管理にはくれぐれもお気をつけください。

今日の主日ミサは後藤神父様の司式で行われました。


ミサの後は教会総会が行われ、今年一年の取り組みについて話し合われました。


後藤神父様の今日のお説教の内容をお伝えします。

『皆さんは今日の御言葉をどのように聞いたでしょうか?
私たちが祈ったり、御言葉に耳を傾けるときは、きっと一人一人がそれぞれの願いや思いを持って神に向かっていると思います。皆が同じだとは思いません。
でも自分の思いが優先していたり、片側通行でのみ祈りをしていたら、果たして神様からの恵みの言葉が、心に届くのでしょうか?心に響いてくるのでしょうか?
神様の慈しみは、私たちの祈りをとおして、注がれていると思いますが、ただ自分の思いや願いを一方的に祈るのでは、その神様の慈しみは心に響かないのかもしれません。
祈りは一方通行ではなく、神様からの声も聞く、神様からの恵みを受ける気持ちで祈ることで、神様からの恵みも私たちの心に届いてくるような気がします。
近い将来何か大きな変化が起こると知っているなら、周りの人が動揺しないように心がけるのは当然のことだと思います。弟子たちに信頼され、何より大きな期待をされていることを知るイエスは、弟子たちの将来のことを心配していたことでしょう。イエス自身は、父なる神が示された自分の使命を全うすることにもう心は決まっていました。自分の道をひたすら歩み続けるイエスでしたが、弟子たちの将来を考えるなら、いろんな思いがそこに溢れてきたのかもしれません。この先、真理が否定されてしまう。そして自分は十字架の死を受け入れなければならない。そうなると自分がいなくなった後、弟子たちはどうなるだろうか?イエスは自分の使命、自分の道を見つめながら、また自分の去った後の弟子たちを見つめていました。ですから、今日語られている御言葉の状況を私たちはまず確認して黙想に入らなければならないでしょう。
今日の御言葉は、イエスと弟子たちの最後の晩餐の席で語られた内容であるということを、私たちはまず心に留めてこの御言葉を聞かなければならないと思います。
12人の弟子たちは食事をしながらイエスから話を聞いています。でも話を聞いていてもイエスが死ぬなどと考えることが出来ずにいた弟子たちでした。でもそのことを告げるイエスには、彼らのこれからの心の動揺が見えています。イエスの死に直面した弟子たちは、何に頼っていいのか、目の前が真っ暗になって、自分の立ち所を見失い、逃げ出してしまう弟子たちも現れます。
私たちは御言葉を聞くとき、御言葉に耳を傾けるとき大事なことは、いつもイエスの立場に自分を置いて、御言葉を聞くという姿勢が大事になるということを、今日私たちは学びたいと思います。自分の思い、都合だけで、耳を傾けるのではなくて、イエスが語るその時の状況も考えながら、イエスは私たちに何を語ろうとしているのか、そんなことも併せて耳を傾けることが出来ると、もっと心に響く恵みが私たちに届けられるような気がします。
自分の一方的な都合だけで御言葉聞いていたならどうでしょうか?自分はイエスを愛している信じていると言いながら、イエスが受けた傷に何の痛みも感じない、イエスの苦しみに心騒ぐことも全くない、そうだとしたら、イエスが言われた「私は道である。真理である。命である。」と私たちに告げたとしても、私たちはそれが一体何なのか理解できないのではないでしょうか。イエスの言葉と、私たちの信仰はどこでどのように結ばれているかを、私たちはもう一度考えてみなければなりません。
イエスの道、イエスの真理がもし歪められたとき、私たちの信仰はどうでしょうか?私たちの信仰は揺らぐでしょうか?自分の生きる基盤を失ってしまうのでしょうか?それとも私たちには現在の安定した生活があるから、心騒ぐことなど何もないと言ってしまうのでしょうか?
自分の立場か、イエスの立場に立つかどうかで大きく変わるのも信仰ではないでしょうか?
今日の第1と第2朗読の御言葉は、力強い弟子たちの行動が表されています。復活した主に出会って変えられた弟子たちは、本当に逞しい力強い働きをしています。イエスに出会い信じた人たちの働きはどんな困難も乗り越えられる姿を第1朗読は示しています。支えあい助け合う力強い一致がそこにはありました。
ペトロは言っています。「神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」
私たちはどのような霊的ないけにえを献げているでしょうか?毎日曜日に教会に入るとき、どのようないけにえを持ってきているでしょうか?霊的ないけにえを献げることによって、私たち一人一人の信仰の力が心に響いてくるようになりたいを願います。
私たちの信仰をミサをとおしてより良く具体的に生きる為に、こんな霊的な献げかたがあるかもしれません。日曜日のミサに来られたとき、ホスチアをチボリウムに入れるとき、私たちの過ごした1週間の体験したこと、その喜びや苦しみ、感謝の気持ちを献げものとして、霊的ないけにえとして奉納できたらすばらしいことだと思います。
私たちは、ミサに与かり御聖体をいただくだけではなく、霊的な献げものをとおして、イエスの体を分かち合っていただくことが大切だと思います。
私たちの霊的ないけにえを託した小さなパンは、いつも一つの器にまとめられて祭壇に奉納されています。そしてそれがミサの中で祝別され、私たち一人一人が分かち合うキリストの体となり、パンとなってまた分かち合われることになります。自分が献げた小さなパンは、尊い聖体として、自分に戻ることがあるかもしれませんが大抵は他の誰かのところに向かうのだと思います。ですから自分が献げた喜びや苦しみや悲しみや感謝の心が、キリスト体につながれて、私たち教会の共同体の一人一人にまた配られていく、託されていくのだと思います。まさに私たちの思い、実りや苦しみがまた教会共同体が皆で分かち合い受け止めることになっていくんだと思います。これからは、献げものがいつも選ばれた民、神のものとなった教会の信徒の一人一人が受け止めてくださっているということを心に留め、このミサを大切にしていきたいと願います。
イエスを放り投げて我が身が大事と逃げ出した弟子たちがかつておりました。でも私たちもその弟子たちと同じような弱さを持っています。私たちも困難に立たされたとき、その弟子たちと同じように逃げ出してしまうかもしれません。私たちは自分が考えている以上に強くはありません。弱いのが私たちです。でもイエスはその弱い私たちの全てを知っておられる方、全てを見ていてくださる方、弟子たちがそうであったように、私たちも復活の主に出会って、弱さを強さに変えてくださるように祈らなければならないように思います。』