2014年5月5日月曜日

復活節第3主日

 今日は少し肌寒く感じましたが、札幌は先週4月29日に桜開花が発表されました。これは例年より4日、昨年より14日も早く、4月下旬に気温の高い日が続いたための様です。
今年は復活祭が4月20日と例年より遅かったので復活節は桜の開花と共に歩みます。
今日の福音では、エマオに向かって旅する二人の弟子が、生きておられるイエス様に出会うのは、墓ではなく、イエス様が共に歩いて聖書の話をされ、共に食卓についてパンを裂かれた時でした。先月まで北一条教会の主任司祭で居られた祐川神父様は「クレオパではないもう一人の旅人を自分に置き換えてみなさい」と言われましたが、自分のスピリチュアル・エクスペリエンスについて、そしてコムニオについて考えさせて下さるミサでした。


今日の主日ミサを司式された勝谷司教様のお説教の概略です。

『黙想の一つに「ダイナミックメモリー」というやり方があります。ある視点で自分の過去を振り返り、その時の自分と神との関係について考えてみるためのものです。学生時代に友人とその黙想会に参加をしたことがあり、その友人が自分の人生の中で誰にも言えない、思い出したくないような屈辱的な出来事を振り返り、その時の神との出会いを分かち合ってくれたことがあります。人に話したこともない、触れたくない体験が、神との出会いによって全く別な意味に変わって使われます。祈りの中でその時を振り返り、その時、それは触れたくない思いではなく、人に分かち合いたい、皆に告げ知らせたい、恵みの体験になります。
それが先週の福音で、キリストが弟子たちに、ご自身の傷跡を見せて「あなた方に平和があるように!」と言われたこと、傷跡は弟子たちの取っては罪深さの象徴でしたが、そのキズが弟子たちにとって神の赦しと、恵みと、癒しと、救いの体験になったのです。

私たちにとっても、過去においてキリストとの出会いの体験が、実は意識しないでそのまま気づかずにいることが多いかも知れません。
砂上のあしあと、と言う詩があります。
「人生の終わりにあたり自分の人生を振り返ってみるとふた組の足跡がある。神が常に共にいて下さると約束して下さったのに、ところどころひと組みの足跡しか残っていないところがあった。それは自分が最も苦しい時の足跡だった。どうして主は共に約束して下さったのに、その時は自分から離れていたのですか?
神は言われた、ひと組の足跡は、私があなたを背負っていたのだよ。」
と、このように私たちの人生において、その苦しみや、悲しみの体験はたくさんあると思いますが、実はその時こそ主が私たちのそばにいるのです。それを私たちが実感するのは祈りと黙想です。
人生において神が私たちに関わって下さるのは色々な機会があります。ダイナミックメモリーでは自分の人生を変えた様々な節目、出来事をそういった観点で振返るものですが、そう考えてみるならば、人生において普通ならばこの道を選択するのに、何故か違う道を選ぶことがあったと思いますが、その道を選ばせて下さったのは神なのです。神が私たちの心に触れて下さるのは、私たちにとって大きな救いといえる気づきを与えて下さるだけでなく、未来に亘って私たちを導いて下さることに繋がっています。

きょうの福音の二人の弟子は、エルサレムを離れて故郷に帰ろうとする失意の姿としてえがかれていますが、象徴的にかかれているテーマは、人生の旅をしている二人に対して、私たちの人生において、どの様な形で神が関わって下さるのかです。その時々の多くの体験を思い起こしてみるならば、「あっ、あの時、主が祈りに関わって下さった」と確信する体験が沢山あります。それに気づいた時に主がいて下さる。
それは、人々に分かち合わずにはいられない、告げ知らせずにはいられない思いとして沸き起ってきます。

弟子たちが一目散にエルサレムに走って帰り、自分たちの体験した事を皆に皆に告げ知らせる、自分たちの人生において主が私たちの心に触れ、心を燃えたたせて下さったこと、それに気が付いたことが象徴的にかかれています。
「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」
ミサの時に唱えられることばです。
つまり、明らかにこの時すでに実践されていたミサ聖祭、パンを裂く儀式、すなわち秘跡によって自分の人生の意味、ただ漠然と日々の道を歩いていただけでは何も起こりえなかった、気づかなかった、その人生のうまみが秘跡に触れた時に明らかにされます。
二人の弟子たちはイエスに出会い触れて頂いた体験がなければ、唯の失意の宣教に失敗した人たちでしかない。彼らの持っていた知識は完璧で、福音の内容を完璧に理解している。しかし自分の人生を変える信仰を持つに至ってなかった。キリストについての完璧な知識を持っていながら、その知識が喜びの源になっていない。何故か、キリストにあっていないからです。これは私たちに対しても大切なメッセージで、私たちは本当にキリストに出会った時ならば、そのことを伝えたくなり、喜びが体の中に満ち溢れてきます。教会に集まって毎週ミサに参加する、そういった意味では完璧な知識を持っている。それがないのは、生活の中でキリストに思う、生かされていることを実感として感じることが出来ていないからです。私たちは失意の中でエマオに帰ろうとしている二人の弟子たちと同じです。
神が私たちの人生に触れて下さるその時、そのことをより深く実感し、味わう事のできる喜びを理解できるようにしていきましょう。』