2015年2月1日日曜日

年間第4主日

今日のマルコの福音(マルコ1・21-28)では、カファルナウムの会堂でのイエスの福音宣教の始まりが語られます。イエスの出会う人々へのひたむきな愛の姿をとおして、私たちの信仰を見つめ直しましょう。

ジャーナリスト後藤健二さん殺害のニュースが流れました。
私たちは、後藤さんの開放と、彼の地で起きている様々な争いの解決を祈ってきました。
人類の歴史は争いの歴史と言われます。人類は過去に様々な地で争いを繰り返し、多くの生命と財産を消失してきました。それによって文明を発達させてきたことも事実ですが、、、教皇フランシスコによる世界平和の日のメッセージを読んでから、僅か1ヶ月の出来事です。あらためて世界平和について祈ります。
今日の集会祈願
「人々を回心へと導かれる神よ、御子キリストは悪を退け、限りない救いの力を示して下さいました。きょう一つに集まって神をたたえるすべての人に、聖霊の力強い息吹を注いで下さい。」


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『年間第2主日の今日、みことばを聞いて、イエスのどの様な姿を思い浮かべましたか?
今日のみことばには、イエスが弟子たちと一緒に宣教の旅に出掛けた時の様子が描かれています。ガリラヤ湖の北西、当時では比較的繁栄した街、カファルナウムでイエスは会堂に入り、神について語り、教え始めました。旅に出て始めて公の場で人に語られたと思います。それまで、長老たちは律法の伝承を守ることを中心に語っていましたが、イエスの教えは神からのメッセージとして人々に権威ある教えとして感じさせました。
イエスの噂を聞いて病気で苦しむ人々が大勢押し掛けて来ました。今日のみことばでも、精神が錯乱する病気に苦しむ人が登場し「かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と叫ぶ様が記されています。病気の人のそうした発言が自分たちに向けられ弟子たちは驚いたでしょう。周囲の人たちは気づきませんでしたが、イエスが神の聖者であること、特別な存在であることを病気の人たちが宣言した訳です。イエスの存在は、病気の人たちの叫びにより、そこにいたすべての人に意識されました。不思議な出来事です、病気の人は癒されました。
イエスが語り始めると、人々はその教えに圧倒されます。ナザレの生活から一転し、洗礼を受け、聖霊をいただき、荒れ野で祈りをささげた時、イエスは変わりました。イエスの言葉に心を揺さぶられ、汚れた霊につかれた人々はその病から解放され、苦しみから癒されます、そこにイエスの権威が溢れています。慈愛に満ちた熱心な語らいが心を捉えます。
イエスの福音宣教の姿がみえます。
イエスの権威ある態度、力強い宣教の姿に対し、私たちはどうでしょうか?
時に私たちは、宣教にたじろぎ、自信をなくし、どうして良いかわからなくなり叫んでしまいます。大切なことを伝える一言にも力を失っている私たちがあります。
私たちは、家庭の中で父親の権威が亡くなったという話をします。子どもは叱ってくれる親に愛情を感じるはずですが、何でもゆるしたり、優しさだけでは、子どもは本当の親の愛情は理解できず、物足りなさを感じ、親の存在さえ見失ってしまいます。親は、昔も今も変わりなく愛情を持って接していると思いますが、親としての愛情に自信をなくす人が大勢います。子供と触れ合う実感を得られなくなった生活をしていませんか。私たちは触れ合う実感を持って接しているのでしょうか?父親だけでなく、社会に目を向ければ学校の先生も、政治家も、そして教会もと言えるかもしれません。信頼や、愛が薄れてしまっている現実があることに気がつかないのかもしれません。伝えるべき内容、中身がいったいどんなものか、イエスの宣教をする姿、イエスが語られた権威ある姿から、私たちは自分自身を見つめて行かなければなりません。そして、人と人との触れ合い、心と心が繋がる時、大きな影響をもたらすのではないかと思います。出会いを通して触れ合う人と人との関係に温もりがあり、安心や希望がおき、信頼にも深くつながって行く時、私たちの人間関係、そして親子の関係が深い愛情で繋がって行く気がします。語る言葉に誤魔化しや偽り、弁解があってはなりません、もしそちらが優先して行けば、相手にとっては空しいことばかりを感じる事になってしまいます。今日、私たちが聞いたイエスのみことば、イエスの姿から信じる人への直向きさをもう一度黙想したいと考えます。みことばをもう一度黙想しながら、イエスに目を向け、祈り、新しい一週間に歩みを進めて行きましょう。』


ミサが終わった後、侍者の子供たちが練習をしました。神父様の福音朗読随行の練習です。
順調に成長してます。温かく見守ってください。