今週の「灰の水曜日」から、四旬節に入ります。
今日の福音(マルコ1・40-45)では、重い皮膚病の人を清められたイエス様の姿をとおして、苦しむ人々に手を差し延べるイエス様の優しさと深い憐れみにふれることができます。
後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。
『今日で年間の季節の前半が終わることになります。
この6週間を少し振り返ってみたいと思います。
今年は、マルコ福音書が読まれるB年になります。
途中、ヨハネ福音書が朗読されましたが、その後からは4週間続けてマルコ福音書の第1章が読まれてきました。
これまで朗読されたマルコ福音書を少し振り返ってみます。
最初、ヨハネから洗礼を受けるイエスの場面が語れました。それは「主の洗礼」の祝日のときでした。洗礼を受けたイエスはすぐ霊に導かれて、荒野に入りました。その荒野では悪魔から誘惑を受けました。荒野で悪魔の誘惑を退けたイエスは、「神の国は近い。悔い改めて福音を信じなさい」と言われて、神の福音をのべ伝えるためにガリラヤに行かれたと聖書は伝えます。そして、ガリラヤ湖畔に赴いて弟子たちと出会います。その後カファルナウムという当時としては比較的大きな街の会堂に入って、そこで初めて公に教えることになりました。その会堂には悪霊に憑かれた人がいて、イエスはその人を癒すことになりました。イエスの教えに耳を傾けた人も、また病気を癒すイエスの業を見た人も非常に驚き、その評判はたちまち拡がっていきます。会堂を出て、イエスはペトロの姑が熱を出して寝ているということを聞き、ペトロの家に向かいました。ペトロの姑もイエスによって癒しを受けます。姑をはじめ多くの人の病気を癒されるイエスの姿がマルコ福音書の第1章で次から次へと語られていきます。また、朝早く起きて祈る姿を弟子たちに示したイエスでした。
病気というのは、生きるものの宿命でもあり、本人はもとよりその家族も苦しみます。今日、聖書に出てくる病気は、重い皮膚病という言葉で表されていますが、ハンセン病、らい病のことだったといわれています。この病気に罹った人たちは街や村から追い出される、また家族からも切り離される、そういう状況が当時はありました。日本でも同じようなことがありました。聖書の中ではその病気に罹った人たちは、街に入るためには、大きな声で、「自分は汚れている、近寄らないでください」叫び、人々を遠ざけなければなりませんでした。街の人々はその病気の人を見ると、戸を閉めたり、通り過ぎるまで待つということが起こっていました。病気の人にとって、人々から社会からも見捨てられ、切り離されたことになりました。さらに家族からも切り離されてしまうという現実もあったのです。今日の福音に出てくる人も孤独と絶望の中で生きています。そして最後の頼みとしてイエスの元にやってきます。愛の体験を失っている人、苦しむ人に手を差し延べるイエスの姿、イエスのその心は、誰にとっても救いがそこにありました。イエスがいつも病人に手を伸べ触れるという姿を黙想するとき、まさに、イエスの優しさ、救いというものを感じることができます。イエスの福音宣教はこのようにして、神の愛を知らせること、そして一人一人の中に、その愛を実感させることでした。奇跡というのは、救い主としてのしるしであり、神の業を示す何ものでもありません。
イエスの深く憐れむ心を、もう一度心に留めて、私たちの人との交わり、病人や苦しんでいる人たちに接する心を大切にしたいと思います。』
御ミサの後、典礼部では、昨年の「枝の主日」でお配りした棕櫚の枝を回収して燃やし灰にしました。この灰は今週の水曜日に行われる「灰の式」で使われます。