2015年11月1日日曜日

11月1日 諸聖人

ロザリオの月も終わり、11月を迎えました。
今日の「諸聖人の祭日」は、8世紀にケルト人の国で始まったとされ、全ての聖人と殉教者を記念する日です。諸聖人の取りなしを信じ、神の子と呼ばれるものにふさわしくなれるよう祈りましょう。

明日、2日は「死者の日」で18時30分からミサが行われます。
亡くなられた先祖、友人、知人のためにお祈りしましょう。

さて、典礼の最後の月の始まり、諸聖人の祭日に200人を超える兄弟姉妹と共に食卓を囲み、冬が近づく晩秋の一日に、諸聖人のとりなしを願い、贖いの実り、霊的収穫への感謝を祝う事が出来ました。
また、ミサの福音朗読では、10月18日の勉強会で後藤神父様からご指導頂いた、額、口、胸に十字架のしるし、を半数位の方が早速に実行されていました。「信徒が宣教司牧の中心となる事を考えるように」との勝谷司教様のメッセージを受け、櫻谷委員長は教会内での具体的な取組み、伝え方について大変悩んで居られますが、多くの方が典礼の変更を積極的に受け入れる姿勢をご覧になり、少し安堵されているのではないかと拝察しました

後藤神父様のお説教をご紹介します。


ロザリオの月が終わり諸聖人の祭日を迎えています。今日は日曜日で年間の主日ですが、祭日を優先する決まりがありますので諸聖人の祭日を祝います。
カトリックの辞典では、諸聖人の祭日は8世紀にケルト人の国で始まったと説明があります。天候に恵まれない土地で生きる人々は、冬の初めに教会が天の栄光を指し、死の彼方の命への希望に生きるようにとの励ましを求めていました。寒く、日が短くなる中で希望が薄れて行く地方では人々に明るい希望が必要で、死の彼方の命への繋がりが明るく希望に満ちたものになる様にと諸聖人への崇敬が色濃くなっていったという、歴史背景を垣間見る事が出来ます。
生きているものはこの地上で生活をし、眠りについたものは神のもとに召されます。神の国はどんな国かよく解りませんが、私たちこの世に生きるものは、眠りについたものとキリストの体に一つに繋がっています。キリスト者は死んだものにも、生きているものにもキリストを通して命を与えられていますが、永遠の命を得るために、家族や友人、知人の救済のためには、聖人たちの天の教会のとりなしが必要でした。聖人たちはまっすぐに神のもとに行ったに違い無いのですが、私たちは償いを果たさなければ聖人たちの所へも行けません、かつては煉獄と言う言葉でそういう世界を表されていました。
諸聖人との連帯は、死者にとっても、生きている私たちにとっても希望をもたらすものです。一つの考え方として、諸聖人は聖徳に溢れ、あり余る恵みを頂き、私たち罪びとはその溢れる恵みを諸聖人から頂きながら償いにより神の国に入れてもらう、との思いがあり、その思いで諸聖人にとりつぎの祈りをするようになりました。
教会の使徒信条の中では、聖なる普遍の教会についての宣言の後に聖徒の交わりと言う言葉が出て来ます。教会とは全ての聖徒たちの集まりであって、すべての信者はただ一つの体を形づくります。そして最も重要なのが、その体の中心にキリストがいると言うことです。
カトリック教会のカテキズムでは
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのである
一人ひとりはキリストの体の一部分でもあるからである
と説明されています。
私たちは生きている自分を中心に頑張っていますが、私たち一人ひとり、教会共同体、既に召された人々もキリストの一つの教会です。そして、その教会に所属する神の民は、死んだものも生きているものも神につながっています。
愛は自分の利益を求めない、私たちは生きているものと死者とを問わず、全ての人と連帯関係にあり、聖人との交わりを土台としています。それが天上の教会と地上の教会との交わりを意味しているからです。教会には、地上の教会、天上の教会、神のもとに旅だったものの教会、があります。3つの教会が其々交わりを持って一つの教会になります。聖人たちは、旅する教会、償いを果たせないでいる者の教会が一日も早く天上の教会に入る様にとりつぎをして下さっています。私たち地上に生きる教会も聖人たちに向かってとりなしを祈ります。
今日のみ言葉では、神の国に入る人について告げています。諸聖人祭日を迎え、神の子と呼ばれるに相応しい道に近づいていくことができる様に諸聖人にとりつぎを願いたいと思います。そして、もう一つの教会にいる死者の一人ひとりが、一日も早く聖人のいるところに迎え入れられるように祈りを奉げて行かなければならないと思います。