2015年11月8日日曜日

年間第32主日

今日のみ言葉(マルコ12・38-44)では、律法学者の偽善的で利己的な態度を厳しく戒め、神殿に来ていたさまざまな人々の中にある欺瞞と真実を指摘するイエスの姿が語れました。

今日は秋の大掃除の日でした。御ミサの後、聖堂の床磨きとカテドラルホールの煤払いを行いました。皆さんお疲れ様でした。

今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


 ユダヤ教の指導者の教えとしてこんな話しがあります。
「ある貧しい女性が一握りの小麦粉を捧げにやって来ました。ユダヤ教の祭司はそれ
を見て『こんな少ない捧げ物とは何ということだ。こんな少ない量で何が出来るとい
うのだ。』と、この女性をさげすんだといいます。しかし、その時、神の言葉が響い
てきて『この女性をさげすんではならない。彼女は自分の命を捧げたのだ。』そし
て、その言葉でユダヤ教の指導者は夢から目が覚めたという。」そういうお話が伝え
られているといいます。この話しは一人の女性をさげすんだユダヤ教の指導者として
どんな心でいなければならないかという、そういうことを伝えるお話だそうです。
 今日は、第一朗読の旧約聖書(列王記上)の中で、またイエスの話しの中でも、神
に絶大的な信頼をもって生きる信仰熱心な話しが告げられています。

 前半と後半で福音は大きな違いがあります。ひとつは律法学者の偽善的な話し、後
半はやもめの献金の話しになっています。当時の社会、そこには律法学者がいまし
た。社会的に宗教界の中で指導者として権威をもっている律法学者。律法学者の中に
は地位ばかりではなく、富にも恵まれた人がいたかもしれません。彼らもまた金持ち
と同じように神殿にやって来ます。その姿をイエスは遠くからじっと見ていたようで
す。当時の神殿には、女性たち、やもめたちが集まる庭、そして男たちの庭という、
イスラエル人の庭があり、さらに祭司たちの庭が神殿の中にあったようです。男と女
の違いで、女の人は特定の場所まで入っていけず、その庭は女性の入れる場所で、そ
こに献金箱が用意されていたようで、貧しい人々、そしてやもめもまた神殿の庭に
入って、祈り、献金を捧げていたようです。今日のお話はその生き方、行動を比較す
ることにより、どのような生き方が神に用意されるのか、教えられているようです。

 これまでも見てきたように、聖書では律法学者やファリサイ派の人に対するイエス
の態度には厳しい態度がいくつも描かれていました。「モーセの座に対する律法学者
やファリサイ派の人の言うことにはすべて守りなさい。しかし、彼らの行いは見習っ
てはいけない。彼らは言うだけで実行しないからである。」こういう聖書の話しもあ
ります。さらに「律法学者とファリサイ派の人たち、あなたたち偽善者は不幸だ。」
こういう表現もイエスの言葉として描かれます。非常に厳しい言葉がイエスから話さ
れていた。

 そして、今日の福音もまた同じようです。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長
い衣をまとって歩きまわること、広場で挨拶されること、会堂の上席、宴会の上座に
つくことを好んでいる。そして、やもめの家を食いものにし、みせかせの長い祈りを
見せものにする。このような者たちは人一倍、それだけ厳しい裁きを受けることにな
る。」実にイエスの厳しい言葉が、こうして表現されているわけです。イエスの時
代、神殿に仕える宗教者、指導的立場にある人々に見られる権威についての非難がイ
エスから語られます。そこに生きている宗教者、律法学者たち、その心はどんなもの
であったのか、みせかけは素晴らしいけれど、外見は素晴らしいけれど、その心の内
はどうなっていたか。虚栄心や貪欲な姿をイエスは指摘しています。だれからも挨拶
される、先生と呼ばれる宗教者、律法学者。権威を見せびらかす律法学者。
 それに対して今日、私たちが注目しているのはやもめの姿です。神殿の賽銭箱にわ
ずか2レプトンを入れる貧しいやもめがいた。当時の最も小さい単位であったレプト
ン。今の私たちの時代では百円足らずのお金だそうです。でも、百円、二百円は財布
の中にあるすべてでもあった。財布の中にあった百、二百円は一日の生活を支えるお
金でもあった。でも、そのすべてを賽銭箱に投げ入れた。そのやもめの姿をイエスは
じっと見ておられました。どちらが、律法学者や金持ちたち、金持ちたちは本来、貪
欲な人が多いと言われますが、それでも金持ちも献金をしていたという話しが今日の
聖書にもありますが、それなりに金持ちは大金を賽銭箱に投げ入れたかもしれませ
ん。でも、このやもめのわずか2レプトンは目に留まるものはなかったはず。それで
も神は、イエスは私たちに神に対する真実の命がどちらが燃えていて、その献金を捧
げているだろうか、私たちに問いかけていると思います。

 金持ちの捧げる献金は大きかったかもしれません。誰もが目に留まるようなお金
だったかもしれません。でも、誰の目にも触れないような、僅かなお金を捧げたやも
めの姿の方が、神の前に真実であったと語られているのが今日のみ言葉です。イエス
はこのかくれた小さなできごとに対して、弟子達に注目をさせます。律法学者に気を
つけなさいと言いながら、同じように貧しいやもめを見ていた弟子達に「あの貧しい
やもめは、賽銭箱に入れた人たちの中で、誰よりもたくさん入れた。」こういう表現
をイエスはしています。
  私たちはイエスが話される真意が理解出来ると思います。富や地位に執着する律法
学者の生き方、さらには見せかけの長く祈る。よりいっそう自分を外見的に立派に見
せるため、衣を長くしたり、そういう律法学者は時にはやもめの家からも、援助を要
求したという話しが随分残っているとのことです。自分の立場、地位を利用して利得
をむさぶる律法学者。昔も今も、世の中は変わらないのかなと感じます。今の時代も
あるときにはそうした事件が明らかにされます。十分に生活を潤う、経済的に物を
持っていたとしてもさらに不正を働いて、自分の富を大きくしようとする。貧しい
人、苦しい人々には眼中にないというように事件はさらされていきます。やもめの献
金はすべてを見ておられたイエスにとって最も目立つ献金であったはず。それは生活
費にあたるすべてを、わずかであっても心からの献金として捧げたその姿を、イエス
は褒めています。福音のように私たちもまた、弱く貧しいものの一人であるかもしれ
ません。特別自慢出来るような力や富も能力も持っているわけではありません。で
も、心からの奉献をすることによって、神に良しとされる生き方を出来るという生き
方を、やもめの姿をとおして私たちにも教えられます。

  私たちもそういう生き方が出来るように、努力しなければならないでしょう。イエ
スが厳しく言わざるをえなかった律法学者たちは、神よりも自分の地位や名誉に心ひ
かれる部分があって虚栄心、貪欲な心に執着する偽りの権威をひけらかしている。外
見から見れば完全であると見えたとしてもその心は真実ではなかった、ということに
なります。神の前に私たちはどうなっていくでしょうか。富や名誉から離れられない
彼らを批判しているとすれば、私たち自身はその批判を受けることがないといえるで
しょうか。どれだけ捧げるのだろうか、どのようなことをするのだろうか、人に対し
ても私たちはそういう目で見ているような気がします。外側の出来事に心惹かれてい
るけれども、心の内側を見るということは、私たちには難しいことかもしれません。
でも、そのことに私たちは心を向けていかなければならないことを、私たちは教えら
れています。

  やもめが示された心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛されるその行為
を、生き方の中にこそ、私たちは現していかなければならない。その時に輝く素晴ら
しい宝がそこに備えられていくことになるのではないでしょうか。やもめの行為から
私たちもまた、学びとらなければならない多くのものを見つめることができます。神
に信頼するその心を祈り、そして捧げること。教会から家路につくとき、ミサが終
わって教会から出て行くとき、教会で祈ったその祈りを生きることこそ大事である。
祈りと一歩外に出た自分の生き方が遊離しない、祈ったことがその生き方、行動に繋
がっていけるように。今日、私たちはみ言葉をとおして教えられています。私たちの
心は今、どこにあるでしょうか。私たちの願いや祈りは今、神の目から見て
どうだと思いますか。このミサで願いや祈りを誰もが捧げます。その思いは神様にど
のように受け留められるでしょうか。
  聖テレジアが祈り、話しています。「恐れることはありません。貧しければ貧しい
ほどイエスはあなたを愛されるでしょう。」今日も私たちに対してイエスの問いかけ
が聞こえてきます。私たちの思いは今どんな思い、どんな心で神様に向かおうとして
いるでしょうか。