2015年11月22日日曜日

王であるキリスト

道北地方はかなりの積雪があったようですが、札幌はまだご覧のとおりです。
聖堂前の欅の葉は落ちきっていません。厳しい冬はこれからです。


典礼暦の1年は今日の「王であるキリスト」の週で終わり、来週の待降節から新しい1年が始まります。
ミサの後、いつくしみの特別聖年を控え、Sr.渡辺和子さんの「置かれた場所で咲きなさい」を視聴しました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『「王であるキリスト」の祭日を迎えました。
この日曜日は、教会の典礼暦では最後の日曜日にあたります。来週の日曜日からは待降節という新しい一年に入ろうとしています。一年を振り返る時期が来たと言えるかもしれませんが、私自身も教会の典礼暦の一年を考えながら、この教会に赴任して1年半が過ぎたことを思い起こしたりもしています。この間に教会の周りの様相も大きく変わりました。幼稚園が新しくなり、古い園舎が昨年の秋に取り壊されました。さらに教会の敷地の隣には大きなマンションが建設されたりもしました。また、来年以降は司教館敷地の再開発が具体化されそうで、聖堂の前にある大きな欅の木はこれからどうなってしまうのかと、そんなことも考えてしまいます。
先日、教会の近くにお住いという未信者の方から電話があり、週一回、教会のお母さん方がお掃除の奉仕をしているのを見ていて、自分も奉仕させていただきたいという申し出をいただき大変うれしい思いをしました。この思いをぜひ皆さんと分かち合いたいと思いました。
さて、「王であるキリスト」の祭日を迎えて、イエスがローマ総督の前でご自分が王であることを宣言する箇所が読まれました。この聖書の箇所は受難の朗読の時も読まれていたことを皆さんは思い出すかと思います。
イエス・キリストという名前の意味について皆さんと一緒に学びたいと思います。イエス・キリストを姓名のように考えている方もおられるかもしれませんがそうではありません。イエスの時代には姓というものは無かったようです。聖書にも書かれているように「ナザレのイエス」とか「ヨゼフの子、イエス」という呼び方が当時の社会では一般的でした。
では、「キリスト」とは一体どのような意味を持っていたのでしょうか。キリストという言葉はギリシャ語で、ヘブライ語ではメシアと言います。どちらも教会の用語として現在は、救い主、救世主という訳され方をしています。しかし、元々は救世主という意味ではなかったと言われています。その語源を辿っていくと、”油を塗られたもの”という意味を持っています。聖書の中ではよく、王様になる人を「油を塗られて王になった」という表現が出てきます。「キリスト」は”油を塗られたもの”という意味を持ち、旧約の中では王様に与えられる称号として特別な呼び方として使われました。
今日祝う「王であるキリスト」の名称も、そうした由来から典礼上表現されていると考えられます。受難の朗読で読まれる十字架に磔にされたイエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王イエスである」という意味の言葉が十字架の上に書かれました。今でも十字架には、「I.N.R.I」という四つの頭文字が見ることができます。
教会では、キリストの三つの職務として、預言者、祭司、王職があると教えられています。ヨハネの福音の中では特に王としてのイエスがよく描かれているといわれます。
私たちは今日、「王であるキリスト」の祭日を迎えて、この一年の主日を終わろうとしていますが、私たちにとって王であるキリストは、どのような意味を持っているでしょうか?私たち一人一人が考えていってもいいと思います。王とキリストは、皆さんのイメージの中で重なるでしょうか?聖書の世界では「王であるキリスト」というのは、とても大きな意味合いを持っています。
私は一週間前にパリで起こったテロ事件を思い起こしながら、いろいろなことを黙想する時間を持っています。ヨーロッパの人々は、国というよりも民族という意識の方が強い人が多いように思います。よく政治の世界では、国益のために外交交渉を進めるという表現が使われます。今回のテロ事件の背景にある民族の考え方というものも、人間としては皆同じなのかなと考えます。自分たちの民族の利益のために、自分たちの国家や民族の勢力や権威、平和のために、という主張がどこの国にでもあるということがはっきりと見えてきます。そのような背景から民族の争いという観点で今回の事件を考えていくと、いつどこで何があってもおかしくはないという世界が今うごめいているということを感じます。この日本という国についても同じことが言えるのではないかと感じます。
難民に示された愛の手は偽りだったのでしょうか?そのようなことも昨日のニュースをみながら考えてしまいます。先進国であり経済的にも豊かなヨーロッパの国々は、難民に同情して受け入れなければならないという姿勢の国は少なくありません。しかし、いったん今回のようなテロ事件に遭遇した際に、自分たちの国に混乱を引き起こさないために、難民の受け入れを止めようとする動きが報道されています。
突然、悲惨な状況に巻き込まれてしまうと、そこにあった愛も変化してしまう、それが私たちの現実かもしれません。愛が突然、拒絶の行為に変わってしまうというのであれば、愛は一体何だったのだろうか、示された愛の手は一体どこから来ていたものだったのか、そんなことも考えてしまいます。
「王であるキリスト」、この世界を超えて、人間の救いのために、ただその真実のために、働かれる王でなければ、私たちの愛の世界、平和な世界はすぐにでも混乱に陥ってしまう気がします。誰もが死後の世界は苦しみのない平和な世界である神の国に入っていくことを願っています。神の国こそ差別のない平和な世界であってほしいという願いから、天国も神の国も私たちが想像している世界なんだと思います。変わることのない愛でなければ、その愛に包まれていなければ神の国ではないと思います。地上の上に神の国を作っていかなければならないという使命を生きている私たちにとって、変わらない愛は一体どこから来るのでしょうか。
11月も間もなく終わりますが、私たちは今改めて神の国を思い、そこにある世界を大切にしなければならないですし、またこの地上の世界にも神の国を作っていかなければならない使命をもっているのだと思います。
「いつくしみの特別聖年」がまもなく始まろうとしています。私たちの信仰を見つめ、この地上の王ではなく、全ての人の救いを願う「王であるキリスト」を見つめて、新しい一年に向かなければならないと思います。今日「王であるキリスト」の祭日を迎えて皆さんにも問いかけたいと思います。
私たちの愛は、神の愛に近づく、そのような愛を生きているのかどうか、このミサの中で祈り、新しい一年を迎えたいと思います。』