2015年12月27日日曜日

12月27日 聖家族

一年の最後の日曜日、教会の典礼は聖家族の日を迎えることになりました。
まもなく今年一年の歩みが終わろうとしています。この一年の日々を感謝しながら、いつくしみの特別聖年という新しい一年に希望を持って、私たちは進んで行きたいと思います。

年明けの1月1日(神の母聖マリアの祭日)には、「元旦ミサ」が午前10:00から行われます。
この日のミサは、日本では、守るべき祝日の一つになっています。
お正月には、元気な姿でお会いしましょう。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『一年の最後の日曜日、教会の典礼は聖家族の日を迎えることになりました。
教会は、聖マリア、そして聖ヨセフ、幼子イエスの3人で構成される共同体を聖家族としてお祝いし、家庭生活の模範、そして社会生活のモデルとして私たちに示しています。
信者の私たちにとって、聖家族の姿は、神に祝福された家族、幸せに満ちた家族として、憧れになります。でも誰もが皆、いつもそのように聖家族をみているわけではないと思います。時には、私たちの悩みや苦しみが多く、あまりにも私たちの現実とかけ離れた聖家族になってしまい、時にはうらやましく思ったり、妬ましく思ったり、そんな思いを私たちは心の中に感じることがあるのではないでしょうか。
自分たちが辛いときは、あまりにも幸せな聖家族が、ただただ羨ましい家族になってしまう。でも聖家族はいつも幸せに満ちていたでしょうか。必ずしもそうではないということが、聖書で描かれています。聖書をよくみると、マリアとヨセフの二人にとって、互いを受け入れるときから、いろんな戸惑いがあったということが聖書で書かれています。まず結婚する時から、互いが戸惑いの中にあっても二人は結ばれていく、そういう過程を聖書は描きます。受け入れるときから、迷い苦しみがあった二人でもあります。また、聖書では、幼子の出産にあたっても旅の途中で安全な場所を確保することができない中で、その環境は暗く冷たい馬小屋であったと記しています。現代の私たちでは考えられない、そのような場所で幼子が誕生する。お父さん、お母さんであるマリアとヨセフにとって、どんなに大変な思いをして誕生の日を迎えたことでしょうか。
誕生後もまた、大きな出来事が聖書で描かれます。両親は我が子を守るために、エジプトへ旅をしなければなりませんでした。誕生したばかりの幼子を抱えての今の時代からは全く想像もつかない厳しい旅だったと思います。
その後、ナザレの小さな田舎町に行きつき、神の子を育てるという戸惑いの中で、神への信頼を持っていたとしても、親として子供の不思議な宣教に出会うとき、やはりそこには戸惑いもたくさんあった日々であったと思います。マリアもヨセフも母親として父親として、その苦労を私たちと同じように担って成長していったんだと私は考えます。そのような苦しみを乗り越えた家族であるからこそ、聖家族の姿は素晴らしくもみえます。そして私たちの模範の家族としても讃えられることになったのだと思います。
ついこの二日前、その幼子は私たちの心の中にも新たに誕生しました。その幼子をイエスを私たちが離すことのないように、また私たちが正しい道を歩んで行くことができるように、教会は私たちの模範となる聖家族を私たちの前に示しているのではないかと思います。
改めて聖家族を考えています。ご存知のように聖マリアの夫ヨセフがいて、そのヨセフは神から選ばれた方、イエスの養父となる方でした。聖マリアは恵みに満ちた方として、無原罪の母マリアであり、ヨセフと結ばれますが、聖霊によって神の子の母となられる方。この二人はともに、天使を介して神からのお告げを受けて結ばれることになりました。お告げによって神の子を慈しむ理想的な家族をつくるこの二人。平和的な家庭の中で幼子を育てていく二人。その家族は互いに愛と奉仕の結びつきによって、私たちの模範となる家庭の姿を示しています。愛と敬いの心を持つ夫婦としても、マリアとヨセフは夫婦の模範でもあると思います。
イエスは福音宣教に出て弟子たちと共に生活をしていた時、心を尽くし魂を尽くし精神を尽くして、主なる神を愛せよ、これが第一の掟だと答えています。きっとこのイエスの言葉どおりにマリアとヨセフは神への信仰を生き、互いを尊重し、互いを愛し合って、その家庭をつくりイエスを育てあげたのだと思います。そのヨセフとマリアにみられるように、愛と共に尊敬しあう夫婦として、私たちも見習うべきことはたくさんそこに見出すことと思います。夫婦としての務めとともに、また子供に対する親としての務めも大切なことはもちろんです。か弱い嬰児の中に神の御子の姿が隠されていた、秘められていた。神を信じる二人でしたが、子供の成長にあたって、たくさんの不思議を体験したのではないでしょうか。自分たちには訳が分からない不思議を、その子供の成長に見ていたのではないでしょうか。そのような中にあってもひたすら子供のために働き、霊魂と体を守られたに違いありません。子供に対し、イエス・キリストに対してその務めを完全に尽くされたからこそ、聖家族としての模範を私たちに示しているのだと思います。マリアとヨセフのその模範的な姿、そしてイエス・キリストもまた子供の義務を果たしていたということが考えられます。ナザレの田舎町で、救い主であったにも関わらず両親の元で30年余り、お父さんの大工の仕事を手伝ってイエスは成人していきます。今の時代で考えれば、独立もせずお父さんとお母さんの元で大工の仕事をし続けました。イエスはそういう意味でも子として親に対する孝行の模範を示されたようです。
今日の私たちに語られた聖書のお話は、エルサレムの出来事についてのお話しでした。12歳の少年イエスが、預言者としての使命を匂わせるような不思議な出来事が私たちに語られています。私はこのお話の中にいくつかの言葉を注目する中で、イエスの復活の時の様子と関連して黙想することができます。今日の聖書の言葉、そこにみられる共通する言葉が復活の出来事の中にも描かれています。それは、「過越祭」、「三日目」、そして「誰を捜しているのか」。この三つの言葉は、イエスの復活の出来事の中でも共通してみられる言葉です。
聖家族、私たちにとっていろいろな黙想が出来ると思います。家族としての互いの繋がりを大切にし、聖家族を私たちは見つめていくことが大事だと思います。もちろん、現代に生きる私たち家族にとって、それは夫婦間の問題もあり、子育ての悩みもあり、二千年前の聖家族とは違った問題をたくさん抱え込んでの私たちの毎日かもしれません。でもどの時代でも家族の中には忍耐が必要だということではないでしょうか。神に向かう人生の旅である現実を見つめながら、子供たちはキリストの従順を学びながら、神にも人にも愛される人として成長できるように、今日私たちは聖家族に取り次ぎを祈りたいと思います。
そして、それぞれの役割・使命を神の民として教会共同体の中でも果たしていくことができるよう祈りたいと思います。
まもなく今年一年の歩みが終わろうとしています。この一年の日々を感謝しながら、いつくしみの特別聖年という新しい一年に希望を持って、私たちは進んで行きたいと思います。』

夕べの会

毎年、夏と冬に行っている信徒の親睦会「夕べの会」を26日(土)に、カテドラルホールで行いました。
30名程の信徒が集い、手作りの食事を囲んで親睦を深めました。
後藤神父様をはじめ、札幌教区の4名の神学生のうち、佐藤さんと佐久間さんも参加されました。







2015年12月26日土曜日

12月24日(木) 主の降誕(夜半のミサ)

主のご降誕おめでとうございます!

今年は暖冬のため、雪も少なく穏やかなクリスマスを迎えることができました。


クリスマスは、イエス様によってゆるしに満ちた無条件の神の愛、いつくしみがまさに今この地上にもたらされたことを祝う日です。

今日のクリスマスミサは、勝谷司教様と後藤神父様の司式により行われました。


祭壇の前には幼子イエス様が飾られました。


入堂の後、キャンドルの灯りで聖堂はやさしい光に包まれました



勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『クリスマスおめでとうございます。
つい先日、ネット中でこのようなやり取りがありました。
ある神父様が、とても有名な神父様ですけれど、自分のフェイスブックに「キリストのいないメリークリスマスは無意味」だと、一言だけ載せたのです。それに対していろいろな意見が投稿されていました。
「キリスト教徒になって初めてその意味が分かった」という書き込みと、その意見に同意するというのも多数ありました。
それに対して、「それぞれの大切な人にその想いを伝えるために贈り物をするイベントにはそれだけでも意味があるのではないか?」という意見。その他には、「貧しくてクリスマスを祝えない人もいるし、宗教が違うだけで悲しい思いをする人もいます。世間が浮かれていると余計に孤独を感じる人もいます。」といった、キリスト教徒であっても自分たちだけが幸福感に浸っていてよいのか、そのような意見もありました。
たった一言の書き込みに、多くの多様な意見が書き込まれていました。実際にはもっと多くの考えや意見があるに違いありません。この書き込みは本人のフェイスブック内のやり取りでしたから、常識的な人たちが意見を述べ合い、他者の意見を尊重して、多様な意見を受け入れあうような雰囲気がそこにあります。
私自身、先ほどの神父の書き込み同様、キリスト抜きの商業ベースに乗ったイベントとしてのクリスマスに冷ややかな目を向ける一人でした。でも多様な考えに接して、クリスチャンではない日本人のイベントとしてのクリスマスについても考えさせられました。全く無意味だ、と少し思い上がったような視点から眺めるのではなくて、むしろ別な観点からみると違う意味があるということに気付かされたわけです。
一方よく見受けられるネット上での議論は、自分の意見を絶対視し、相手を論破するために、時には相手を傷つけるようなひどい言葉をもって相手を攻撃するやり取りです。自分を正義とし、他を認めない不寛容の極端なやり取りです。私はこの一年間、このようなやり取りにいや応なしに巻き込まれてきました。このようなやり取りには心が病みます。しかし、それほど極端ではなくても同様な傾向は私たちの誰にでもあります。自分の正しさを確信し、人の過ちを正したいという正義感です。
先日ここでミサをやった時の説教で、東京の電車内で起こった出来事について話をしました。取るに足らないちっぽけな出来事なのですが、私にとっては非常に印象に残っています。もう一度その話を紹介したいと思います。
先日、出張で東京へ行き会議が終わり夕方の飛行機で帰る際、ちょうどラッシュの時間と重なり、満員電車の中、重たいスーツケースを抱え疲れた体で立っていましが、ある駅で乗客の大部分が降りて席が空き、ようやく座ることができました。ほっと一息付いたのも束の間、次の駅で小さな子供を抱えたお母さんが乗ってきました。私の隣には元気のよい女子高生が座っていたので、当然彼女たちが席を譲るものと思っていたのですが、一向にその気配がないので、彼女たちに一言言ってやろうかなとも思いましたが、私が譲ることにしました。しかし、お母さんがその席に座ると間もなく赤ちゃんが大声で泣き出し始めたのでした。お母さんは周囲に申し訳なさそうに困った顔をしていました。すると突然、隣に座っていた先ほど席を譲らなかった女子高生が赤ちゃんをあやし始めたのです。それに対して、お母さんもお礼を言ったりとやり取りが交わされることで、車内が不思議な優しさに包まれていくのを感じました。
今から思えば、はじめに席を譲らなかった女子高生は、そのことで後ろめたい気持ちもあったのだろうかと思います。それで赤ちゃんが泣き出したとき、あやし始めたのだろうかとも思います。でもその時は、彼女がどような気持で座っていたのかということに思い至らず、非難がましい思いを向けていました。考えてみると私の行動は正義感とかではなく、自分の利己心からでした。
大切なことは人を裁くことではなく、自分が為すべきことを神の求めとして素直に実行することです。自分ができない、したくないことの言い訳に自分の正義を盾にしてはいけないのです。結果的に社内の誰もが僅かな時間でしたが、幸福感を味わうことができました。
新約聖書のイエス様の態度をみると、それは裁きの心ではなく、限りないいつくしみを示す態度です。そうしているときも回心へと導いていたのです。当時、倫理的に正しい生き方とは思えない生活をしていた人々に対して、イエス様はまず回心を求めたのではなく、むしろ罪の中にあるあなたこそ神のいつくしみの対象であることを示すために、無条件に彼らの中に入って関わりを持っていかれました。例えば、放蕩息子のたとえ、徴税人ザアカイ、その後イエスの弟子になったといわれる石を投げつけられそうになった姦淫の女も、罪の告発ではなく彼らの回心を前提とせず、イエス様によって彼らに向けられた神である父のいつくしみに接して、はじめて回心し人生を変えていく力を得たのです。
先日、無原罪のマリアの祭日から特別聖年が始まりました。教会に呼びかけられているのは、このいつくしみの心です。教皇フランシスコの大勅書には以下のような記述があります。
第10項、第20項、第21項

私たちは、このいつくしみの眼差しを社会に対してだけではなく、教会共同体すなわち私たの兄弟姉妹にも向けるよう招かれています。自分の信仰生活を基準として人々を判断し裁くのではなく、ともに神のいつくしみによって養われゆるされたものである喜びを分かち合って生きるよう招かれているのです。
キリストの誕生が意味することは、正しさを求めるだけの神のイメージを超えて、イエス様によってゆるしに満ちた無条件の神の愛、いつくしみがまさに今この地上にもたらされたことを祝う日です。』

御ミサの後、カテドラルホールで茶話会が行われました。



2015年12月20日日曜日

待降節第4主日

待降節第4主日を迎えアドベントクランツの4本のローソク全てに火が灯りました。
いよいよ5日後にクリスマスを迎えます。

神学校も冬休みに入り、神学生の皆さんも帰省されています。今日は佐久間さんが侍者をされ、近況について報告されました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『教皇フランシスコにより「いつくしみの特別聖年」が宣言され、カテドラルでもある私たちの北一条教会でも、先週の日曜日の主日ミサに、いつくしみの扉が開かれる儀式が司教様をお迎えし行われました。このカテドラルで儀式を行えたといことにその恵みを感じます。カテドラルは教区に一つしかありませんので、私たちはその恩恵に与っているともいえます。この聖なる開かれた扉を大切にして、いつくしみの特別聖年の歩みを私たちも大切にしていきたいと思います。特に教皇様の意向を持って祈るために初めて訪れる人々の上にも、私たちは祝福を祈っていく一年でありたいと思います。
今日は待降節の第4主日。アドベントクランツのローソク4本には全て火が灯されました。主の降誕が間近であることを表します。喜びのお告げは、すでに旧約の時代から伝えられていました。そしてそのお告げが現実になろうとしています。数日の後私たちは主の降誕、クリスマスをお祝いします。でも残された待降節の数日間がありますので、最後の準備を滞りなく済ませたいと思います。
待降節の精神をみな思い起こすことはできるでしょうか?
喜びのお告げをマリアとエリザベトをとおして強調される今日のルカの福音、そのみ言葉に改めて今日耳を傾けながら、黙想する一日でもありたいと思います。
ルカは、洗礼者ヨハネの誕生も人々に喜びをもたらしたと告げていますが、それは救い主イエス・キリストの誕生の関連において、もたらせる喜びでもありました。そして旧約の時代から待ち焦がれていた喜びの中で最高のもの、それが救い主イエス・キリストの誕生、私たちが今待ち望んでそこに向かう主の降誕でもあります。
お告げの天使は、「恵まれたもの喜びなさい。主はあなたと共におられる」とその喜びを告げ、主のご降誕の時には天使は羊飼いたちに「恐れることはない、わたしは全ての民におよぶ大きな喜びの訪れをあなた方に告げる」と聖書は伝えています。その喜びは、私たち全て信じる者の上にも及ぶ知らせでもあります。
今日のルカのみ言葉の中で、聖母マリアがエリザベトを訪問するその内容が語られました。私たち人類の上に与えられる救い主の喜びを分かち合うこと、エリザベトの訪問はその前兆としての喜びを私たちに告げています。最初にマリアは天使からの挨拶をエリザベトに告げ知らせています。そこで喜びを抑えることのできないエリザベトがいました。エリザベトもおなかに子供を身籠っています。そのおなかの子は後々イエスに洗礼を授ける洗礼者ヨハネとなる人でした。マリアの挨拶を受けて、エリザベトの体内で喜び踊る洗礼者ヨハネの姿も私たちは黙想することができると思います。神の子救い主は、ご自分を体内に宿している聖母マリアを介して、信仰をもって彼女を受け入れるエリザベトに喜びをもたらしました。
今日の短い福音の中で、挨拶という言葉が3回出てきます。そのことを少し考えると、私たちが何気なくしている挨拶は、どんな挨拶なのかなあとそんなことを考えます。当たり前のように儀礼的に挨拶をしてしまう私たちだと思います。でもこのエリザベトとマリアの出会いにあった挨拶は、相手であるエリザベトに大変大きな喜びをもたらした挨拶であったことが語られています。普通の喜びではなかった、お腹の子供さえ喜び踊るような、そんな喜びの挨拶を受けたというのが、今日の挨拶という言葉に強調されているのかなと思います。そもそも挨拶という言葉を辞典で引いても、儀礼という言葉で表現されますが、このマリアとエリザベトの出会いにあった挨拶は、単なる儀礼ではなくて本当に喜びをもたらす挨拶であった。私たちも挨拶をそういう喜びをもたらす挨拶に変えられたらいいなと願います。時には笑顔をもたらす挨拶もたくさんあろうかと思います。でも笑顔も全く生じないような挨拶を交わしているのも私たちであるような気がします。儀礼的になってしまうと、ただ言葉で挨拶をしているだけ、相手の人にどんな反応があったのかさえも考えることなく通り過ぎていく挨拶もあると思います。私たちの人と人との出会いを大切にする挨拶になっていけばと、今日のマリアとエリザベトの出会いにあった大きな喜びをもたらす挨拶のことを考えると、そう願います。
さて、マリアとエリザベトの感動的な出会いがあり、エリザベトはすぐにマリアの偉大さを讃え、メシアの到来を宣言してもいます。このエリザベトの賛美の言葉は、私たちがよく唱えているアベマリアの祈りの中に組み込まれている言葉でもあります。
「あなたは女の中で祝福された方、あなたの胎内の子も祝福されています」そして続けて「わが主の御母が、わたしのところに来てくださるとは、いったいどういうわけでしょう」エリザベトは、マリアの信仰をよくご存じであったという表現がここでみられます。「主がおっしゃたことは必ず実現すると信じた方。」私たちも信仰を生きるものとして、互いがそう信じあえるそういう兄弟でありたい、家族でありたいと思います。
ルカが告げる救いの喜びは、神のみ言葉を聞いて、これを行うものこそ私の母であり、私の兄弟である、そしてむしろ幸いなものは神のみ言葉を聞き、それを守る人である、このようにキリストの言葉に結び付けて福音は書かれています。
待降節の四度目の日曜日を迎えて、私たちは残された数日を主の降誕までの準備とします。マリアの信仰に習いながら、どんな時にも私たち一人一人が希望を見失うことなく歩んでいくことを祈りましょう。そして私たちの教会もまた、全ての人と共に祈り、主に向かい歩み続けていくことができますように。』

2015年12月13日日曜日

「聖なる扉」を開く式  - いつくしみの特別聖年 -

いつくしみの特別聖年が始まりました。

教皇フランシスコは、今年 2015 年 12 月 8 日から 2016 年 11 月 20 日まで、「いつくしみの特別聖年」を行うことを発表されました。

12月8日、教皇フランシスコは「聖なる扉」を開く式を行い、翌年11月20日までの「いつくしみの特別聖年」が始まりました。13日には世界中の司教座聖堂などで「聖なる扉」を開く式が行われます。

札幌教区の司教座聖堂(カテドラル)である北一条教会でも、12月13日(日)の主日ミサの前にカテドラルホールで、勝谷司教様の司式により「聖なる扉」を式が行われ、祈りを捧げた後、聖堂の扉が開かれました。

カテドラルホールに会衆が集まり、勝谷司教様の司式によりお祈りが捧げられました。


聖堂の「聖なる扉」の前に移動して、司教様がお祈りし、そして扉が開かれました。







勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『いつくしみの特別聖年が開幕しました。そこに掲げられているのは、「御父のようにいつくしみ深くあれ」その言葉です。そして、その具体的な事例を私たちは、福音書のイエスをみてとるわけですが、この「いつくしみの特別聖年」を発布した教皇フランシスコは自身が、その神のいつくしみを全世界に示すために、私たち全世界のある教会、信者一人ひとりがそのいつくしみの先駆者としてふるまうよう求めておられます。 
 教皇様自身がこれまで何度も紹介してきていますが、その姿勢は今まで世界に向かって、こうあるべきとか、そういうような話しをすることは、歴代の教皇の常だったのですが、この教皇フランシスコの違いはそのようなことを言いながら、自らが実践する、模範として示す。貧しい人たちに手を差し伸べよと全世界に言うばかりではなく、実際にバチカンのシスティーナ礼拝堂を開放したり、バチカン広場の一部を散髪やシャワーの場に開放したり、そして各地の難民のいるところや刑務所に率先して出かけておられます。この教皇フランシスコの姿勢が就任したときからいっかんしているのです。
 私はこの北一条教会に主任司祭として赴任してきたときに、在任期間は3ヶ月に満たなかったのですが、教皇のお告げの祈りのときの説教を紹介したのでした。そのときに、教会はいろいろな壁を作って多くの人たちを阻害してしまっている。特に倫理的なものは教会法で阻害しているばかりでなくて、信者の集まりで批判な目、それによって阻害していることがある。具体的な例としてあげたのは、教皇様も自分の教区で体験していたことと思いますが、 父親のないシングルマザーが教会にやってきたときに、ふしだらな女だという眼差しを多くの人が向け、傷つき教会に来ない。せっかく教会に戻ってきたのに、そこで戻ってしまう。
通常はその子を堕ろしてしまうことが考えられるのに、その子を一人で育てる決心をしましたねと言って、その姿勢を応援してあげる、教会はそうすべきであった。裁くのではなく、むしろ教会に戻ってきたそういう人たちを暖かく迎え入れる、そして支えるべきでないか、こういった教皇の説教を紹介した覚えがあるのです。そのとき、不思議だと思ったのは、その説教をしたときに、今日初めて教会に来た女性が赤ちゃんを抱えて「私がそうです。」と。神様が導いてくださったようなことを覚えています。
 そのことに限らず結婚に失敗してしまったことや、教皇様が心を痛めてシノドスのテーマにしていたマイノリテイの人たち、そういう人たちに対して私たちはどのような態度をしめしていたか。ましてや熱心に教会に来てその努めを守っている私たちは、ほとんど教会に来ていない信者の人たちにどのような眼差しをおくっているのか。そのようなことを考える時に、私たちはまず、私たち自身が反省する必要がある。そのことも教皇様は呼びかけておられます。
 ただ、私たちは回心し、そして人々に神のいつくしみを示すように、教皇様の言葉で言うならば、「出向いて行きなさい。」という言葉で使われます。英語で言うとgo forthと言うのですが,forthというのは「前に押し出す」という意味。名詞では「力、正義」という意味。
ミサの終わりのgo forth(ミサを終わります。行きましょう、)は、ただ教会から出て行くのではなく、福音をのべ伝えるために、そういうニュアンスがあります。私たちが出向いて行けと言われているときに、わたしたちが今、何か躊躇しているものをこえて、前に立って心を開いて、出かけて行きなさいと言われています。でもそう考えると凄い重荷を負わされたような、今までやっていなかったことをがんばって始めなければならないと、そういう負担を案じる方がおられるかもしれません。でもそういうことではないんですね。私たちが出来る当たり前のことを、今まで躊躇していたその壁を乗り越え、当たり前のことをしないさいと。

 今日の福音書でヨハネが呼びかけているこの回心。まるで回心しなければ裁かれるようなことですが、民衆が「ではどうしたら良いのですか。」と言うと、読んだ通りです「出来ることをしなさい。」特別なことをしなさいと言うわけでない。徴税人に対しても仕事をやめろとは言わない。むしろ、自分が今与えられている場において、そこで人々に分かち合える、あるいは手をさし伸べることをしなさいと、述べられています。
 教会の中でなくても、本当に自分が受け入れられている、自分の居場所があると実感している人はどれだけいるかと思います。寂しい思いをして自分の居場所を求めて教会を訪れる人が、何か一人で祈っているかのようだが、そっとしておいてあげようという善意といいわけ。何もしない、おせっかいであっても、本当に迷惑であればそのような顔をするでしょう。そっとしてあげれば良い。そうかもしれないというのが一番悪いこと。小さなおせっかい、「出向いていけ。」というのは何かぎょうぎょうしいが、私は敢えて小さなおせっかいをと思っています。
  つい先週、東京で会議があって久しぶりに満員電車に乗りました。大変亜ぎゅうぎゅう詰めでした。でも、だんだん人が少なくなって、自分が座れる席が出来ました。やっと座れると思って腰をおろしたら、目の前に赤ちゃんを抱いた母親が乗ってきたんですね。私の隣に座っていたのは高校生のカップル。あなたたちが譲れよと思ったのですが、気づかないふりをしている。私もふたむかし前だったら、席を譲ってやれよと言いたい年齢でしたが、誰も何ともしないので、「どうぞ。」と言って自分が譲りました。その後、赤ちゃんが泣き出したのです。そうすると、隣に座っていた高校生の女の子が、その赤ちゃんあをあやし始めたのですね。それがおかしくて、その両親のやりとりが、あの緊張していた車内、何となくギスギスしていた車内がなごんできたんですね。みんなニコニコしだしたのです。それは、私が何かするということではなく、私が出来たのは人を非難する心を持ちながら、席を譲っただけだったのです。でも。そこからあの幸せな空間を、わずかな時間ですが、車内の中で醸し出すことが出来たのです。
 私は、これが神の業と感じるのです。私たちに求められているのは世界を幸福にすることではなくて、今、目の前にいて手をさしのべ、声をかける人に対して出来る何かをしなさい、それを通して、後は神様がしてくださる。その神様に信頼して今、与えられた現場で何かしなさい。そのために躊躇、いいわけの壁を越えて私たちは何かするよう、求められていると思います。』


2015年12月7日月曜日

待降節第2主日 -その2 後藤神父様のお説教-

12月になり教会前庭の欅の葉はすっかり無くなってしまいましたが、静かに眺めていると、枝の先から天に向かって発散する生気が伝わって来る様です。


45年前、農林試験場に調査を依頼した際に、樹齢120年~130年との説明を受けていますので、樹齢170年前後になる欅ですが、今も四季折々の自然の優しさを私たちに伝えてくれます。
欅は北海道には自然分布していないので、最初の屯田兵入植が140年前ということから、この欅は誰かが植樹したものと考えるのが妥当です。130年前に教会関係の何方かが、故郷を慕い、主の教えを振り返り、宣教への決意を新たにする為に植樹した「望郷樹」なのかもしれません。北一条教会は献堂100周年を来年に控えていますが、欅の幹に耳を澄ますと、横溢する先人たちの宣教への思いが伝わってくるようです。

神の子の第一の来臨を追憶し、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける待降節は、第2週目を迎えアドべベントクランツに2本目のろうそくに灯がともりました。

<後藤神父様のお説教概要です>
待降節に入って1週間、いつもと違う慌ただしい一日が過ぎていました。金曜日は小学校の5年生のグループが総合学習で教会を訪問して下さり、子供達から沢山の質問を受け、子供たちに教会の本当の姿を知ってもらいました。また、別の日には7~8人の外国人グループの巡礼訪問もありましたし、昨日はカリタスのクリスマスコンサートでした。教会の幾つかの飾りを見た友人からが声が掛かって来たという信者さんの話も聞きました。待降節は、色々な人との出会いを通して、私たちの宣教がより大きく歩み出す季節の様に考えます。
さて今日の福音では、救いの歴史における洗礼者ヨハネの立場からみことばが語られます。
洗礼者ヨハネは、主の道を整える為に遣わされるイザヤの預言を成就するものとして登場します。洗礼者ヨハネは当時の民に対しても、私たちに対しても、歩むべき道を見つめさせて下さいます。道を相応しく整えなさい、と呼びかけています。人々は神との出会いの場に導かれます。ヨハネの教えを受け入れようとする人々は、回心によって来たるべき救い主に目を向け、心を開き、神の民となって救いの道を歩み始めようとしています。旧約の預言者は、罪の生活を離れて神のみもとに立ち返る様に呼びかけて来ました。ヨハネは罪の赦しのために回心を説き、人々に悔い改めの洗礼を施しています。救いへの道の準備としての悔い改め、それは私たちにとっても大切なことを示しています。受け入れられた神のみことばは、私たちに悔い改めによる罪からの回心を迫ってきます。神が全ての人に与えたいと望まれる救いの道は、その回心から始まっていると呼び掛けているからです。
旧約聖書では実に706回も道と言う言葉が出て来ます。歩く道の他に、旅を意味したり、宗教的な意味では神のなされ方を意味し、神によって人間に求められている問いも、道と言う言葉が使われています。人間が生涯を掛けて歩むべき道程、行くべき方向、歩く態度もまた大きな意味があります。現実的に考えますと様々な道、誤った道も正しい道もあり、私たちは選択しながらその道を選びとって行かなければなりません。旧約聖書では、神は道の導き手であると言う表現が多く使われています、神は牧者の様に道の先頭に立たれる方、そしてイスラエルに命の道を示される方です。神は私たちの道を護り、目的地まで導いて下さる方です。若し悪の道を歩んでいたならば、すぐに神に立ち返って戒めの道を歩まなければ幸いを得ることは出来ません。神に至る道こそ正しい人の道です、その道は夜明けの光のようにますます輝いて真昼に至ります。
イスラエルの民が恵み溢れる土地に招かれた様に、過ちを犯しながらも、悔い改めを続けながら歩いて行った先に豊かな地に導かれた、と言う聖書の話に心を止めなければなりません。「私はあなた方を鷲の翼に乗せて私の方に連れてきました」。神はエジプトの地から脱出した人々を、苦しみから開放し、勇気付け、旅へと誘いました。
今日のルカの福音は、洗礼者ヨハネの宣教によって整えられ、イエスによって完成される事を伝えています。道は平らにされ、全ての人が神の救いを見る。待降節第2主日を迎える教会の中で、洗礼者ヨハネは今日もまた私たちに語りかけて来ます。荒れ野に誘うヨハネの言葉、私たちはヨハネの声を聞くべく荒れ野に向かわなければならないのです、荒れ野は主がそこで人々に向かい、私たちに語りかける場所として描かれました。私たち自ら、神が語り掛けるその場所に赴かなければ、神の声が私たちの心に響いてこないと思います。忙しい中、私たち一人一人が、神が語りかける時間を作ってその場所に赴かなければ、神の声を私たちは受け止められないのです。忙しい中にあっても神と語り合うひと時を大切にして、待降節を歩んで行きたいと思います。神に向かって一人ひとりが心の準備をし、心から喜び、心から賛美出来る主の降誕に向かって歩んで行きましょう。

2015年12月6日日曜日

待降節第2主日

教会には、クリスマスツリー、リース、馬小屋が飾り付けられクリスマスを迎える準備を整えています。

 


待降節第2主日を迎えました。
今日の福音では洗礼者ヨハネが「主の道を整えよ」と回心を呼びかけます。
主の降誕を待ち望む待降節からクリスマスまでのこの時期は、
私たちに回心を思い起こさせてくれるとともに、宣教の機会の季節とも言えます。

後藤神父様のお説教は後日ご紹介します。






2015年12月3日木曜日

一六会のクリスマスパーティ

高齢者「一六会」が主催するクリスマスパーティが10時ミサ後、約30名が参加し行われました。


前半は聖堂でキャンドルサービス
いつくしみの特別聖年に向けての祈り、教皇様の意向に合わせた祈り、各自の祈りなど6つの祈りを捧げました。
「しずげき」などの賛美歌を歌い、ローソクに点火しながら救い主イエス様の御降誕に思いを馳せました。


後半は、カテドラルホールで茶話会。神父様のお話や懐かしの唄のうたごえ、詩吟、寸劇の披露など楽しいひとときを過ごしました。