2015年12月20日日曜日

待降節第4主日

待降節第4主日を迎えアドベントクランツの4本のローソク全てに火が灯りました。
いよいよ5日後にクリスマスを迎えます。

神学校も冬休みに入り、神学生の皆さんも帰省されています。今日は佐久間さんが侍者をされ、近況について報告されました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『教皇フランシスコにより「いつくしみの特別聖年」が宣言され、カテドラルでもある私たちの北一条教会でも、先週の日曜日の主日ミサに、いつくしみの扉が開かれる儀式が司教様をお迎えし行われました。このカテドラルで儀式を行えたといことにその恵みを感じます。カテドラルは教区に一つしかありませんので、私たちはその恩恵に与っているともいえます。この聖なる開かれた扉を大切にして、いつくしみの特別聖年の歩みを私たちも大切にしていきたいと思います。特に教皇様の意向を持って祈るために初めて訪れる人々の上にも、私たちは祝福を祈っていく一年でありたいと思います。
今日は待降節の第4主日。アドベントクランツのローソク4本には全て火が灯されました。主の降誕が間近であることを表します。喜びのお告げは、すでに旧約の時代から伝えられていました。そしてそのお告げが現実になろうとしています。数日の後私たちは主の降誕、クリスマスをお祝いします。でも残された待降節の数日間がありますので、最後の準備を滞りなく済ませたいと思います。
待降節の精神をみな思い起こすことはできるでしょうか?
喜びのお告げをマリアとエリザベトをとおして強調される今日のルカの福音、そのみ言葉に改めて今日耳を傾けながら、黙想する一日でもありたいと思います。
ルカは、洗礼者ヨハネの誕生も人々に喜びをもたらしたと告げていますが、それは救い主イエス・キリストの誕生の関連において、もたらせる喜びでもありました。そして旧約の時代から待ち焦がれていた喜びの中で最高のもの、それが救い主イエス・キリストの誕生、私たちが今待ち望んでそこに向かう主の降誕でもあります。
お告げの天使は、「恵まれたもの喜びなさい。主はあなたと共におられる」とその喜びを告げ、主のご降誕の時には天使は羊飼いたちに「恐れることはない、わたしは全ての民におよぶ大きな喜びの訪れをあなた方に告げる」と聖書は伝えています。その喜びは、私たち全て信じる者の上にも及ぶ知らせでもあります。
今日のルカのみ言葉の中で、聖母マリアがエリザベトを訪問するその内容が語られました。私たち人類の上に与えられる救い主の喜びを分かち合うこと、エリザベトの訪問はその前兆としての喜びを私たちに告げています。最初にマリアは天使からの挨拶をエリザベトに告げ知らせています。そこで喜びを抑えることのできないエリザベトがいました。エリザベトもおなかに子供を身籠っています。そのおなかの子は後々イエスに洗礼を授ける洗礼者ヨハネとなる人でした。マリアの挨拶を受けて、エリザベトの体内で喜び踊る洗礼者ヨハネの姿も私たちは黙想することができると思います。神の子救い主は、ご自分を体内に宿している聖母マリアを介して、信仰をもって彼女を受け入れるエリザベトに喜びをもたらしました。
今日の短い福音の中で、挨拶という言葉が3回出てきます。そのことを少し考えると、私たちが何気なくしている挨拶は、どんな挨拶なのかなあとそんなことを考えます。当たり前のように儀礼的に挨拶をしてしまう私たちだと思います。でもこのエリザベトとマリアの出会いにあった挨拶は、相手であるエリザベトに大変大きな喜びをもたらした挨拶であったことが語られています。普通の喜びではなかった、お腹の子供さえ喜び踊るような、そんな喜びの挨拶を受けたというのが、今日の挨拶という言葉に強調されているのかなと思います。そもそも挨拶という言葉を辞典で引いても、儀礼という言葉で表現されますが、このマリアとエリザベトの出会いにあった挨拶は、単なる儀礼ではなくて本当に喜びをもたらす挨拶であった。私たちも挨拶をそういう喜びをもたらす挨拶に変えられたらいいなと願います。時には笑顔をもたらす挨拶もたくさんあろうかと思います。でも笑顔も全く生じないような挨拶を交わしているのも私たちであるような気がします。儀礼的になってしまうと、ただ言葉で挨拶をしているだけ、相手の人にどんな反応があったのかさえも考えることなく通り過ぎていく挨拶もあると思います。私たちの人と人との出会いを大切にする挨拶になっていけばと、今日のマリアとエリザベトの出会いにあった大きな喜びをもたらす挨拶のことを考えると、そう願います。
さて、マリアとエリザベトの感動的な出会いがあり、エリザベトはすぐにマリアの偉大さを讃え、メシアの到来を宣言してもいます。このエリザベトの賛美の言葉は、私たちがよく唱えているアベマリアの祈りの中に組み込まれている言葉でもあります。
「あなたは女の中で祝福された方、あなたの胎内の子も祝福されています」そして続けて「わが主の御母が、わたしのところに来てくださるとは、いったいどういうわけでしょう」エリザベトは、マリアの信仰をよくご存じであったという表現がここでみられます。「主がおっしゃたことは必ず実現すると信じた方。」私たちも信仰を生きるものとして、互いがそう信じあえるそういう兄弟でありたい、家族でありたいと思います。
ルカが告げる救いの喜びは、神のみ言葉を聞いて、これを行うものこそ私の母であり、私の兄弟である、そしてむしろ幸いなものは神のみ言葉を聞き、それを守る人である、このようにキリストの言葉に結び付けて福音は書かれています。
待降節の四度目の日曜日を迎えて、私たちは残された数日を主の降誕までの準備とします。マリアの信仰に習いながら、どんな時にも私たち一人一人が希望を見失うことなく歩んでいくことを祈りましょう。そして私たちの教会もまた、全ての人と共に祈り、主に向かい歩み続けていくことができますように。』