教皇フランシスコは、今年 2015 年 12 月 8 日から 2016 年 11 月 20 日まで、「いつくしみの特別聖年」を行うことを発表されました。
12月8日、教皇フランシスコは「聖なる扉」を開く式を行い、翌年11月20日までの「いつくしみの特別聖年」が始まりました。13日には世界中の司教座聖堂などで「聖なる扉」を開く式が行われます。
札幌教区の司教座聖堂(カテドラル)である北一条教会でも、12月13日(日)の主日ミサの前にカテドラルホールで、勝谷司教様の司式により「聖なる扉」を式が行われ、祈りを捧げた後、聖堂の扉が開かれました。
カテドラルホールに会衆が集まり、勝谷司教様の司式によりお祈りが捧げられました。
聖堂の「聖なる扉」の前に移動して、司教様がお祈りし、そして扉が開かれました。
勝谷司教様のお説教をご紹介します。
『いつくしみの特別聖年が開幕しました。そこに掲げられているのは、「御父のようにいつくしみ深くあれ」その言葉です。そして、その具体的な事例を私たちは、福音書のイエスをみてとるわけですが、この「いつくしみの特別聖年」を発布した教皇フランシスコは自身が、その神のいつくしみを全世界に示すために、私たち全世界のある教会、信者一人ひとりがそのいつくしみの先駆者としてふるまうよう求めておられます。
教皇様自身がこれまで何度も紹介してきていますが、その姿勢は今まで世界に向かって、こうあるべきとか、そういうような話しをすることは、歴代の教皇の常だったのですが、この教皇フランシスコの違いはそのようなことを言いながら、自らが実践する、模範として示す。貧しい人たちに手を差し伸べよと全世界に言うばかりではなく、実際にバチカンのシスティーナ礼拝堂を開放したり、バチカン広場の一部を散髪やシャワーの場に開放したり、そして各地の難民のいるところや刑務所に率先して出かけておられます。この教皇フランシスコの姿勢が就任したときからいっかんしているのです。
私はこの北一条教会に主任司祭として赴任してきたときに、在任期間は3ヶ月に満たなかったのですが、教皇のお告げの祈りのときの説教を紹介したのでした。そのときに、教会はいろいろな壁を作って多くの人たちを阻害してしまっている。特に倫理的なものは教会法で阻害しているばかりでなくて、信者の集まりで批判な目、それによって阻害していることがある。具体的な例としてあげたのは、教皇様も自分の教区で体験していたことと思いますが、 父親のないシングルマザーが教会にやってきたときに、ふしだらな女だという眼差しを多くの人が向け、傷つき教会に来ない。せっかく教会に戻ってきたのに、そこで戻ってしまう。
通常はその子を堕ろしてしまうことが考えられるのに、その子を一人で育てる決心をしましたねと言って、その姿勢を応援してあげる、教会はそうすべきであった。裁くのではなく、むしろ教会に戻ってきたそういう人たちを暖かく迎え入れる、そして支えるべきでないか、こういった教皇の説教を紹介した覚えがあるのです。そのとき、不思議だと思ったのは、その説教をしたときに、今日初めて教会に来た女性が赤ちゃんを抱えて「私がそうです。」と。神様が導いてくださったようなことを覚えています。
そのことに限らず結婚に失敗してしまったことや、教皇様が心を痛めてシノドスのテーマにしていたマイノリテイの人たち、そういう人たちに対して私たちはどのような態度をしめしていたか。ましてや熱心に教会に来てその努めを守っている私たちは、ほとんど教会に来ていない信者の人たちにどのような眼差しをおくっているのか。そのようなことを考える時に、私たちはまず、私たち自身が反省する必要がある。そのことも教皇様は呼びかけておられます。
ただ、私たちは回心し、そして人々に神のいつくしみを示すように、教皇様の言葉で言うならば、「出向いて行きなさい。」という言葉で使われます。英語で言うとgo forthと言うのですが,forthというのは「前に押し出す」という意味。名詞では「力、正義」という意味。
ミサの終わりのgo forth(ミサを終わります。行きましょう、)は、ただ教会から出て行くのではなく、福音をのべ伝えるために、そういうニュアンスがあります。私たちが出向いて行けと言われているときに、わたしたちが今、何か躊躇しているものをこえて、前に立って心を開いて、出かけて行きなさいと言われています。でもそう考えると凄い重荷を負わされたような、今までやっていなかったことをがんばって始めなければならないと、そういう負担を案じる方がおられるかもしれません。でもそういうことではないんですね。私たちが出来る当たり前のことを、今まで躊躇していたその壁を乗り越え、当たり前のことをしないさいと。
今日の福音書でヨハネが呼びかけているこの回心。まるで回心しなければ裁かれるようなことですが、民衆が「ではどうしたら良いのですか。」と言うと、読んだ通りです「出来ることをしなさい。」特別なことをしなさいと言うわけでない。徴税人に対しても仕事をやめろとは言わない。むしろ、自分が今与えられている場において、そこで人々に分かち合える、あるいは手をさし伸べることをしなさいと、述べられています。
教会の中でなくても、本当に自分が受け入れられている、自分の居場所があると実感している人はどれだけいるかと思います。寂しい思いをして自分の居場所を求めて教会を訪れる人が、何か一人で祈っているかのようだが、そっとしておいてあげようという善意といいわけ。何もしない、おせっかいであっても、本当に迷惑であればそのような顔をするでしょう。そっとしてあげれば良い。そうかもしれないというのが一番悪いこと。小さなおせっかい、「出向いていけ。」というのは何かぎょうぎょうしいが、私は敢えて小さなおせっかいをと思っています。
つい先週、東京で会議があって久しぶりに満員電車に乗りました。大変亜ぎゅうぎゅう詰めでした。でも、だんだん人が少なくなって、自分が座れる席が出来ました。やっと座れると思って腰をおろしたら、目の前に赤ちゃんを抱いた母親が乗ってきたんですね。私の隣に座っていたのは高校生のカップル。あなたたちが譲れよと思ったのですが、気づかないふりをしている。私もふたむかし前だったら、席を譲ってやれよと言いたい年齢でしたが、誰も何ともしないので、「どうぞ。」と言って自分が譲りました。その後、赤ちゃんが泣き出したのです。そうすると、隣に座っていた高校生の女の子が、その赤ちゃんあをあやし始めたのですね。それがおかしくて、その両親のやりとりが、あの緊張していた車内、何となくギスギスしていた車内がなごんできたんですね。みんなニコニコしだしたのです。それは、私が何かするということではなく、私が出来たのは人を非難する心を持ちながら、席を譲っただけだったのです。でも。そこからあの幸せな空間を、わずかな時間ですが、車内の中で醸し出すことが出来たのです。
私は、これが神の業と感じるのです。私たちに求められているのは世界を幸福にすることではなくて、今、目の前にいて手をさしのべ、声をかける人に対して出来る何かをしなさい、それを通して、後は神様がしてくださる。その神様に信頼して今、与えられた現場で何かしなさい。そのために躊躇、いいわけの壁を越えて私たちは何かするよう、求められていると思います。』