2015年12月27日日曜日

12月27日 聖家族

一年の最後の日曜日、教会の典礼は聖家族の日を迎えることになりました。
まもなく今年一年の歩みが終わろうとしています。この一年の日々を感謝しながら、いつくしみの特別聖年という新しい一年に希望を持って、私たちは進んで行きたいと思います。

年明けの1月1日(神の母聖マリアの祭日)には、「元旦ミサ」が午前10:00から行われます。
この日のミサは、日本では、守るべき祝日の一つになっています。
お正月には、元気な姿でお会いしましょう。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『一年の最後の日曜日、教会の典礼は聖家族の日を迎えることになりました。
教会は、聖マリア、そして聖ヨセフ、幼子イエスの3人で構成される共同体を聖家族としてお祝いし、家庭生活の模範、そして社会生活のモデルとして私たちに示しています。
信者の私たちにとって、聖家族の姿は、神に祝福された家族、幸せに満ちた家族として、憧れになります。でも誰もが皆、いつもそのように聖家族をみているわけではないと思います。時には、私たちの悩みや苦しみが多く、あまりにも私たちの現実とかけ離れた聖家族になってしまい、時にはうらやましく思ったり、妬ましく思ったり、そんな思いを私たちは心の中に感じることがあるのではないでしょうか。
自分たちが辛いときは、あまりにも幸せな聖家族が、ただただ羨ましい家族になってしまう。でも聖家族はいつも幸せに満ちていたでしょうか。必ずしもそうではないということが、聖書で描かれています。聖書をよくみると、マリアとヨセフの二人にとって、互いを受け入れるときから、いろんな戸惑いがあったということが聖書で書かれています。まず結婚する時から、互いが戸惑いの中にあっても二人は結ばれていく、そういう過程を聖書は描きます。受け入れるときから、迷い苦しみがあった二人でもあります。また、聖書では、幼子の出産にあたっても旅の途中で安全な場所を確保することができない中で、その環境は暗く冷たい馬小屋であったと記しています。現代の私たちでは考えられない、そのような場所で幼子が誕生する。お父さん、お母さんであるマリアとヨセフにとって、どんなに大変な思いをして誕生の日を迎えたことでしょうか。
誕生後もまた、大きな出来事が聖書で描かれます。両親は我が子を守るために、エジプトへ旅をしなければなりませんでした。誕生したばかりの幼子を抱えての今の時代からは全く想像もつかない厳しい旅だったと思います。
その後、ナザレの小さな田舎町に行きつき、神の子を育てるという戸惑いの中で、神への信頼を持っていたとしても、親として子供の不思議な宣教に出会うとき、やはりそこには戸惑いもたくさんあった日々であったと思います。マリアもヨセフも母親として父親として、その苦労を私たちと同じように担って成長していったんだと私は考えます。そのような苦しみを乗り越えた家族であるからこそ、聖家族の姿は素晴らしくもみえます。そして私たちの模範の家族としても讃えられることになったのだと思います。
ついこの二日前、その幼子は私たちの心の中にも新たに誕生しました。その幼子をイエスを私たちが離すことのないように、また私たちが正しい道を歩んで行くことができるように、教会は私たちの模範となる聖家族を私たちの前に示しているのではないかと思います。
改めて聖家族を考えています。ご存知のように聖マリアの夫ヨセフがいて、そのヨセフは神から選ばれた方、イエスの養父となる方でした。聖マリアは恵みに満ちた方として、無原罪の母マリアであり、ヨセフと結ばれますが、聖霊によって神の子の母となられる方。この二人はともに、天使を介して神からのお告げを受けて結ばれることになりました。お告げによって神の子を慈しむ理想的な家族をつくるこの二人。平和的な家庭の中で幼子を育てていく二人。その家族は互いに愛と奉仕の結びつきによって、私たちの模範となる家庭の姿を示しています。愛と敬いの心を持つ夫婦としても、マリアとヨセフは夫婦の模範でもあると思います。
イエスは福音宣教に出て弟子たちと共に生活をしていた時、心を尽くし魂を尽くし精神を尽くして、主なる神を愛せよ、これが第一の掟だと答えています。きっとこのイエスの言葉どおりにマリアとヨセフは神への信仰を生き、互いを尊重し、互いを愛し合って、その家庭をつくりイエスを育てあげたのだと思います。そのヨセフとマリアにみられるように、愛と共に尊敬しあう夫婦として、私たちも見習うべきことはたくさんそこに見出すことと思います。夫婦としての務めとともに、また子供に対する親としての務めも大切なことはもちろんです。か弱い嬰児の中に神の御子の姿が隠されていた、秘められていた。神を信じる二人でしたが、子供の成長にあたって、たくさんの不思議を体験したのではないでしょうか。自分たちには訳が分からない不思議を、その子供の成長に見ていたのではないでしょうか。そのような中にあってもひたすら子供のために働き、霊魂と体を守られたに違いありません。子供に対し、イエス・キリストに対してその務めを完全に尽くされたからこそ、聖家族としての模範を私たちに示しているのだと思います。マリアとヨセフのその模範的な姿、そしてイエス・キリストもまた子供の義務を果たしていたということが考えられます。ナザレの田舎町で、救い主であったにも関わらず両親の元で30年余り、お父さんの大工の仕事を手伝ってイエスは成人していきます。今の時代で考えれば、独立もせずお父さんとお母さんの元で大工の仕事をし続けました。イエスはそういう意味でも子として親に対する孝行の模範を示されたようです。
今日の私たちに語られた聖書のお話は、エルサレムの出来事についてのお話しでした。12歳の少年イエスが、預言者としての使命を匂わせるような不思議な出来事が私たちに語られています。私はこのお話の中にいくつかの言葉を注目する中で、イエスの復活の時の様子と関連して黙想することができます。今日の聖書の言葉、そこにみられる共通する言葉が復活の出来事の中にも描かれています。それは、「過越祭」、「三日目」、そして「誰を捜しているのか」。この三つの言葉は、イエスの復活の出来事の中でも共通してみられる言葉です。
聖家族、私たちにとっていろいろな黙想が出来ると思います。家族としての互いの繋がりを大切にし、聖家族を私たちは見つめていくことが大事だと思います。もちろん、現代に生きる私たち家族にとって、それは夫婦間の問題もあり、子育ての悩みもあり、二千年前の聖家族とは違った問題をたくさん抱え込んでの私たちの毎日かもしれません。でもどの時代でも家族の中には忍耐が必要だということではないでしょうか。神に向かう人生の旅である現実を見つめながら、子供たちはキリストの従順を学びながら、神にも人にも愛される人として成長できるように、今日私たちは聖家族に取り次ぎを祈りたいと思います。
そして、それぞれの役割・使命を神の民として教会共同体の中でも果たしていくことができるよう祈りたいと思います。
まもなく今年一年の歩みが終わろうとしています。この一年の日々を感謝しながら、いつくしみの特別聖年という新しい一年に希望を持って、私たちは進んで行きたいと思います。』