2015年12月7日月曜日

待降節第2主日 -その2 後藤神父様のお説教-

12月になり教会前庭の欅の葉はすっかり無くなってしまいましたが、静かに眺めていると、枝の先から天に向かって発散する生気が伝わって来る様です。


45年前、農林試験場に調査を依頼した際に、樹齢120年~130年との説明を受けていますので、樹齢170年前後になる欅ですが、今も四季折々の自然の優しさを私たちに伝えてくれます。
欅は北海道には自然分布していないので、最初の屯田兵入植が140年前ということから、この欅は誰かが植樹したものと考えるのが妥当です。130年前に教会関係の何方かが、故郷を慕い、主の教えを振り返り、宣教への決意を新たにする為に植樹した「望郷樹」なのかもしれません。北一条教会は献堂100周年を来年に控えていますが、欅の幹に耳を澄ますと、横溢する先人たちの宣教への思いが伝わってくるようです。

神の子の第一の来臨を追憶し、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける待降節は、第2週目を迎えアドべベントクランツに2本目のろうそくに灯がともりました。

<後藤神父様のお説教概要です>
待降節に入って1週間、いつもと違う慌ただしい一日が過ぎていました。金曜日は小学校の5年生のグループが総合学習で教会を訪問して下さり、子供達から沢山の質問を受け、子供たちに教会の本当の姿を知ってもらいました。また、別の日には7~8人の外国人グループの巡礼訪問もありましたし、昨日はカリタスのクリスマスコンサートでした。教会の幾つかの飾りを見た友人からが声が掛かって来たという信者さんの話も聞きました。待降節は、色々な人との出会いを通して、私たちの宣教がより大きく歩み出す季節の様に考えます。
さて今日の福音では、救いの歴史における洗礼者ヨハネの立場からみことばが語られます。
洗礼者ヨハネは、主の道を整える為に遣わされるイザヤの預言を成就するものとして登場します。洗礼者ヨハネは当時の民に対しても、私たちに対しても、歩むべき道を見つめさせて下さいます。道を相応しく整えなさい、と呼びかけています。人々は神との出会いの場に導かれます。ヨハネの教えを受け入れようとする人々は、回心によって来たるべき救い主に目を向け、心を開き、神の民となって救いの道を歩み始めようとしています。旧約の預言者は、罪の生活を離れて神のみもとに立ち返る様に呼びかけて来ました。ヨハネは罪の赦しのために回心を説き、人々に悔い改めの洗礼を施しています。救いへの道の準備としての悔い改め、それは私たちにとっても大切なことを示しています。受け入れられた神のみことばは、私たちに悔い改めによる罪からの回心を迫ってきます。神が全ての人に与えたいと望まれる救いの道は、その回心から始まっていると呼び掛けているからです。
旧約聖書では実に706回も道と言う言葉が出て来ます。歩く道の他に、旅を意味したり、宗教的な意味では神のなされ方を意味し、神によって人間に求められている問いも、道と言う言葉が使われています。人間が生涯を掛けて歩むべき道程、行くべき方向、歩く態度もまた大きな意味があります。現実的に考えますと様々な道、誤った道も正しい道もあり、私たちは選択しながらその道を選びとって行かなければなりません。旧約聖書では、神は道の導き手であると言う表現が多く使われています、神は牧者の様に道の先頭に立たれる方、そしてイスラエルに命の道を示される方です。神は私たちの道を護り、目的地まで導いて下さる方です。若し悪の道を歩んでいたならば、すぐに神に立ち返って戒めの道を歩まなければ幸いを得ることは出来ません。神に至る道こそ正しい人の道です、その道は夜明けの光のようにますます輝いて真昼に至ります。
イスラエルの民が恵み溢れる土地に招かれた様に、過ちを犯しながらも、悔い改めを続けながら歩いて行った先に豊かな地に導かれた、と言う聖書の話に心を止めなければなりません。「私はあなた方を鷲の翼に乗せて私の方に連れてきました」。神はエジプトの地から脱出した人々を、苦しみから開放し、勇気付け、旅へと誘いました。
今日のルカの福音は、洗礼者ヨハネの宣教によって整えられ、イエスによって完成される事を伝えています。道は平らにされ、全ての人が神の救いを見る。待降節第2主日を迎える教会の中で、洗礼者ヨハネは今日もまた私たちに語りかけて来ます。荒れ野に誘うヨハネの言葉、私たちはヨハネの声を聞くべく荒れ野に向かわなければならないのです、荒れ野は主がそこで人々に向かい、私たちに語りかける場所として描かれました。私たち自ら、神が語り掛けるその場所に赴かなければ、神の声が私たちの心に響いてこないと思います。忙しい中、私たち一人一人が、神が語りかける時間を作ってその場所に赴かなければ、神の声を私たちは受け止められないのです。忙しい中にあっても神と語り合うひと時を大切にして、待降節を歩んで行きたいと思います。神に向かって一人ひとりが心の準備をし、心から喜び、心から賛美出来る主の降誕に向かって歩んで行きましょう。