今年は暖冬のため、雪も少なく穏やかなクリスマスを迎えることができました。
今日のクリスマスミサは、勝谷司教様と後藤神父様の司式により行われました。
祭壇の前には幼子イエス様が飾られました。
入堂の後、キャンドルの灯りで聖堂はやさしい光に包まれました
勝谷司教様のお説教をご紹介します。
『クリスマスおめでとうございます。
つい先日、ネット中でこのようなやり取りがありました。
ある神父様が、とても有名な神父様ですけれど、自分のフェイスブックに「キリストのいないメリークリスマスは無意味」だと、一言だけ載せたのです。それに対していろいろな意見が投稿されていました。
「キリスト教徒になって初めてその意味が分かった」という書き込みと、その意見に同意するというのも多数ありました。
それに対して、「それぞれの大切な人にその想いを伝えるために贈り物をするイベントにはそれだけでも意味があるのではないか?」という意見。その他には、「貧しくてクリスマスを祝えない人もいるし、宗教が違うだけで悲しい思いをする人もいます。世間が浮かれていると余計に孤独を感じる人もいます。」といった、キリスト教徒であっても自分たちだけが幸福感に浸っていてよいのか、そのような意見もありました。
たった一言の書き込みに、多くの多様な意見が書き込まれていました。実際にはもっと多くの考えや意見があるに違いありません。この書き込みは本人のフェイスブック内のやり取りでしたから、常識的な人たちが意見を述べ合い、他者の意見を尊重して、多様な意見を受け入れあうような雰囲気がそこにあります。
私自身、先ほどの神父の書き込み同様、キリスト抜きの商業ベースに乗ったイベントとしてのクリスマスに冷ややかな目を向ける一人でした。でも多様な考えに接して、クリスチャンではない日本人のイベントとしてのクリスマスについても考えさせられました。全く無意味だ、と少し思い上がったような視点から眺めるのではなくて、むしろ別な観点からみると違う意味があるということに気付かされたわけです。
一方よく見受けられるネット上での議論は、自分の意見を絶対視し、相手を論破するために、時には相手を傷つけるようなひどい言葉をもって相手を攻撃するやり取りです。自分を正義とし、他を認めない不寛容の極端なやり取りです。私はこの一年間、このようなやり取りにいや応なしに巻き込まれてきました。このようなやり取りには心が病みます。しかし、それほど極端ではなくても同様な傾向は私たちの誰にでもあります。自分の正しさを確信し、人の過ちを正したいという正義感です。
先日ここでミサをやった時の説教で、東京の電車内で起こった出来事について話をしました。取るに足らないちっぽけな出来事なのですが、私にとっては非常に印象に残っています。もう一度その話を紹介したいと思います。
先日、出張で東京へ行き会議が終わり夕方の飛行機で帰る際、ちょうどラッシュの時間と重なり、満員電車の中、重たいスーツケースを抱え疲れた体で立っていましが、ある駅で乗客の大部分が降りて席が空き、ようやく座ることができました。ほっと一息付いたのも束の間、次の駅で小さな子供を抱えたお母さんが乗ってきました。私の隣には元気のよい女子高生が座っていたので、当然彼女たちが席を譲るものと思っていたのですが、一向にその気配がないので、彼女たちに一言言ってやろうかなとも思いましたが、私が譲ることにしました。しかし、お母さんがその席に座ると間もなく赤ちゃんが大声で泣き出し始めたのでした。お母さんは周囲に申し訳なさそうに困った顔をしていました。すると突然、隣に座っていた先ほど席を譲らなかった女子高生が赤ちゃんをあやし始めたのです。それに対して、お母さんもお礼を言ったりとやり取りが交わされることで、車内が不思議な優しさに包まれていくのを感じました。
今から思えば、はじめに席を譲らなかった女子高生は、そのことで後ろめたい気持ちもあったのだろうかと思います。それで赤ちゃんが泣き出したとき、あやし始めたのだろうかとも思います。でもその時は、彼女がどような気持で座っていたのかということに思い至らず、非難がましい思いを向けていました。考えてみると私の行動は正義感とかではなく、自分の利己心からでした。
大切なことは人を裁くことではなく、自分が為すべきことを神の求めとして素直に実行することです。自分ができない、したくないことの言い訳に自分の正義を盾にしてはいけないのです。結果的に社内の誰もが僅かな時間でしたが、幸福感を味わうことができました。
新約聖書のイエス様の態度をみると、それは裁きの心ではなく、限りないいつくしみを示す態度です。そうしているときも回心へと導いていたのです。当時、倫理的に正しい生き方とは思えない生活をしていた人々に対して、イエス様はまず回心を求めたのではなく、むしろ罪の中にあるあなたこそ神のいつくしみの対象であることを示すために、無条件に彼らの中に入って関わりを持っていかれました。例えば、放蕩息子のたとえ、徴税人ザアカイ、その後イエスの弟子になったといわれる石を投げつけられそうになった姦淫の女も、罪の告発ではなく彼らの回心を前提とせず、イエス様によって彼らに向けられた神である父のいつくしみに接して、はじめて回心し人生を変えていく力を得たのです。
先日、無原罪のマリアの祭日から特別聖年が始まりました。教会に呼びかけられているのは、このいつくしみの心です。教皇フランシスコの大勅書には以下のような記述があります。
第10項、第20項、第21項
私たちは、このいつくしみの眼差しを社会に対してだけではなく、教会共同体すなわち私たの兄弟姉妹にも向けるよう招かれています。自分の信仰生活を基準として人々を判断し裁くのではなく、ともに神のいつくしみによって養われゆるされたものである喜びを分かち合って生きるよう招かれているのです。
キリストの誕生が意味することは、正しさを求めるだけの神のイメージを超えて、イエス様によってゆるしに満ちた無条件の神の愛、いつくしみがまさに今この地上にもたらされたことを祝う日です。』
御ミサの後、カテドラルホールで茶話会が行われました。