2016年8月28日日曜日

年間第22主日

今日のミサのテーマは、「謙虚な心」、「柔和な心」。
分の日頃の言動を黙想する機会としましょう。

今日の後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。


『皆さんは、今日のミサの中で語られたみ言葉のテーマに気付かれましたでしょうか?今日の祈りも、そしてみ言葉の中でも一つのテーマを考えることができるような気がします。先週の主日ミサから今日のミサまでの一週間の日々の中に、皆さんの言動に、へりくだる心はあったでしょうか?謙遜の心を見失うことはなかったでしょうか?今日はそういうテーマが私たちに語られています。
最初に入祭の唄を歌って私たちはミサを始めますので、聖書と典礼の下段にいつも掲載されている短い詩編である入祭唱の言葉は、あまり見ないままでミサに入ってしまう方も多いのではないかと思います。そこの中には「あわれみをわたしの上に。」という言葉がありました。この「あわれみ」は、謙虚な心にもつながっていくのではないかと思います。神に、あわれみを求めるためには何よりも必要なことは、「謙遜な心」、「へりくだる心」ではないでしょうか。第一朗読の中でもそういう言葉が出てきました。「何事をなすにも柔和であれ」。柔和という言葉にも共通する意味を私たちはそこに見ることができると思います。主に喜ばれ、受け入れられるためには「へりくだる心」「柔和な心」が必要だと聖書から呼びかけられています。その反対に「おごり高ぶる者」「高慢な者」というものが出てきます。そして「おごり高ぶる者」の心の中には悪が宿っていて、手の施しようもないということでしょうか。高慢な心が自分の心を占めているならば、救いようがないと言われるとするならば、私たちはもっと真剣に自分の言動というものを見つめなければなりません。私にとっても難しいもののひとつだと思っています。謙遜な心、謙虚な心を大切にしたいと思っていますが、エゴイスティックな心に支配されます。自分本位の考えが先に立ってしまって、高慢な心はすぐ自分の中から出てきます。知らず知らずに高慢な心が先になってしまうこともあるような気がします。

イエスは今日の福音の中で宴会の話をしています。食事を共にすることは人と人との交わりを深めることになり、とても有意義なものです。聖書の中でも度々イエスが食事をする場面が描かれています。イエス自身もおそらく食事をするということを人と交わるうえでとても大切だと考えていたのではないでしょうか。すべての人の友であるというイエス自身の生き方そのものを表すひとつの場として、食事も大切にされていたような気もします。そしてその食事の頂点に最後の晩餐があり、私たちのこのミサというものにもつながっているような気がします。その食事の席は、永遠の救いの喜びを分かち合う食卓を暗示するものといえるでしょう。私たちはこのミサの中で共に祈り、共に食すことによって、永遠の救いの宴会を先取りしているのだと思います。そういう気持ちでミサを捧げられたらいいなと思います。ですからこのミサにおいても席で争うようなことはあってはならないと思います。聖書の中での宴席の話の中では、上席を好む人がいて、その失態もどういうところから出てくるかということが話されます。

聖書のお話は食事をするためにファリサイ派の議員のある家に入ったイエス。イエスは招待客の様子をうかがいながら気が付いたことをたとえ話で私たちに語ります。結果として、「高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」。地位や富を持つ者は自分を優先して、地位の低い人や貧しい人を蔑むというのは、私たちの社会やそして自分たちの中にもそういう心を持っているのではないでしょうか。昔も今もそのような意味では変わらないような気がしますが、私たち一人一人はこの婚宴のたとえ話を聞いて、自分はどんな気持ちでそうした席にむかっているだろうか、ということを考えることも必要だと思います。

普通に考えるとイエスを愛する私たちの信仰は、熱心な信仰を持っているはずです。しかし、状況が変わると謙遜な心を忘れて、自分の十字架を負うことよりも、高慢な自分が優先してしまい、行動していることもあると思います。今日のみ言葉はそういう意味で教会と教会共同体にとって、一人一人がどう行動しているのかということを黙想する機会を与えてくれます。』


来週(9月4日)の主日ミサは教区100周年行事のため藤学園で行われます。




2016年8月21日日曜日

年間第21主日 -聖母被昇天と初聖体のお祝い会-

今日のミサは、前日の20日に霊名記念日を迎えられたベルナルド勝谷太治司教様の司式でした。


霊名記念のお祝いが司教様へ渡されました。


御ミサの後、カテドラルホールで聖母被昇天と初聖体のお祝い会が行われました。

先週、初聖体を迎えた日下麻理香ちゃんからお父さんと一緒に喜びの言葉がありました。


教会学校の子供たちみんなで聖歌の合唱です。神学生の簑島さんも参加しました。


こうして今年も平和のうちにお祝いができることを神様に感謝します。そして、今年10月に献堂100周年を迎える私たちの教会に、これからを担う子供たちの笑顔がますます広がりますようお祈りします。

勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『狭い戸口から入りなさいという今日のイエス様の御言葉。そして、不義を行う者ども、皆、私から立ち去れという御言葉。イエス様が求めておられるのは、神の御心を行うことです。今日の福音書をこの部分だけ取り上げてみるとするならば、それがどういう意味であるか、私たちはまた誤解してしまうかもしれません。狭いこの戸口から入れ、不義を行うな、神の御心を行うということは何を意味するのか。イエス様の時代の多くのユダヤ人たちが考えたことは 、素晴らしい立派な生き方をすることだと考えていました。そして、そのような生き方を徹底して貫こうとしていたのが、律法学者や特にファイサイ派の人たちでした。ですから、自他共に正しい人と認められている人たち。そういう人たちこそ、神の国に入れたと考えていました。そのような考えが当たり前だと思っていた人たちへの警告なわけです。むしろ、そのような人たちは、「おまえたちはどこの者か知らない。」と言って排斥され、一方、東から西から、南から北から来た大勢の人が、当時のユダヤ人たちが考えていた、神の国には入ることが出来ない人たち、神を知らない呪われた者ども、イエスを知らない罪人、そう考えていた人たちが 大勢、神の国の宴会に入る逆説的な話しです。ですから救われる人は少ない、選ばれた人だけしか救われない、ということにだけ力点が置かれているのではなくて、むしろ私たちは救われ側の人間であると安心しきって、そしてその中で決められたことを守ってしか生活していない。そして一方、貧困や病気で苦しんでいる人たちが単なる罪の結果である、罰を受けているのだと言って、そういう人たちにまったく救いの手を差し伸べようとしない人たちに対して、厳しい警告の言葉となっているわけです。

  ここに書いてあるメッセージは、福音書全体を眺めながら理解していく必要があります。福音書では神の御旨を行う者、どういう人たちであるのか。まず、今日の福音書の言葉から連想される最初の箇所は、やはりマタイ福音書25章、羊と山羊を分ける。キリストが人々を分ける、そこでの分けられた基準は何かというと、言うまでもなく愛の行為を行ったかどうか。正しい生き方をしたかどうかではなくて、愛に満ちたかどうか、それだけが問われています。
 そしてまたルカの福音書18章。祈るために神殿にやってきた律法学者と徴税人。片方は自分こそ救われる人間である、自分の行っているすばらしいことを神に感謝している。一方、徴税人は遠くに立って目を天に上げようともせず、罪人の私を哀れんでくださいと祈るのです。片方は自分こそ救われて当然だと思っている人、もう片方は自分は救われるに値しない人間だとないと思う人。しかし、この二人に対してイエス様は、義とされて帰って行ったのはあの律法学者ではなく、徴税人であるとはっきりと言われるわけです。

 では、義というのは何であるか、律法学者やファリサイ派の人たちが求めていた義は、聖書の言葉でいうならば、人の義、自分の義を求める、つまり自分の正しさだけを追求する人たちです。しかし、神の義、別な言葉で言うならば「神の国」の実現。神の国が実現したときは、神の義に満ちた世界。それはどのようなことを意味するのかというと。むしろ、自分の罪というものを認めながらも、何度でもその過ちを認めて神に立ち帰る人たち。常に神の眼差しに信頼し、それに背くことを何度行ったとしても、絶対に神は自分を見捨てられない。  どんなことがあっても神は私を愛しくださってくれる。その信頼感のもとに常に神に立ち帰ようとする人、そのような人々を義人と呼びます。
 では神の御心を行うということはどうゆうことなのか。そう考えるならば、これも聖書の中を通してみると典型的な例は善きサマリア人のたとえであり、先ほどの羊と山羊を分けた時に、愛を信じたかどうかが問われているわけです。父の御心を行った者が神の国に入る。御心が行われますようにということは、聖書の中ではマリア様とイエス様がその言葉を語っています。マリア様は受胎告知の中で「お言葉どおりこの身になりますように。」訳を変えれば、神のみ旨が実現しますように、行われますようにと同じ意味です。もう一つは  イエス様がゲツセマネの園で唱えた祈りです。「主よ杯を私から遠ざけてください。しかし、私の思いではなく御心が行われますように。」 
 このいずれの祈りも、神の御心が行われますようにとの意味でいうと、マリア様で言うならば自分を通して神のみ旨が実現していく。つまり、自分自身の生涯を捧げることを意味していました。それに伴う大きな困難も多分自覚していた。マリア様にはそのような姿を見ることができます。そしてイエし様も言うまでもなく、避けようとすれば出来たのにもかかわらず、神のみ旨を実現するために、自らの生命を十字架上に捧げました。神のみ旨が実現するためにという時には、私たちには実現が不可能のようなこの世の様々な悪のことであっても、どうぞあなたの手で正してください。私たちのために何とかしてください。そのためにわたしは何もせず祈ってますということではない。神のみ旨がこの地上において実現しますようにということは常に、私たちが祈るときにはマリア様とイエス様の心に繋がっていなければなりません。
 そうであるならば、私たちも行いを通して、神様のみ旨がこの地上に実現しますようにという祈りになるのです。父のみ心を行うこととは、ただ単に罪を犯さない、正しい生き方を目指すということではなくて、それは極めて自己中心的な生き方に過ぎません。、むしろ私たちはお互いに様々な罪を犯し、迷惑をかけあっているけれど、それを受け入れあい赦しあい、私たちを通して神のみ旨が実現実していくように述べられているのです。

 そう考えてみるならば、今日のこの箇所は、私たちにとって救いのメッセージであると同時に、ひょっとして律法学者やファリサイ派のように教会に来てその努めを果たしていれば良い。身の周りの人に関心をしめさなければ、自分の生き方だけをみて、と思っている人には厳しい警告になっていると思います。
  では神の、私たちたちが狭い戸口から入れと言われているのは、私たちがほっておけば、楽な道を選んでしまう、しなければならないことを分かっていても、ついついそれを後回しにしてしまう。これは自己実現でも言われていたが、社会に対して神のみ旨を実現するということに関しても、今私たちは何をすべきかということも、何となく感じていながら、敢えて傍観者の立場をとってしまう。もし、私たちがそれを日常の生活としているならば、今日の福音書を厳しくうめとらなければなりません。しかし、逆に多くのことに心を開いて、人々と交えているならば、弱さを持っていたとしても、神は受け入れてくださる。このことを理解しながら、互いに何をなすべきなのか祈って参りましょう。』

2016年8月15日月曜日

聖母の被昇天

聖母の被昇天を迎えました。平和を祈る一日としましょう。
いつも侍者奉仕をされている日下麻理香ちゃんが初聖体を迎えました。おめでとうございます!

祭壇で、後藤神父様から初聖体をいただきました。


神父様と侍者仲間に囲まれて



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日、「聖母の被昇天」の祝日を迎えて、1年生の時から侍者をしてミサの奉仕を続けてきた日下麻理香ちゃんは初聖体を受けることになります。初聖体をどんなに待ち続けてきたことでしょうか。皆さんもよくご存じのように、ほとんどミサに欠かさず侍者の奉仕を続けてきたのが麻理香ちゃんです。今年の初聖体を受ける子は残念ながら一人だけでしたが、それでも一人で春から勉強して今日の日を迎えます。侍者の中で一番年下でもあり、自分だけが日曜日のミサの中で聖体を受けられずに奉仕してきましたけれども、今日ようやく初聖体を受けることになります。
昨日、信者の皆さんはゆるしの秘跡を勉強されましたが、その同じ時間に麻理香ちゃんは、ゆるしの秘跡について最後の勉強をして心を清めました。今日はそのきれいな心でご聖体を受ける日を迎えました。晴れて皆さんの仲間入りができます。心から皆さんと共に「聖母マリアの被昇天」を祝うと共に、喜びを分かち合いたいと思います。
そして、私たちは聖母マリアのもとに走り寄る子供たちをいつも支え、これからも子供たちの上に限りない恵みと助けを祈りたいと思います。

今日「聖母の被昇天」の日は終戦記念日です。切なる平和の祈願日でもあります。終戦から71年を迎え、日本の社会ではお盆という行事にも重なっています。戦後71年と一言で言ってしまいますけれど、戦争や被爆を体験した多くの人にとっては今なお、心の傷は消えることなく、戦争はその人たちにとって終わってないと思います。特に愛する家族を亡くされた家族にとっては、その悲しみはいつまでも心から消えることはないでしょう。お盆を迎えて、日本人である私たちは死者への思いを深められる今日です。カトリックの信仰を持つ私たちにとっての「聖母の被昇天」の祝日を教会がどのように教えているかを今年も少し振り返ってみたいと思います。

キリストによって救われるすべての人々は、死んでから後、魂として、神の国で限りない幸福に与る、と教会は教えています。その人々の身体は世の終わりまで復活することはありません。私たちが日曜日に唱えるニケア・コンスタンチノープル信条の最後の一節は、「死者の復活と来世のいのちを待ち望みます」と書いてあります。聖書にいわれるその時が来て、復活してからは、魂も身体も神の豊かな救いを味わって、両方とも幸せになるというのが私たちの信仰の希望でもあります。私たちはそういう希望を抱いて信仰を生きています。
しかし、マリア様は私たちと同じではありません。今日の集会祈願の中でもマリア様に触れた祈りが捧げられました。「全能永遠の神よ、あなたは、御ひとり子の母、汚れないおとめマリアを、からだも魂も、ともに天の栄光にあげられました」とミサの初めにマリア様に心を向けて私たちが祈ったその言葉です。私たちとマリア様が違うのは、世の終わりを待つことなく、この世の命が終わってからすぐにご自分の御子キリストと同じく復活され、霊魂も身体も共に、神の国で御子キリストの側で、キリストの勝利に与っておられる、その素晴らしい恩恵に与る聖母マリアの記念が、この「聖母の被昇天」の祝日の所以でもあります。私たちもマリアに倣いながら自分の信仰を深めていきたいと思います。

聖母マリアは、教会にとっても、また私たちにとっても特別な存在の方です。
父なる神は、はかりしれない愛と知恵と自由をもって、キリストを通して、今も私たち一人ひとり、全人類を救おうとしておられます。
教会はキリストの生きた神秘体として、すべての人をキリストの救いへと導き、世の終わりにその復活と栄光にあずかるように招いておられるのです。
「ここに集うわたしたちを、主よあわれんでください。」
「また、この集いに参加できない兄弟と病人を、キリストあわれんでください。」
「そしてさらに、主のもとに召された兄弟一人ひとりを、主よあわれんでください。」
聖母の被昇天をとおして、亡くなられた魂と私たちは深くつながっています。そのことを心に留めながら、今日の祝日を迎え、死者への祈りを捧げたいと思います。
死者と生者は異なった状態におかれていますが、同じ「キリストのからだ」に属しています。ですから、神の愛と隣人愛によって、霊的交わりのうちに、すでに召された人たちと共に、神の恩恵に深く結ばれていることを私たちは感謝したいと思います。そして聖母マリアをとおして、私たち共同体のために、そしてすでに亡くなった兄弟のために、祈りをこのミサの中で捧げていきたいと思います。』

年間第20主日

イエスの教える平和が素晴らしいと言いながら、私たちの行いはその教えから離れていないでしょうか。聖母被昇天を祝う前に私たちの信仰を見つめて、イエスの心によりいっそう一致するように祈りましょう。

御ミサの後、聖堂において、2012年12月にカトリック住吉教会で行われた溝部司教様の待降節黙想会「ゆるしの秘跡について」を視聴し、ゆるしの秘跡について学びました。ゆるしの秘跡を受けることの大切さ、心のしこりを掘り下げていくと罪に由来しており、それを自覚し、神に告白して回心することが償いや救いにつながっていくというお話でした。視聴の後、しばし黙想し、10名ほどの方が早速ゆるしの秘跡を受けていました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。



『今日のみ言葉、テーマをあげるならば、「神に奉仕する人々が受けるべき受難」とつけることができます。
  第一朗読の旧約聖書では、預言者エレミヤの苦難が描かれていました。民の救いについて告げたエレミヤが泥の井戸に吊り降ろされる。そんな危険な目にあった話しが私たちに告げられました。また、第二朗読のヘブライ人への手紙では、私たちの目を信仰の創始者、完成者であるイエスの方に目を向けさせています。十字架を偲ばれ、罪人の反抗を耐えた方を考えさせています。そして、あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありませんと、最後の一説は述べています。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。今日、たまたま、ミサの後、「ゆるしの秘跡」を学ぼうとしている私たちの教会ですが、今日のみ言葉は、そのゆるしの秘跡とも繋がってくるような内容を私たちに語っています。 今日の福音のみ言葉はそれに呼応しています。最初にイエスが言われます。私が来たのは地上に火を投ずるためである。地上に火を投ずる。平和とは少しかけ離れた表現がそこにあります。ですから、私たちはどういうことなの、どいうことなのだろうかと疑問を感じるような気がします。何とも腑に落ちないイエスのみ言葉が語られるのです。何故イエスは火を投ずると言われるのでしょうか。火を投ずるということは不安な状況が起こるような気がします。平和について語ってきたはずのイエスが、平和ではなくて分裂や対立、混乱をもたらすため来たと話しているのはどういうことでしょうか。分裂、対立、混乱。平和旬間を今、歩んでいる私たちですが、平和とは異なるような状況をイエスは話されます。イエスを受け入れない人、平和を拒否する人は、現代でもそうであるように当時もまた、大勢いたということを物語っているような気がします。ですから、イエスが言われる平和を私たちはもっともっと掘り下げてみる必要があるような気がします。

  私たちの甘えでしょうか。私たちの傲慢さの故でしょうか。神を信じると言いながら、イエスの教える平和が素晴らしいと言いながら、私たちの行いはその教えから時にはあまりにも離れていることが多いのではと思います。イエスの教えをはっきりと理解しているにもかかわらず、私たちの行動や言葉、それはイエスの教えから離れている。イエスを受け入れない人たちに対して、昔も今も、きっとイエスは厳しい言葉を投げかけるような気がします。時々、私も信徒の皆さんに厳しい言葉を投げかけることがあります。そうすると厳しいことだけを取り上げてしまう、そういう受け方をする人もいます。でも、聖書でみるとイエスも時にはとても厳しい、恐ろしい言葉さえ弟子たちにも話されています。それは何故でしょうか。本当に神を信じているのか。本当に救いを望んでいるのか。神の教えを人間として生きようとしているのか。そのことをきっと強く望んでいるからだと思います。

 私たちにはイエスを受け入れるか否かの決断がせまられるようです。それが私たちの信仰でもあるようです。火を投ずると聖書で言われていますが、ミサの解説にもあるように、火は聖書では終末的な聖霊の降臨を表していると考えられています。火は聖霊を表す。そして、その火は私たちのもとにいつも届けられる。降り注がれている。イエスは言います。  私に近い者は火に近く、私に遠い者は御国からも遠い。その背景には私たちがいつも唱えている、「いと高きところには神に栄光、地には御心に適う人々に平和あれ。」こういう言葉も思いおこされます。御心に適う人々に平和あれ。御心を私たちが日々生きているかによって平和が訪れる。み言葉に背くような生き方をしていれば、平和はいつまでたってもその人の心にも、その人の周りにも訪れることがない。神の教えに従わず、み言葉を受け入れることのない人には、家族の中にあっても一致することは難しい。信頼に欠けて対立することが多く、家族の中でも争いを起こしてしまう。私たちがイエスを通して、また聖書のみ言葉を通して教えられていることを、ひとつひとつ大切にして自分の信仰を深めているか。そのことが今日の私たちの黙想のテーマにもなってくるかと思います。その黙想によってゆるしの秘跡とも繋がっていくような気がいたします。昔も今も、それは日常生活の中で大切にされなければならないメッセージだと思います。

 家庭だけでなくて教会の中でも同じ事が言えるようです。イエスを拒否する人は裁きの火となり、争いや分裂がそこから起こってくる場合が多いということです。イエスを受け入れる人には清めの火となって聖霊の力によって心に平安がもたらされ、私たちの共同体にも社会にも平和がもたらされるということ。イエスの厳しい言葉の中には、神の審判が下される前にイエスと一致する平和の道、それが人間の歩むべき道であると教えているようです。厳しさだけに目を留めるのではなく、その厳しい言葉の背景にイエスの深いメッセージと御心があるということを、私たちは気づかさせてもらわなければと思います。
  ゆるしの秘跡が恵みであるというのは、私たちに反省、後悔があり、人を愛し、そして人にゆるしをもって接している、そういう人としての道を歩んでいるかを教え、気づかせ導いているからだと思います。ゆるしの秘跡に与る、本当に心から神の恵み、いつくしみを感じる人はそのことに気づかされていくのだと思います。

   私の部屋の壁に掛けてある月のカレンダーがあります。そこには「ゆるしと平和は神様からの贈りもの」というテーマが掲げられています。神様からの贈りものというと、私はいつも自分の中で待降節、降誕節のその時期にイエス様がこの世に遣わされ、私たちのもとで生まれる。イエスが私たちに贈られたことを、神様からの贈りものと、私はいつも感じています。そのイエスは、ゆるしと平和を私たちにもたらすために来られた。それゆえに、また神様からの贈りものだといえるのだと思います。

  8月。いのちの尊さを考え、平和の祈りを捧げる月でもあります。聖母被昇天を祝う前に私たちの信仰を見つめて、イエスの心によりいっそう一致するように、神の恵みを願いたいと思います。そして、神の母であるマリアのそばにいつも霊的に近づき、歩むことができますように。』





2016年8月10日水曜日

年間第19主日

この日のみ言葉は、「あなたがたも用意していなさい」と私たちに呼び掛けています。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の答唱詩編の答唱句である「神の 注がれる目は 神を おそれる者に 神の愛に 希望を 置く者の上に」
このみ言葉を、私たちは本当に心を込めて歌っていただろうか。そんなことを考えながら皆さんと共に答唱詩編を謳っていました。神の慈しみの目を感じることができるとすれば、それはみ言葉によると、神をおそれる人、そして神の愛に希望を置く人に対してだろうかと、そんなことを思ってこの答唱詩編を謳い祈っていました。そして皆さん一人ひとりは、どんな思いでこの答唱詩編を謳い、このみ言葉を味わい祈っているのだろうかと考えていました。そして、ただオウム返しのように繰り返し謳うだけではなく、神様の慈しみを私たちの心に感じることができないのかとそんな思いでした。

さて、今日のみ言葉は、「あなたがたも用意していなさい」と私たちに呼び掛けています。
先週と同じルカの12章で話されるイエスの弟子たちに対する話が今週も続いています。遺産相続を願い富や財産に目を向けた者にたとえ話をとおして「愚か者」にならないよう貪欲に対してよくよく警戒し「神に信頼し、御国を求めなさい」とイエスは言われました。貪欲な心を抑えて、神に信頼する一週間を過ごすことは出来たでしょうか。
昨日は、71年目を迎える広島の原爆投下の日でした。教会の鐘が鳴り響く朝8時15分、平和の重みを感じる朝となりましたが、原爆の犠牲者を思い、平和の鐘に耳を澄ませて祈った人はどれほどいたでしょうか。同じ時刻には平和の祭典であるスポーツのオリンピックが始まりました。

命の尊さ平和への願いは、尊く大切なものであると誰もが思います。だからこそ、安心して平和に毎日を過ごすために、老後の生活のことも心配になりますし、富や財産に執着してしまうのです。財産が命を保証するものではないと思いながら、信仰が未熟なため葛藤も生まれます。私たちが本当に神を信頼して神の国を信じようとしないならば、ますますこの世に執着することになるのではないでしょうか。
信頼の度合いは、「思い悩むこと」につながっているようです。イエスの言葉に耳を傾け信頼して、共にいてくださるイエスのその教えを生きることができるならば、私たちの心配も小さなものになるような気がします。しかし、日常生活に追われていると、イエスの教えよりも人の話の方が気になります。テレビやネットから流れてくる情報にも振り回されます。イエスへの信頼よりも、時には富や財産の方が大事なものに見えてしまうのです。
イエスは「おそれるな、あなた方の父は喜んで神の国をくださる」と呼びかけ、この世で消えてしまう富ではなく、消えることのない天に富を積みなさいと言われるのです。

平和旬間が始まりました。8月は日本にとって忘れることの出来ない歴史が蘇ります。いのちや平和の尊さを改めて考えさせられる月でもあります。平和を願い祈る私たちですが、戦争の悲惨さは薄れていくばかりです。平和の実現のために、また心からの祈りをささげるためにも、主に信頼し目覚めていることが大切です。
信仰において、目を覚まして私たちが用意しておくこととは何でしょうか?

私たちは共同体として一致し、ミサの中でも主の食卓を囲んでいます。そしてまた、助け合いながら教会でも食べたり飲んだりしながら信仰を生きています。それは神の心、神の意志を大切にする交わりがそこにあるということでしょう。昨日もボーイスカウトが発団してから39周年を迎える記念のミサを捧げました。昼は楽しいひと時を過ごし、冷たいソーメンをボーイのメンバーと共に楽しくいただき心も爽快になりました。そしてその日の午後からは、外国籍の人たちも多く参加した「夕べの会」でも楽しく賑やかな時間を過ごさせていただきました。

単純で明快な神の世界のあかしは、「持ち物を売り、貧しい人に施す」ことなのかもしれません。神にだけに向かって、神に希望をおいた貧しさの中で、希望を失うことなく生きるあかしがあるからです。
それは神に対する絶大な信頼が前提となるものであり、御国を求める心から始まるのです。御国は神の民が集まるのであり、私たちはその一人にすぎないのです。
イエスは弟子たちに、自分の全ての時間、力、思いを持って捧げ尽くすことを願いました。「目覚めていなさい」は、そのことを告げているともいえるのです。
「神に信頼し、御国を求めなさい。目覚めていなさい」

平和を願い祈る私たちですが、一人一人を見つめ招かれている神に、もう一度心を開いてその呼びかけに耳を傾けることができるよう祈りましょう。』