2016年8月15日月曜日

聖母の被昇天

聖母の被昇天を迎えました。平和を祈る一日としましょう。
いつも侍者奉仕をされている日下麻理香ちゃんが初聖体を迎えました。おめでとうございます!

祭壇で、後藤神父様から初聖体をいただきました。


神父様と侍者仲間に囲まれて



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日、「聖母の被昇天」の祝日を迎えて、1年生の時から侍者をしてミサの奉仕を続けてきた日下麻理香ちゃんは初聖体を受けることになります。初聖体をどんなに待ち続けてきたことでしょうか。皆さんもよくご存じのように、ほとんどミサに欠かさず侍者の奉仕を続けてきたのが麻理香ちゃんです。今年の初聖体を受ける子は残念ながら一人だけでしたが、それでも一人で春から勉強して今日の日を迎えます。侍者の中で一番年下でもあり、自分だけが日曜日のミサの中で聖体を受けられずに奉仕してきましたけれども、今日ようやく初聖体を受けることになります。
昨日、信者の皆さんはゆるしの秘跡を勉強されましたが、その同じ時間に麻理香ちゃんは、ゆるしの秘跡について最後の勉強をして心を清めました。今日はそのきれいな心でご聖体を受ける日を迎えました。晴れて皆さんの仲間入りができます。心から皆さんと共に「聖母マリアの被昇天」を祝うと共に、喜びを分かち合いたいと思います。
そして、私たちは聖母マリアのもとに走り寄る子供たちをいつも支え、これからも子供たちの上に限りない恵みと助けを祈りたいと思います。

今日「聖母の被昇天」の日は終戦記念日です。切なる平和の祈願日でもあります。終戦から71年を迎え、日本の社会ではお盆という行事にも重なっています。戦後71年と一言で言ってしまいますけれど、戦争や被爆を体験した多くの人にとっては今なお、心の傷は消えることなく、戦争はその人たちにとって終わってないと思います。特に愛する家族を亡くされた家族にとっては、その悲しみはいつまでも心から消えることはないでしょう。お盆を迎えて、日本人である私たちは死者への思いを深められる今日です。カトリックの信仰を持つ私たちにとっての「聖母の被昇天」の祝日を教会がどのように教えているかを今年も少し振り返ってみたいと思います。

キリストによって救われるすべての人々は、死んでから後、魂として、神の国で限りない幸福に与る、と教会は教えています。その人々の身体は世の終わりまで復活することはありません。私たちが日曜日に唱えるニケア・コンスタンチノープル信条の最後の一節は、「死者の復活と来世のいのちを待ち望みます」と書いてあります。聖書にいわれるその時が来て、復活してからは、魂も身体も神の豊かな救いを味わって、両方とも幸せになるというのが私たちの信仰の希望でもあります。私たちはそういう希望を抱いて信仰を生きています。
しかし、マリア様は私たちと同じではありません。今日の集会祈願の中でもマリア様に触れた祈りが捧げられました。「全能永遠の神よ、あなたは、御ひとり子の母、汚れないおとめマリアを、からだも魂も、ともに天の栄光にあげられました」とミサの初めにマリア様に心を向けて私たちが祈ったその言葉です。私たちとマリア様が違うのは、世の終わりを待つことなく、この世の命が終わってからすぐにご自分の御子キリストと同じく復活され、霊魂も身体も共に、神の国で御子キリストの側で、キリストの勝利に与っておられる、その素晴らしい恩恵に与る聖母マリアの記念が、この「聖母の被昇天」の祝日の所以でもあります。私たちもマリアに倣いながら自分の信仰を深めていきたいと思います。

聖母マリアは、教会にとっても、また私たちにとっても特別な存在の方です。
父なる神は、はかりしれない愛と知恵と自由をもって、キリストを通して、今も私たち一人ひとり、全人類を救おうとしておられます。
教会はキリストの生きた神秘体として、すべての人をキリストの救いへと導き、世の終わりにその復活と栄光にあずかるように招いておられるのです。
「ここに集うわたしたちを、主よあわれんでください。」
「また、この集いに参加できない兄弟と病人を、キリストあわれんでください。」
「そしてさらに、主のもとに召された兄弟一人ひとりを、主よあわれんでください。」
聖母の被昇天をとおして、亡くなられた魂と私たちは深くつながっています。そのことを心に留めながら、今日の祝日を迎え、死者への祈りを捧げたいと思います。
死者と生者は異なった状態におかれていますが、同じ「キリストのからだ」に属しています。ですから、神の愛と隣人愛によって、霊的交わりのうちに、すでに召された人たちと共に、神の恩恵に深く結ばれていることを私たちは感謝したいと思います。そして聖母マリアをとおして、私たち共同体のために、そしてすでに亡くなった兄弟のために、祈りをこのミサの中で捧げていきたいと思います。』