2016年8月21日日曜日

年間第21主日 -聖母被昇天と初聖体のお祝い会-

今日のミサは、前日の20日に霊名記念日を迎えられたベルナルド勝谷太治司教様の司式でした。


霊名記念のお祝いが司教様へ渡されました。


御ミサの後、カテドラルホールで聖母被昇天と初聖体のお祝い会が行われました。

先週、初聖体を迎えた日下麻理香ちゃんからお父さんと一緒に喜びの言葉がありました。


教会学校の子供たちみんなで聖歌の合唱です。神学生の簑島さんも参加しました。


こうして今年も平和のうちにお祝いができることを神様に感謝します。そして、今年10月に献堂100周年を迎える私たちの教会に、これからを担う子供たちの笑顔がますます広がりますようお祈りします。

勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『狭い戸口から入りなさいという今日のイエス様の御言葉。そして、不義を行う者ども、皆、私から立ち去れという御言葉。イエス様が求めておられるのは、神の御心を行うことです。今日の福音書をこの部分だけ取り上げてみるとするならば、それがどういう意味であるか、私たちはまた誤解してしまうかもしれません。狭いこの戸口から入れ、不義を行うな、神の御心を行うということは何を意味するのか。イエス様の時代の多くのユダヤ人たちが考えたことは 、素晴らしい立派な生き方をすることだと考えていました。そして、そのような生き方を徹底して貫こうとしていたのが、律法学者や特にファイサイ派の人たちでした。ですから、自他共に正しい人と認められている人たち。そういう人たちこそ、神の国に入れたと考えていました。そのような考えが当たり前だと思っていた人たちへの警告なわけです。むしろ、そのような人たちは、「おまえたちはどこの者か知らない。」と言って排斥され、一方、東から西から、南から北から来た大勢の人が、当時のユダヤ人たちが考えていた、神の国には入ることが出来ない人たち、神を知らない呪われた者ども、イエスを知らない罪人、そう考えていた人たちが 大勢、神の国の宴会に入る逆説的な話しです。ですから救われる人は少ない、選ばれた人だけしか救われない、ということにだけ力点が置かれているのではなくて、むしろ私たちは救われ側の人間であると安心しきって、そしてその中で決められたことを守ってしか生活していない。そして一方、貧困や病気で苦しんでいる人たちが単なる罪の結果である、罰を受けているのだと言って、そういう人たちにまったく救いの手を差し伸べようとしない人たちに対して、厳しい警告の言葉となっているわけです。

  ここに書いてあるメッセージは、福音書全体を眺めながら理解していく必要があります。福音書では神の御旨を行う者、どういう人たちであるのか。まず、今日の福音書の言葉から連想される最初の箇所は、やはりマタイ福音書25章、羊と山羊を分ける。キリストが人々を分ける、そこでの分けられた基準は何かというと、言うまでもなく愛の行為を行ったかどうか。正しい生き方をしたかどうかではなくて、愛に満ちたかどうか、それだけが問われています。
 そしてまたルカの福音書18章。祈るために神殿にやってきた律法学者と徴税人。片方は自分こそ救われる人間である、自分の行っているすばらしいことを神に感謝している。一方、徴税人は遠くに立って目を天に上げようともせず、罪人の私を哀れんでくださいと祈るのです。片方は自分こそ救われて当然だと思っている人、もう片方は自分は救われるに値しない人間だとないと思う人。しかし、この二人に対してイエス様は、義とされて帰って行ったのはあの律法学者ではなく、徴税人であるとはっきりと言われるわけです。

 では、義というのは何であるか、律法学者やファリサイ派の人たちが求めていた義は、聖書の言葉でいうならば、人の義、自分の義を求める、つまり自分の正しさだけを追求する人たちです。しかし、神の義、別な言葉で言うならば「神の国」の実現。神の国が実現したときは、神の義に満ちた世界。それはどのようなことを意味するのかというと。むしろ、自分の罪というものを認めながらも、何度でもその過ちを認めて神に立ち帰る人たち。常に神の眼差しに信頼し、それに背くことを何度行ったとしても、絶対に神は自分を見捨てられない。  どんなことがあっても神は私を愛しくださってくれる。その信頼感のもとに常に神に立ち帰ようとする人、そのような人々を義人と呼びます。
 では神の御心を行うということはどうゆうことなのか。そう考えるならば、これも聖書の中を通してみると典型的な例は善きサマリア人のたとえであり、先ほどの羊と山羊を分けた時に、愛を信じたかどうかが問われているわけです。父の御心を行った者が神の国に入る。御心が行われますようにということは、聖書の中ではマリア様とイエス様がその言葉を語っています。マリア様は受胎告知の中で「お言葉どおりこの身になりますように。」訳を変えれば、神のみ旨が実現しますように、行われますようにと同じ意味です。もう一つは  イエス様がゲツセマネの園で唱えた祈りです。「主よ杯を私から遠ざけてください。しかし、私の思いではなく御心が行われますように。」 
 このいずれの祈りも、神の御心が行われますようにとの意味でいうと、マリア様で言うならば自分を通して神のみ旨が実現していく。つまり、自分自身の生涯を捧げることを意味していました。それに伴う大きな困難も多分自覚していた。マリア様にはそのような姿を見ることができます。そしてイエし様も言うまでもなく、避けようとすれば出来たのにもかかわらず、神のみ旨を実現するために、自らの生命を十字架上に捧げました。神のみ旨が実現するためにという時には、私たちには実現が不可能のようなこの世の様々な悪のことであっても、どうぞあなたの手で正してください。私たちのために何とかしてください。そのためにわたしは何もせず祈ってますということではない。神のみ旨がこの地上において実現しますようにということは常に、私たちが祈るときにはマリア様とイエス様の心に繋がっていなければなりません。
 そうであるならば、私たちも行いを通して、神様のみ旨がこの地上に実現しますようにという祈りになるのです。父のみ心を行うこととは、ただ単に罪を犯さない、正しい生き方を目指すということではなくて、それは極めて自己中心的な生き方に過ぎません。、むしろ私たちはお互いに様々な罪を犯し、迷惑をかけあっているけれど、それを受け入れあい赦しあい、私たちを通して神のみ旨が実現実していくように述べられているのです。

 そう考えてみるならば、今日のこの箇所は、私たちにとって救いのメッセージであると同時に、ひょっとして律法学者やファリサイ派のように教会に来てその努めを果たしていれば良い。身の周りの人に関心をしめさなければ、自分の生き方だけをみて、と思っている人には厳しい警告になっていると思います。
  では神の、私たちたちが狭い戸口から入れと言われているのは、私たちがほっておけば、楽な道を選んでしまう、しなければならないことを分かっていても、ついついそれを後回しにしてしまう。これは自己実現でも言われていたが、社会に対して神のみ旨を実現するということに関しても、今私たちは何をすべきかということも、何となく感じていながら、敢えて傍観者の立場をとってしまう。もし、私たちがそれを日常の生活としているならば、今日の福音書を厳しくうめとらなければなりません。しかし、逆に多くのことに心を開いて、人々と交えているならば、弱さを持っていたとしても、神は受け入れてくださる。このことを理解しながら、互いに何をなすべきなのか祈って参りましょう。』