2016年8月10日水曜日

年間第19主日

この日のみ言葉は、「あなたがたも用意していなさい」と私たちに呼び掛けています。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の答唱詩編の答唱句である「神の 注がれる目は 神を おそれる者に 神の愛に 希望を 置く者の上に」
このみ言葉を、私たちは本当に心を込めて歌っていただろうか。そんなことを考えながら皆さんと共に答唱詩編を謳っていました。神の慈しみの目を感じることができるとすれば、それはみ言葉によると、神をおそれる人、そして神の愛に希望を置く人に対してだろうかと、そんなことを思ってこの答唱詩編を謳い祈っていました。そして皆さん一人ひとりは、どんな思いでこの答唱詩編を謳い、このみ言葉を味わい祈っているのだろうかと考えていました。そして、ただオウム返しのように繰り返し謳うだけではなく、神様の慈しみを私たちの心に感じることができないのかとそんな思いでした。

さて、今日のみ言葉は、「あなたがたも用意していなさい」と私たちに呼び掛けています。
先週と同じルカの12章で話されるイエスの弟子たちに対する話が今週も続いています。遺産相続を願い富や財産に目を向けた者にたとえ話をとおして「愚か者」にならないよう貪欲に対してよくよく警戒し「神に信頼し、御国を求めなさい」とイエスは言われました。貪欲な心を抑えて、神に信頼する一週間を過ごすことは出来たでしょうか。
昨日は、71年目を迎える広島の原爆投下の日でした。教会の鐘が鳴り響く朝8時15分、平和の重みを感じる朝となりましたが、原爆の犠牲者を思い、平和の鐘に耳を澄ませて祈った人はどれほどいたでしょうか。同じ時刻には平和の祭典であるスポーツのオリンピックが始まりました。

命の尊さ平和への願いは、尊く大切なものであると誰もが思います。だからこそ、安心して平和に毎日を過ごすために、老後の生活のことも心配になりますし、富や財産に執着してしまうのです。財産が命を保証するものではないと思いながら、信仰が未熟なため葛藤も生まれます。私たちが本当に神を信頼して神の国を信じようとしないならば、ますますこの世に執着することになるのではないでしょうか。
信頼の度合いは、「思い悩むこと」につながっているようです。イエスの言葉に耳を傾け信頼して、共にいてくださるイエスのその教えを生きることができるならば、私たちの心配も小さなものになるような気がします。しかし、日常生活に追われていると、イエスの教えよりも人の話の方が気になります。テレビやネットから流れてくる情報にも振り回されます。イエスへの信頼よりも、時には富や財産の方が大事なものに見えてしまうのです。
イエスは「おそれるな、あなた方の父は喜んで神の国をくださる」と呼びかけ、この世で消えてしまう富ではなく、消えることのない天に富を積みなさいと言われるのです。

平和旬間が始まりました。8月は日本にとって忘れることの出来ない歴史が蘇ります。いのちや平和の尊さを改めて考えさせられる月でもあります。平和を願い祈る私たちですが、戦争の悲惨さは薄れていくばかりです。平和の実現のために、また心からの祈りをささげるためにも、主に信頼し目覚めていることが大切です。
信仰において、目を覚まして私たちが用意しておくこととは何でしょうか?

私たちは共同体として一致し、ミサの中でも主の食卓を囲んでいます。そしてまた、助け合いながら教会でも食べたり飲んだりしながら信仰を生きています。それは神の心、神の意志を大切にする交わりがそこにあるということでしょう。昨日もボーイスカウトが発団してから39周年を迎える記念のミサを捧げました。昼は楽しいひと時を過ごし、冷たいソーメンをボーイのメンバーと共に楽しくいただき心も爽快になりました。そしてその日の午後からは、外国籍の人たちも多く参加した「夕べの会」でも楽しく賑やかな時間を過ごさせていただきました。

単純で明快な神の世界のあかしは、「持ち物を売り、貧しい人に施す」ことなのかもしれません。神にだけに向かって、神に希望をおいた貧しさの中で、希望を失うことなく生きるあかしがあるからです。
それは神に対する絶大な信頼が前提となるものであり、御国を求める心から始まるのです。御国は神の民が集まるのであり、私たちはその一人にすぎないのです。
イエスは弟子たちに、自分の全ての時間、力、思いを持って捧げ尽くすことを願いました。「目覚めていなさい」は、そのことを告げているともいえるのです。
「神に信頼し、御国を求めなさい。目覚めていなさい」

平和を願い祈る私たちですが、一人一人を見つめ招かれている神に、もう一度心を開いてその呼びかけに耳を傾けることができるよう祈りましょう。』