2016年8月28日日曜日

年間第22主日

今日のミサのテーマは、「謙虚な心」、「柔和な心」。
分の日頃の言動を黙想する機会としましょう。

今日の後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。


『皆さんは、今日のミサの中で語られたみ言葉のテーマに気付かれましたでしょうか?今日の祈りも、そしてみ言葉の中でも一つのテーマを考えることができるような気がします。先週の主日ミサから今日のミサまでの一週間の日々の中に、皆さんの言動に、へりくだる心はあったでしょうか?謙遜の心を見失うことはなかったでしょうか?今日はそういうテーマが私たちに語られています。
最初に入祭の唄を歌って私たちはミサを始めますので、聖書と典礼の下段にいつも掲載されている短い詩編である入祭唱の言葉は、あまり見ないままでミサに入ってしまう方も多いのではないかと思います。そこの中には「あわれみをわたしの上に。」という言葉がありました。この「あわれみ」は、謙虚な心にもつながっていくのではないかと思います。神に、あわれみを求めるためには何よりも必要なことは、「謙遜な心」、「へりくだる心」ではないでしょうか。第一朗読の中でもそういう言葉が出てきました。「何事をなすにも柔和であれ」。柔和という言葉にも共通する意味を私たちはそこに見ることができると思います。主に喜ばれ、受け入れられるためには「へりくだる心」「柔和な心」が必要だと聖書から呼びかけられています。その反対に「おごり高ぶる者」「高慢な者」というものが出てきます。そして「おごり高ぶる者」の心の中には悪が宿っていて、手の施しようもないということでしょうか。高慢な心が自分の心を占めているならば、救いようがないと言われるとするならば、私たちはもっと真剣に自分の言動というものを見つめなければなりません。私にとっても難しいもののひとつだと思っています。謙遜な心、謙虚な心を大切にしたいと思っていますが、エゴイスティックな心に支配されます。自分本位の考えが先に立ってしまって、高慢な心はすぐ自分の中から出てきます。知らず知らずに高慢な心が先になってしまうこともあるような気がします。

イエスは今日の福音の中で宴会の話をしています。食事を共にすることは人と人との交わりを深めることになり、とても有意義なものです。聖書の中でも度々イエスが食事をする場面が描かれています。イエス自身もおそらく食事をするということを人と交わるうえでとても大切だと考えていたのではないでしょうか。すべての人の友であるというイエス自身の生き方そのものを表すひとつの場として、食事も大切にされていたような気もします。そしてその食事の頂点に最後の晩餐があり、私たちのこのミサというものにもつながっているような気がします。その食事の席は、永遠の救いの喜びを分かち合う食卓を暗示するものといえるでしょう。私たちはこのミサの中で共に祈り、共に食すことによって、永遠の救いの宴会を先取りしているのだと思います。そういう気持ちでミサを捧げられたらいいなと思います。ですからこのミサにおいても席で争うようなことはあってはならないと思います。聖書の中での宴席の話の中では、上席を好む人がいて、その失態もどういうところから出てくるかということが話されます。

聖書のお話は食事をするためにファリサイ派の議員のある家に入ったイエス。イエスは招待客の様子をうかがいながら気が付いたことをたとえ話で私たちに語ります。結果として、「高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」。地位や富を持つ者は自分を優先して、地位の低い人や貧しい人を蔑むというのは、私たちの社会やそして自分たちの中にもそういう心を持っているのではないでしょうか。昔も今もそのような意味では変わらないような気がしますが、私たち一人一人はこの婚宴のたとえ話を聞いて、自分はどんな気持ちでそうした席にむかっているだろうか、ということを考えることも必要だと思います。

普通に考えるとイエスを愛する私たちの信仰は、熱心な信仰を持っているはずです。しかし、状況が変わると謙遜な心を忘れて、自分の十字架を負うことよりも、高慢な自分が優先してしまい、行動していることもあると思います。今日のみ言葉はそういう意味で教会と教会共同体にとって、一人一人がどう行動しているのかということを黙想する機会を与えてくれます。』


来週(9月4日)の主日ミサは教区100周年行事のため藤学園で行われます。