御ミサの後、聖堂において、2012年12月にカトリック住吉教会で行われた溝部司教様の待降節黙想会「ゆるしの秘跡について」を視聴し、ゆるしの秘跡について学びました。ゆるしの秘跡を受けることの大切さ、心のしこりを掘り下げていくと罪に由来しており、それを自覚し、神に告白して回心することが償いや救いにつながっていくというお話でした。視聴の後、しばし黙想し、10名ほどの方が早速ゆるしの秘跡を受けていました。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日のみ言葉、テーマをあげるならば、「神に奉仕する人々が受けるべき受難」とつけることができます。
第一朗読の旧約聖書では、預言者エレミヤの苦難が描かれていました。民の救いについて告げたエレミヤが泥の井戸に吊り降ろされる。そんな危険な目にあった話しが私たちに告げられました。また、第二朗読のヘブライ人への手紙では、私たちの目を信仰の創始者、完成者であるイエスの方に目を向けさせています。十字架を偲ばれ、罪人の反抗を耐えた方を考えさせています。そして、あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありませんと、最後の一説は述べています。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。今日、たまたま、ミサの後、「ゆるしの秘跡」を学ぼうとしている私たちの教会ですが、今日のみ言葉は、そのゆるしの秘跡とも繋がってくるような内容を私たちに語っています。 今日の福音のみ言葉はそれに呼応しています。最初にイエスが言われます。私が来たのは地上に火を投ずるためである。地上に火を投ずる。平和とは少しかけ離れた表現がそこにあります。ですから、私たちはどういうことなの、どいうことなのだろうかと疑問を感じるような気がします。何とも腑に落ちないイエスのみ言葉が語られるのです。何故イエスは火を投ずると言われるのでしょうか。火を投ずるということは不安な状況が起こるような気がします。平和について語ってきたはずのイエスが、平和ではなくて分裂や対立、混乱をもたらすため来たと話しているのはどういうことでしょうか。分裂、対立、混乱。平和旬間を今、歩んでいる私たちですが、平和とは異なるような状況をイエスは話されます。イエスを受け入れない人、平和を拒否する人は、現代でもそうであるように当時もまた、大勢いたということを物語っているような気がします。ですから、イエスが言われる平和を私たちはもっともっと掘り下げてみる必要があるような気がします。
私たちの甘えでしょうか。私たちの傲慢さの故でしょうか。神を信じると言いながら、イエスの教える平和が素晴らしいと言いながら、私たちの行いはその教えから時にはあまりにも離れていることが多いのではと思います。イエスの教えをはっきりと理解しているにもかかわらず、私たちの行動や言葉、それはイエスの教えから離れている。イエスを受け入れない人たちに対して、昔も今も、きっとイエスは厳しい言葉を投げかけるような気がします。時々、私も信徒の皆さんに厳しい言葉を投げかけることがあります。そうすると厳しいことだけを取り上げてしまう、そういう受け方をする人もいます。でも、聖書でみるとイエスも時にはとても厳しい、恐ろしい言葉さえ弟子たちにも話されています。それは何故でしょうか。本当に神を信じているのか。本当に救いを望んでいるのか。神の教えを人間として生きようとしているのか。そのことをきっと強く望んでいるからだと思います。
私たちにはイエスを受け入れるか否かの決断がせまられるようです。それが私たちの信仰でもあるようです。火を投ずると聖書で言われていますが、ミサの解説にもあるように、火は聖書では終末的な聖霊の降臨を表していると考えられています。火は聖霊を表す。そして、その火は私たちのもとにいつも届けられる。降り注がれている。イエスは言います。 私に近い者は火に近く、私に遠い者は御国からも遠い。その背景には私たちがいつも唱えている、「いと高きところには神に栄光、地には御心に適う人々に平和あれ。」こういう言葉も思いおこされます。御心に適う人々に平和あれ。御心を私たちが日々生きているかによって平和が訪れる。み言葉に背くような生き方をしていれば、平和はいつまでたってもその人の心にも、その人の周りにも訪れることがない。神の教えに従わず、み言葉を受け入れることのない人には、家族の中にあっても一致することは難しい。信頼に欠けて対立することが多く、家族の中でも争いを起こしてしまう。私たちがイエスを通して、また聖書のみ言葉を通して教えられていることを、ひとつひとつ大切にして自分の信仰を深めているか。そのことが今日の私たちの黙想のテーマにもなってくるかと思います。その黙想によってゆるしの秘跡とも繋がっていくような気がいたします。昔も今も、それは日常生活の中で大切にされなければならないメッセージだと思います。
家庭だけでなくて教会の中でも同じ事が言えるようです。イエスを拒否する人は裁きの火となり、争いや分裂がそこから起こってくる場合が多いということです。イエスを受け入れる人には清めの火となって聖霊の力によって心に平安がもたらされ、私たちの共同体にも社会にも平和がもたらされるということ。イエスの厳しい言葉の中には、神の審判が下される前にイエスと一致する平和の道、それが人間の歩むべき道であると教えているようです。厳しさだけに目を留めるのではなく、その厳しい言葉の背景にイエスの深いメッセージと御心があるということを、私たちは気づかさせてもらわなければと思います。
ゆるしの秘跡が恵みであるというのは、私たちに反省、後悔があり、人を愛し、そして人にゆるしをもって接している、そういう人としての道を歩んでいるかを教え、気づかせ導いているからだと思います。ゆるしの秘跡に与る、本当に心から神の恵み、いつくしみを感じる人はそのことに気づかされていくのだと思います。
私の部屋の壁に掛けてある月のカレンダーがあります。そこには「ゆるしと平和は神様からの贈りもの」というテーマが掲げられています。神様からの贈りものというと、私はいつも自分の中で待降節、降誕節のその時期にイエス様がこの世に遣わされ、私たちのもとで生まれる。イエスが私たちに贈られたことを、神様からの贈りものと、私はいつも感じています。そのイエスは、ゆるしと平和を私たちにもたらすために来られた。それゆえに、また神様からの贈りものだといえるのだと思います。
8月。いのちの尊さを考え、平和の祈りを捧げる月でもあります。聖母被昇天を祝う前に私たちの信仰を見つめて、イエスの心によりいっそう一致するように、神の恵みを願いたいと思います。そして、神の母であるマリアのそばにいつも霊的に近づき、歩むことができますように。』