2017年3月5日日曜日

四旬節第1主日

ミサ中に16名の方々の「洗礼志願式」が行われました。復活祭の日に、皆さんが揃って洗礼の恵みに与れることができるよう祈り支えましょう。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『3月1日、私たちは「灰の水曜日」を迎え、四旬節の季節に入りました。キリストの受難と死を思い起こす季節を迎えて、主の復活を待ち望み、私たちはその準備に入ります。
信仰を願い、神の子となるための勉強を続けてきた求道者がいます。そして、待ちに待った洗礼でしたけれども、洗礼志願者として今日このミサの中で神の子となる決心を表明しようとしています。喜びと希望を胸にしていることだと思いますが、不安と緊張もきっとあることでしょう。この求道者の人々は私たちにとって教会にとって、神からの贈り物ではないでしょうか。感謝のうちに私たちの教会に喜んで迎え入れ、神の民の家族として共に支え合い、祈りに結ばれて歩むことが出来るよう、今日は特別に心より祈りたいと思います。

さて、今日のみ言葉に心を向けます。福音ではイエスの受けた誘惑が語られています。
第一朗読では、エデンの園で人祖であるアダムが蛇の誘惑を受けた、そのような場面も語れました。
福音朗読では、「荒野で四十日間、昼も夜も断食し空腹を覚えた」このイエスの姿は、教会が呼び掛ける四旬節の精神でもある犠牲や節制にも繋がる物語になります。
四十日の断食。一日でも大変な、そして一食でも自分で意識して行おうとすると大変なことだと思います。飢えと渇きの極限状態になると、誘惑は誰の心にも忍び寄ってくるはずです。
私はこの飢えと渇きを想像するときに、現代の世界に見られる飢えや貧困に置かれている人たちのことを重ねて思っています。極度に厳しい生活に置かれた人々もまた、苦難の中で誘惑と戦っているに違いありません。イエスが悪の誘惑と戦ったように、いやそれ以上に貧困状態にある人々の苦しみは、私たちの想像を超えるものだと思います。
教皇フランシスコのメッセージを掲載してカリタスジャパンの四旬節募金がすでに始められています。皆さんはこの小冊子を手に取られたでしょうか。まだお取りになっていない方は、受付においてありますので是非手に取って、教皇様のメッセージを受け取り、行動に移されたらよいと思います。
四旬節を歩む私たちは、どのように愛の業を生きようとしているでしょうか。その呼びかけにどのように応えられるでしょうか。私たちにも試練を与えるこの愛の業、私たちは愛の業を実践する試練をきっと考えなければいけないのだと思います。黙想しながら、私たちの愛の業を考え、前に進めるように力と勇気を神に願い続けたいものです。

イエスに対する三つの誘惑から黙想して、私たち自身を見つめることもできます。「誘惑」は「試み」という言葉にも置き換えることができます。
私たちが大切にしている「主の祈り」の中では、「われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え。」と祈っています。今日、私たちが聞いた聖書のお話も、試み、試練というものが描かれました。アダムの受けた試み、エジプト脱出でのイスラエルの民が受けた試みが、私たちには印象的に残っています。そして、今日のみ言葉の中でイエスの受けた試み誘惑・・・・。聖書の中ではたくさんの試練・誘惑というのものが描かれています。
私たちはイエスの十字架の死に与るために、私たち一人ひとりもイエスの試練に倣い、その苦しみ・艱難、それを乗り越えて勝ち抜こうとして歩んでいます。神の力を祈りながら、神の助けを願いながら、私たちはその苦しみを乗り越えようとしています。避けることの出来ない苦しみも時には私たちの前に立ちはだかります。神は私たちが願うならば、必ずや助けを与え、その試練を超えられるように、私たちに力を貸してくれます。そのために私たちは心からの祈りを捧げなければなりません。
私たちは現実を見つめながら、自分の前に立ちはだかる誘惑・試練をどのように考え、受け入れ、それを超えていこうとしているでしょうか。
誘惑をきっぱりと断つ勇気ある姿をイエスは私たちに見せてくれています。私たちはどうでしょうか。利己的な生活、不平不満の生活に明け暮れてはいないでしょうか。つぶやくばかりの現実を反省しなければならないかと思います。そのためにも、誘惑を断つ勇気ある生活を私たちはもう一度見つめ直す必要があるでしょう。
悪魔の誘惑は巧みなもののようです。イエスが受けた誘惑それは、神殿の頂から身を投げるという試みをさせています。イエスはそれに対して敢然と答えます。十字架に架けられた時も祭司長達から「神の子ならば自分を救え」と叫ばれましたが、イエスは沈黙の中でひたすら父なる神に祈っていました。神への信頼を見失い、自分を優先させる場合の多い私たちですが、主を試みることなく信頼を深める私たちの信仰でありたいものです。
富や名誉、快楽が神よりも魅力となれば「二人の主人」に仕えることになります。こうした誘惑について、ある宣教師は「中年の誘惑」と名付けたそうですが、年と共に起こってくる誘惑も私たち人間には必ずあるようです。「あなたの神、主に仕えよ」というイエスの言葉は、神の子の選択となります。私たちは神の子として生きることを心から本当に望んでいるでしょうか。

四旬節を迎えて、主をさらに深く求めるよう招かれています。聖書からの呼びかけはそのような意味で「歩むべき道しるべ」を私たちに黙想させてくれます。個人的に祈る時間を過ごすことも大切です。また、私たちが神の民として、教会共同体として一緒に主を求め、互いの歩みを共有して、支え合う祈りも大事になってきます。
私たちが願い探し扉を叩くとき、それは必ず叶えられるとイエスが約束したことを私たちは忘れないようにしましょう。希望を見失うことなく主を信頼して、何度も何度も繰り返し願い、祈りを捧げて、私たちの歩むべき道を進むことができると思います。
「今こそ、心から私に立ち帰れ」と呼びかけられています。罪の赦しを求め、神のもとに再び帰ることができる恵みがあるということ、赦しの秘跡が教会にはあるということも思い出すようにいたしましょう。
主の復活に向う四十日という四旬節の日々を過ごす私たちですけれど、それぞれの生き方を顧みながら自分の信仰を見つめ、キリストの信仰に従うことができるように、今日もまた主の祭壇を囲んで祈りたいと思います。』