2017年3月12日日曜日

四旬節第2主日 ー 四旬節黙想会 ー

復活祭に向けて、私たちの信仰生活を見つめ深めるため、マリア会 冨来正博神父様を講師にお招きし、ミサ後に四旬節黙想会が行われました。


2017年3月7日付のカトリック新聞第一面で、取り上げられていました福岡県大刀洗町の今村教会で行われた「今村信徒発見150周年」記念行事。この2年前に行われた大浦天主堂での「日本の信徒発見150周年」記念ミサは私たちの記憶にも新しいところですが、その奇跡的な出来事の陰に隠れ、今村の信徒発見についてはあまり知られていませんでした。
今日の冨来神父様の黙想会では、日本におけるキリスト教伝来の歴史を中心に、修道会による中国と韓国の宣教活動を交えながら、大浦天主堂での「信徒発見の奇跡」の2年後に、筑後地方の今村で再び信徒が発見されるまでの出来事と歴史的背景についてお話いただきました。

カトリック今村教会

この日の主日ミサは、冨来神父様と後藤神父様の共同司式で行われ、冨来神父様がお説教をされました。



冨来神父様のお説教をご紹介します。
『今日の福音は、イエス様の変容の箇所です。第一朗読、第二朗読を通じて「召し出し」あるいは神から呼ばれてある使命を託された人々のお話が載せられています。アブラハムは父の家から離れて、何処に行くか分からないけれども、神がお示しになる場所に行きなさい。そして、永い旅をいたします。使徒の弟子たちもキリストからある使命を託されて、それぞれの仕事に派遣されます。
  私は永いこと学校(光星中学、高校)で働いていましたので、この時期になると卒業それから入学という行事が行われて、喜んだりあるいは悲しんだり、いろいろな感情に襲われることがありますが、永年手塩にかけた生徒たちが希望する大学に合格すると非常に嬉しくなって、あたかも自分が大学に入ったような気持ちになっていっしょに喜びます。ところが希望する大学に入ることが出来ない、浪人する。そうなると慰める言葉も力が入らない。自分自身、落ち込むことが良くあります。ですけれど、大学に入るということは、これで人生がすべてであるということは誰も考えていないのですが、あたかも人生の終着点というような感じに捉えられて、そして喜ぶ人、悲しむ人、それぞれです。
 ところが大学の4年間、あるいは6年間、勉学してそれぞれの仕事につく。そのとき、学校ではひじょうに優秀な成績を治めたはずなのに、希望する職業につけないというような人もたくさん出てきます。それで、大学入学時に味わった喜びとか悲しみをまた繰り返すことが多々あります。そのように、私たちの節目、節目で喜びや悲しみやがっかりした気持ちに襲われることは良くあることです。神様が私たちに与えてくださった一つの使命があると考える時、私たちはそれぞれの節目、節目で感じることがらは二次的なもの、三次的なものと思えるのではないかと思います。
 本当に私たちが何をするように召されていたか。そのことを考えるということは、優れた仕事だとは思いますが、この四旬節の間、人生についてどのような生き方をすれば良いか、私たちが関わっていることがら、仕事とか、あるいは人間関係とかそういうものを本当に神様が望まれているような心構えで果たしているかということを考えることが、四旬節の大きな仕事のひとつだと考えています。

  四旬節が始まってまもなく2週間になろうとしています。この間、私たちは神様が召された役割、私たち一人ひとりに果たすことをお望みになている、その神様の思し召しをゆっくり考えてみたいと思います。そして、ただ通過点である事柄に一喜一憂することなく、本当に私たちが心をこめて尽くさなくてはならない。その事柄を良く理解したいと思います。イエス様が姿を変えて本来持っている姿に光輝いている。そのイエス様の姿を見た弟子たちは喜びのあまり、何と言ったら良いか分からなくて、三つの小屋を建てましょう。そして、その喜びがずっと続くように、そう叫びました。イエス様はモーセとエリアと話し会われた後、書かれていますが、ルカの福音書によればイエス様が交わされた会話の中に、モーセ、エリア、そしてイエス様のお三方が話された内容は、数日あるいは数十日のうちにエルサレムで果たされなければばならない事柄を話し合われたと、ルカは書かれています。すなわちイエス様の御受難を話し合われていたことですが、イエス様が果たされなければならない御父のみ旨。それを召し出しということも出来ると思いますが、その御父のみ旨を果たすためには、ただ単に光り輝く喜びの姿ばかりではなく、その本当に喜び輝く復活の姿を現すためには、御受難の時期を通らなくてはならないとルカ福音書は暗示しているのではないかと思います。
 私たちもそれぞれ役割を負わされている。その役割がどのようなものであるか、それを捜すために私たちは祈り、考えそして努力するわけですが、それはイエス様が通られたように御受難の季節、御受難の機会をとおして初めて達成されるものと考えることが出来ると思います。

 私たちの1年の永い期間の中で40日という修行の期間がすなわち、私たちが果たされなければならない使命、役割を十分に考え反省し、そして祈り。その時期だと思います。四旬節の修行をそのように捉えることも出来るのではないかと思います。イエス様と同じように、捧げなければならないもの、そして、そのあとに父なる神様が私たちに与えてくださる喜び、それを考えながら、この四旬節を過ごしていきたいと思います。』