四旬節A年の第3主日から第5主日の福音朗読は洗礼志願者のための朗読箇所が読まれます。
お説教の後に洗礼志願者のための典礼が行われました。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『昨日テレビで、春の選抜高校野球が明日開幕するというニュースを見て、もうそんな季節が来たのだと感じていました。
ある時の開会式の宣誓では高校生がこう話していました。「人は仲間に支えられることで、大きな困難を乗り越えることが出来ると信じています」と。
この宣誓の言葉が球場に響き渡り観衆が大きくどよめいたのは、大震災があった直後の大会でのことでした。恐らく同じ感動と共鳴の気持ちで声が上がったのだと思います。高校生が、信じること、そして行動し、生きることの素晴らしさを宣言して、野球ファンならずとも心を打たれ感動する場面がそこにありました。そのような青春の汗と涙の姿を、テレビ画面を通して見ることを楽しみにしています。そして改めて、その宣誓の言葉を噛みしめています。信じること、そして行動すること、今日の聖書のテーマの中にも隠されているような気がします。
今日の聖書のお話は非常に長い内容でした。
まず、今日の聖書にも出てくる「サマリア」のことに触れてみたいと思います。2000年前の当時、ユダヤ人はサマリア人のことを異教徒と考えていました。
その経緯について少しお話します。サマリアは北イスラエル王のオムリが築いた都でした。ところが紀元前721年にアッシリアの攻撃を受けて陥落してしまいます。そこに住んでいた人々は捕囚の民となりました。それでアッシリアからの移民が移り住んだ街というように受け止められるようになりました。
この時、イスラエルの王国に残ったイスラエル人と移民の間に生まれた人々は「サマリア人」と呼ばれるようになりました。そのような中で、代々守られてきたイスラエルの信仰が崩れ始めたとユダヤ人は考えます。ですから自分たちとは宗教が異なる異教徒というように見ていました。熱心なユダヤ教徒にとっては汚れた地になってしまったということになります。ですからその地を通ることも避けていました。あえて遠回りをして避けていたのが当時の社会状況でした。
イエスがそのような時代に、このサマリアの人と話をするということは驚きです。罪に汚れている異教徒の民、その人たちと話をしているイエスに皆、戸惑ったというのが背景にあります。現代ではユダヤ人と和睦して、ユダヤ教の一派として、サマリア人の信仰も認められることになっています。
聖書の話に戻りますが、ガリラヤに行く途中、サマリアを通ったイエスは、旅の疲れを癒すために「ヤコブの井戸」の側に座っています。井戸は深く、汲むものを持っていないイエスは飲むことが出来ず井戸の側に座っていました。
「ヤコブの井戸」というのは旧約聖書で記されているヤコブがその子ヨセフに与えた井戸でした。イスラエルの民にとって、そしてユダヤ人にとってもこの井戸は、先祖から大事にされてきた井戸でありました。
イエスは水を汲みに来たサマリアの女性に声をかけました。「水を飲ませてください」そこから話が展開していきます。声をかけられたサマリアの女は、当然イエスをユダヤ人だと思ったことでしょう。
「ユダヤ人であるあなたがどうして私に頼むのですか?」声など掛けられるとは思いもしませんでした。普通は避けられていたことでしょう。かつては同胞でもあったサマリア人、でもいつの日か民族が混じり合い異教化していたため、ユダヤ人から軽蔑され交際がなく、敵対視されるほどの関係となって、神殿にも入ることができない状態でした。一方、ユダヤ人は純血を守っているという自負があり、混血民族であるサマリア人を蔑んでいました。
そのような関係でしたから、サマリア人はゲルジムの山に自分たちの神殿を建て、自分たちの信仰を守っていました。先祖が同じで昔は同じ信仰を生き、救い主を待ち望んでいたサマリアの人たち。
イエスはそのサマリア人の一人に声をかけます「神を知るなら」。そして「渇くことのない水」について話始めます。渇くことのない水、それは誰もが求めるものです。ましてや砂漠に生きる人々にとっては、どれほど渇望するのものなのかということは容易に想像できます。水の権利を守るために争い、血を流す戦いも度々起こっている当時のことです。
イエスは水について話始め、「渇くことのない水。永遠のいのちに至る水」があるということについて話されます。日々の生活の水を得るために、どんなに遠くからその水を求めてやってきたことでしょうか。過酷なものであったに違いありません。それを考えると「渇くことのない水をください」と願うサマリアの女の気持ちも理解できます。
サマリアの女の人からイエスの話を聞き、霊と真理を礼拝することに目覚めたサマリア人がイエスの元にやってきます。そして彼らは自分の耳で聞いて心に受け止めて「この方こそ本当の救い主である」と宣言するようになります。聖書はこう記しています。
渇くことのない水は、神の子イエス・キリストから与えられるもの。パウロは今日の第2朗読で、キリストによって平和を得ていること、希望を与えられることを誇りとすると宣言しています。それは聖霊によって私たちの心に注がれているものでもあり、神がキリストを通して示した愛そのものでもあると言えると思います。
イスラエルの民は、この平和、希望、愛を求める民でした。しかし、長い信仰の旅を続けることによって、争い、怒り、不満が生じ、神に対しても心を閉じ、頑なになってしまったのです。
心が渇いた岩のようになるとき、焦りを感じたとき、平和や希望はどんどん自分の心から薄れていきます。そして私たちの焦りの気持ちは、時には言いたくもない言葉になって口から出ていくときがあります。
愛もまた変わっていきます。いつもなら落ち着いてやさしい愛を示すことができたはずなのに、心が渇いて頑なになったときには、その愛も冷たいものに変わるときが度々あると思います。
私たちの神はそしてイエスは、いつでも平和と希望そして愛で私たちを満たそうとしてくださいます。私たちはそのようなイエスにもう一度、心を向けてこの四旬節を歩みたいと思います。
神の恵みをそして神の働きを思う時、私たちはいつも感謝の心を持つことができるはずです。その感謝の心は、神への賛美であり、神への礼拝であり、そして人々に対する奉献という行動につながっていきます。私たちの四旬節、もう一度その精神、四旬節の心を思い起こして歩みたいと思います。
先週、洗礼志願者を紹介しました。入信へと招かれた志願者は、いくつかの段階を経て、一歩一歩キリストに近付いていきます。祈りと礼拝の共同体である私たちの教会の中で、教会全体の祈りに支えられて、神の恵みの中に洗礼志願者が成長していくように皆さんと共に祈りたいと思います。』